最終話『最後の夢』
その日、目が覚めると、ものすごく気分が落ち着いていて、目に入ってくる光景すべてが輝いて見えていた。
太陽の光。空の青さ。外で鳴く蝉の声。全てが愛おしかった。
僕はポケットの中身を確認し、少しだけ安心する。『あぁ、やっぱり今日が来たのか』と実感する。
携帯電話を見て日付を確認する。間違いようもない。今日は8月20日だ。
来るはずのない連絡を心のどこかで期待し、メールボックスを確認する。やっぱり空だ。
僕は僕の決め事のため、旅に出た。夢の中では桜花と色々な場所に行き、色々な人と出会い、色々な体験をして色々なものを食べる一方、僕は‘現実’で一人、旅を続けた。彼女の好きな音楽を聴いて、彼女が好きな飲み物を飲み、彼女が好きだった本を読んだ。
少しでも佐伯桜花と言う人間を理解するために僕は努力をした。でも、何をしてもどこに行っても、僕は“こんなものか“としか思えなかった。彼女に同調して感動することはなかった。その理由は簡単だ。もう、僕は理由を分かっている。
携帯電話を机に置き、洗面所に向かう。顔を洗って鏡を見ると、酷くやつれた顔をした自分の顔が映りこむ。でも、どこか嬉しそうな顔にも見えた。
歯磨きをした僕は自室に戻り、服を着替える。1年前と同じ服だ。もちろん、ポケットの中身を移動させることを忘れない。
服を着替えた僕は自室を後にし、ゆっくりと階段を下りてリビングに入る。そして、その光景を目に焼き付ける。テレビとテーブル、そしてソファ。もう何年も見てきた光景だ。そんな当たり前の光景が輝いて見えた。
僕はリビングと繋がっているキッチンへと向かい、棚からコップを取り出す。透明なグラスに水道水を3分の1ほど注いで口に運ぶ。カルキ臭いだけの水道水がひどく美味しく感じられた。
グラスをシンクに置いた後、僕はゆっくりとソファに向かって歩き出す。何のブランドでもない安物のソファだ。
ソファの横辺りまで歩いた僕は、ポケットの中に入っているものに触れる。嫌な冷たさをするそれは、僕の前日までの高鳴る気持ちをすべて吸い取っているかのようだった。先ほどまで高鳴っていた胸の鼓動はいつの間にか静かに収まり、額には冷や汗が出てきていた。
僕はかつて諦めたことを再び行おうと、桜花が死んだ時から決めていた。
僕を生かし続けたのは桜花との約束ではない。僕自身が決めたものが。僕自身が切り捨てられなかった運命が僕を生かし続けた。
桜花との約束はただの口実でしかないし、一種の暇つぶしでしかない。いや、僕の決め事を正当化するためのものでしかない。
ただ、僕が桜花を好いていたことは事実で、これは疑う余地もない。
僕は彼女に憧れていた。彼女のような強い人間になりたかった。それ以上でもそれ以下でもない。
僕はポケットから嫌な冷たさを放つ塊を取り出し、左の首へとあてがう。桜花が購入し、自殺に使ったものと同じペティナイフだ。首にそっと触れているそれの影響か、先ほどまでの気持ちが嘘のようになくなり、呼吸が荒くなる。
僕はためらった。多分、人間という生物の本能的な反応だろう。
彼女との思い出を少し振り返る。彼女の笑顔を思い出す。僕はたっぷりとためらった後、思い切って右手をスライドしようとした。
その時、うつむいた僕の視界の端に、誰かの姿が映った。
ゆっくりと顔を上げていく。見たことのある真っ白なワンピースが目に入った。
僕は微笑み、言葉を選び、‘愛しい少女’へ向けて、憧れた少女へ向けてその言の葉を投げかけた。
「さっきぶり」
僕の言葉を聞き、目の前に立つ佐伯桜花は悲しそうに笑いながら「やっぱり来たんだね」と答えた。
そして、桜花は両目に涙を浮かべながら続けざまに声を発した。
「また、自殺するんだね。」
その言葉で頭に響く機械音が遠のいていく。世界から切り離されているような感覚に少しだけ吐き気がする。僕の頭に響く『ピッ…ピッ…』という機械音は、もう僕の世界に馴染んでしまっていた。それが消えていくのだから、僕には今のこの瞬間が現実味のないものに感じられる。
僕と桜花は互いに歩み寄る。蝉時雨が心地よく耳を刺激するこの部屋で、僕と桜花はわずか50センチほどの距離まで互いに近づいた。
互いに見つめ合い、次第に蝉時雨が意識の外に外れていく。桜花は涙を浮かべた双眸で僕の瞳をしっかりと捉えながら、口をキュッと結んだ。そして、少しだけためらった後、桜花は痣がありながらも繊細で綺麗な手で、あまり身長の変わらない僕の頭を撫でてきた。
そして、桜花は優しい声で僕に問う。
「ねぇ。宿題の答えは見つけられた?」
僕は桜花の質問に対して、無言で頷いた。嘘だ。答えなんて見つけられていない。それでも目の前で涙を流す虚像の桜花に笑って欲しくて、僕は嘘をつく。
桜花は僕の頭から手を話、涙を拭ってから「エヘヘ」と気持ち悪い笑い方で笑う。それでもなお瞳に滲み、こぼれようとする涙を何度も拭いながら、桜花は語り出した。
「私はね。私じゃないんだよ」
僕は彼女の言葉をしっかりと噛み締めるように聞く。これが…最後の会話だから。桜花と会う事のできる最後の機会だから…
「私は君の想像する君でしかないんだよ」
「うん」
「だからね、私は私じゃないんだ」
「うん」
「じゃあさ、なんで私が君の前に来たかわかる?」
「わからないよ…そんな事」
「そっかぁ」
桜花は少しだけ眉をひそめる。
「じゃあ、言い方を変えるね」
桜花はそう言うと、手を後ろで組み、体の向きを180度回転させる。僕と向かい合っていた状態から、真逆へと体を向ける。そのアザだらけのか弱い体を僕から逸らすように。
「ねぇ。光助くん。どうして私は、‘現実であるはず’のこの場にいる事ができているの?」
桜花は肩を震わせながら、涙声で声を絞り出す。
「それは……」
僕は少しだけ言葉に詰まってしまう。でも、その答えを僕はもう知っている。気づいてしまっている。本当は言いたくない。もっと桜花と一緒に過ごしたい。だけど、僕にはもう時間がない。だから、少しだけ戸惑ったけど僕は理由を口にする事にした。
「それは、僕がもう死んでいるからだよ」
あまり要点がまとまっていない言葉を僕は桜花に渡してしまう。桜花は小さな声で「違うよ」と答えた。そして、そこから黙り込んでしまった。
僕は桜花が話し始めるのを待ちたかった。僕を否定する桜花の言葉が僕らの交わした最後の言葉になって欲しくなどなかったから。でも、僕にはそれを待つほど時間は残されていない。だから自分から話し始める事にした。
「世界五分前仮説ってしってる?」
桜花は反応してくれない。
「世界5分前仮設っていうのはね、言ってしまえば、今の世界が昔からあるという確証はどこにもないだろ?って話なんだよ。」
彼女は僕の言葉を聞き、「知ってるよ」と答えてくれた。
「君なら知っていると思ったよ。だって」
「その話は私が前に君に語った話しだから」
僕は桜花のその言葉に微笑みながら頷く。そして、二人で同時に言葉を放つ。かなり昔。いつかもわからないほど昔。桜花から聞いた突拍子もない言葉を僕たちは放つ。
「「この説が本当に言いたいことは『私たちがいる世界は本物なのか』という問いかけじゃないかと思っている」」
僕はやっぱり桜花の言っていることが理解できない。
桜花が理解できない。僕は彼女にはなれない。
「ねぇ。君が生きているこの世界は本物?」
不意に桜花が問いて来た。そして続けざまに、「また、自殺するんだね」と、先ほどと同じ問いを投げかけてくる。
僕が、桜花が好きだった光景を見て、桜花が好きだった食べ物を食べ、飲み物を飲んで本を読んだことにも、初めて見たはずの光景に対しても、何も感動しなかった事にはしっかりとした理由があった。心を動かされることがなかった事には明確な理由があった。
僕はこの事実にいつ気づいたかは覚えていない。きっと、長い旅をしている最中、徐々に気づいて行ったのだ。
そう、僕が初めてみる光景に既視感を覚えていた事は、心を動かされる事がなかったのは、“僕が全ての事象に対し、一度同じ経験をしているから”だ。だから大体のものに既視感があった。
桜花が死んだ時、泣くことができなかったのもそうだ。僕は桜花が亡くなるのを一度経験している。夢の中で桜花が自殺をしたことも、僕はこの場面に一度出会っている。そして何より、僕は自分が自殺を試みようとしている今この場面まで既視感を覚えている。この場面を“すでに一度経験している”。
それはなぜか。説明の必要なんていらない。僕はさっき答えを述べたから。『僕がもう死んでいるから』と述べたから。
僕が自身の脳内で情報の整理をしていると、桜花は唐突に「違うよ」と言った。何に対しての否定だろうか。そう考えていると、桜花は「光助君はまだ死んでない」と言った。
「光助くんは自殺をしたよ。でも、死んではないんだよ」
美しさと可愛らしさを兼ね備え、凛と芯の通った声を持つ桜花はゆっくりと口を開き、僕自身が心のどこかで気づいてはいるが、見て見ぬ振りをしている事実について語り始める。
「光助くんはね。自殺をしたんだよ」
そう、僕は自殺をした。だから全てはもう遅かった。
僕はもう自殺をしているのだから。
君と同じように、
自らの首に
真紅の華を鮮やかに咲かせて。
桜花と同じように、赤の噴水となって・・・・・
僕は死んだ。そう思っていた。
「光助くんはね、確かに自殺をしたよ。でもね、君は夢を見ていたんだ」
僕と同じように要領を得ない桜花の言葉を、その意味を僕は汲み取る事ができた。
桜花は再び僕の方へ向き、「どうだった?長い長い、とても長い夢の旅は。過去の繰り返しは」と問いかけてくる。僕はその言葉に、しっかりと返事をする。
「楽しかったよ。君ともう一度出会えて、生きることができただけで十分に楽しかった。」
「あはははっ。嬉しいなぁ。でも、まるで死ぬ人間みたいなこと言うね。」
「なにもおかしな事は言ってないよ。まぁ、君はもう死んでいて、僕ももう直ぐ死ぬんだから、死ぬ人間みたいな言葉を言う方が“らしい”よね。」
微笑む桜花から僕は視線を外し、天井を見る。僕は長い夢を見ていた。とても長い夢だ。
その夢は、何も僕だけが見るものじゃない。全ての人間が必ず見る夢だ。
人生の終わりの時、全てを振り返るように見る長い長い夢。全ての人間が見る人生で最も完成度の高い夢。僕が見ていたのは、そんな夢だ。
次々と場面の切り替わる走馬灯にもたとえられる、人間が最後に人生を振り返るための夢。僕は人生の“最後の夢“を見ていた。
僕は全てを観念したように桜花を再び見る。
「ねぇ、走馬灯って、死ぬ直前に見るものだと思ってたよ。」
「走馬灯っていう言葉の意味が違うよ」と言いながら、彼女は小さく笑う。桜花はそのまま僕に近づいてきて、僕は彼女に歩み寄って行って、互いの体を抱き寄せた。桜花の顔が僕の左肩に乗り、僕の顔が桜花の左肩に乗る。
これは、決して恋ではない。人間が人間に憧れ、影響される。それだけの話。だからきっと僕は桜花と同じ死に方を選んだのだろう。
「案外、こんなものなんだよ。人生をもう一度送り直し、振り返る。それが君の言う走馬灯なんだよ。正確には意味が違うけどね」
「走馬灯っていう言葉の意味も使い方も違うことは分かっているから、もうその話はやめようよ」
僕は自らの間違いを何度も指摘され、少しだけ恥ずかしい気持ちになる。
しばらく僕たちは無言で互いの体温を実感し続けた。僕の前に笑われた桜花は確かに虚像だ。人生を振り返る僕が無意識に生み出した情報の塊でしかない。それでも確かに彼女は暖かかった。たとえ虚像でも、桜花は桜花だった。
僕たちはテレビから朝のニュース番組が流れ出したのを合図に、互いの体を離した。
「…もう時間だね」
桜花は涙をこらえながら、必死に笑顔を作りながら最後の時が来たと告げてくる。
「うん」
「じゃあ…待ってるね」
桜花はそう言いながら、僕から距離を置く。
僕は自分から離れていく桜花に名残惜しさを感じながらも、跪いてナイフを首に添えた時と同じ姿勢で跪く。僕の前には、いつの間にかてからこぼれ落ちていたペティナイフが不自然に置かれていた。僕はそれを手にとり、首にあてがう。
「ねぇ、光助君。そろそろ、目を覚ます時だよ。君がたんぱく質の塊になるのはまだ早い。」
桜花は僕の様子を見ながら優しく微笑んで言う。そして、僕がずっと気になっていたものの正体を僕に告げる。
「ねぇ、耳を澄ませてみて、何か聞こえない?」
桜花に促されてようやく気が付いたが、先ほどまで聞こえなくなっていた不思議な機械音が再び頭に響き始めていた。
「それ、なんの音だと思う?」と、桜花が機械音について、聞いてくる。
そして、僕は答えられない。さすがにこの音の正体までは気づく事ができなかったから。
僕が桜花の問いに答えずにいると、桜花は嬉しそうに話し始めた。
「何度でも言うけどね、君はまだ死んでいないよ。これは長い夢を見ていただけ。まだ死んでいない。この音は病室の心拍を計る機械の音、君はまだ生きているんだよ。」
彼女の言葉に唖然とする。そして、‘なるほど’と思う。
「じゃあ、僕はまだ生きているんだね」
僕が聞くと
「だから何度でもそうやって言っているじゃない」
と、桜花は頬を膨らませた。その愛しい姿を目に焼き付け、僕は桜花に「もう行くよ」と告げる。桜花は「うん」と言うだけで、僕を止めることはしない。
そろそろこの長い夢から目覚めなければならない。いつまでも魅力的なこの世界で生きていくわけにはいかない。
「桜花との約束もあるからね」
僕は精一杯微笑む。
僕は今まで何度も夢を見てきた。現実で眠ると夢の中に行くことができ、夢の中で眠ると現実に戻ることができた。でも、僕は現実でベッドの上で目をつむり、眠ってこの長い夢を見始めたわけじゃあないんだ。ここで眠ったところで、現実には戻れない。また、夢の世界に行ってしまう。
でも、僕は別に眠ることで夢と現実を行き来していただけであって、眠ること自体が必要なわけではない。僕は夢と現実を眠って行き来していたんじゃなくて、“夢に入るためにした事を夢の中でもすることで”現実に戻ってきた。夢と現実を行き来するためには眠ることは必要じゃない。同じことを両方ですることが大切なんだ。
僕はこの長い長い夢の世界に来る時、自分の首を桜花が自殺で使ったものと同じペティナイフで切り裂き、自殺をしてこちらに来た。だったらあとは簡単だ。
僕は心を決める。現実に追いついてしまった長い長い夢から旅立つため、僕はナイフを握る手に力を入れる。
「じゃあね、桜花。待っててね」
僕は桜花に別れを告げる。本当の別れを。最後の別れを。
もう2度と会うことができない桜花に向かい、言葉を放つ。
桜花は今まで見たこともないほど華やかな笑みを浮かべ、「急がなくていいよ」と言った。「ゆっくりと歩いてきてね」と言った。
僕の瞳に涙が浮かぶ。首に伝わる妙にひんやりとした感触が、僕の恐怖を焚きつける。呼吸も脈も早くなり、冷や汗が額から流れ落ちる。
僕はそんな恐怖を何とか押し殺し。右手を静かに・・・・・・
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お久しぶりです。リクライです。
処女作である本作品の加筆修正版本編はこれにて終了です。
数日後にエピローグとあとがきを更新します。
正直、まだまだ話を掘り下げて書きた方のですが、いかんせん時間がないものでw
言い訳だとはわかっています。なので、いつか俺が小説家になれた時は、本当に時間を費やして本作品を完全版として完成させたいと思います。
まだまだ話したいことはありますが、あとがきの枠を作るので今回はこの辺で切り上げさせていただきます。
半年ほどの長い時間、ものすごくローペースでしたが有難うございました。
エピローグとあとがきを更新したのち、別作品の更新も進めます。
また、新作長編も更新を開始しますので何卒よろしくお願いします。




