第21話『夢:8月11日』
モネの池は想像していたほど魅力的な場所ではなかった。
何の変哲もない神社の鳥居のそばにある名前もない寂しい池だった。写真で見るほど鮮やかな景色は広がっておらず、何だかわからないような草が水の中にたくさんあり、そこを鯉が泳いでいるだけだった。
そんな面白みのない光景を見て「素敵」と口にしていた桜花を、僕はまだ理解できない。彼女と出会ってから多くの時間を共に過ごしたはずだ。それでも僕は彼女を理解する事ができていない。これまでもそうだったが、きっとこれからも理解する事はできないのだろう。
けれど、僕は理解できない桜花の言葉を実に桜花らしいと思った。やっぱり、彼女はズレている。世界から、ズレている。
それからは、一度でも彼女が行きたいと言っていた場所から順に、僕達はさまざまな場所に行った。
愛媛県の道後温泉。有名なアニメーション映画で見るよりも迫力があった。途中で香川県に行って食べたうどんは、雰囲気と個人的イメージの補正からか、普通のうどんであるはずなのに凄く美味しいと感じた。
京都で桜花は舞妓さんの服装を体験していた。彼女が僕にも同じ服装をさせたいと言ってお店の人を困らせていた事しか印象的なものは無かったな。
僕達はとにかく歩いた。とにかくたくさんの場所に行った。
とにかくたくさんの人と出会って、とにかくたくさんの経験をした。
それが彼女の望みだったから。僕は彼女に従った。彼女の望みを叶えようと尽力した。
僕はたった1つだけ、彼女の望みをどうしても受け入れる事ができなかったから、だから、せめて他の望みは申し訳程度に叶えておこうと僕は考えた。
「君はさ、一番楽しかった思い出はなんだった?」
隣に座る桜花はレモンティーを飲みながら僕に問う。
僕個人の旅のスタート地点であり、僕達の思い出の場所の1つであるこの終点の無人駅で、1年ほど前と同じように僕達は夕焼けを見ながら廃れたベンチに並んで座っている。
「思い出かぁ。なんだろう」
「あ、もちろんだけど、この旅のなかで一番楽しかった事だよ?」
「その前提は僕の中にはなかったなぁ」
だって、桜花と旅に出てからの約11ヶ月、僕は楽しいと思える出来事なんて無かったから。それは別に桜花と過ごす時間が楽しくないというわけではない。
ただ、面白味を感じなかっただけだ。どこに行っても、誰と出会っても、何をしても、僕はどこか懐かしさを感じてしまった。全てが“初めてではない”と感じてしまった。その原因を僕はもう知っている。
「僕はね、今こうやって君と他愛ない話をしている時間が一番楽しいよ」
「私の予想通りの言葉をくれるね」
桜花は手に持つレモンティーの缶を揺らして微笑む。“ちゃぷちゃぷ”と水の音がする。残りの量はさほど多くはないようだ。
「でもさ、そんな事を言ったら私たちの愛の逃避行は意味が無かった事になるね」
「意味はあるよ。こうやって最後に二人で同じ景色を共有できたのだから」
「アハハハハ!やっぱり君は面白い事を言うね。普通の女の子だったら惚れていたんじゃないかな」
「気持ち悪がられて終わりだよ」
僕はそう言いながら、桜花に習ってミルクティーの缶を揺らした。音はしない。
「ねぇ、光助くん。もう行くんだね」
「……うん」
「そっか…。前にも言ったけど、私は止めないよ」
「ありがとう」
「だって、こうなる事は決まっていた事だからね」
「うん」
「私には変えられない」
「うん。だから僕にも変えられない」
僕の言葉を聞き、桜花は自らの唇を甘く噛む。
季節はもう夏だ。とっくの昔に夏になっていた。桜花が自殺をした次の夏。僕は僕自身が描く虚像の桜花と日々を過ごした。
もう6時を過ぎているというのに、空はまだ明るい。僕の好きな群青色は、まだ空の半分も塗りつぶす事ができていない。空の多くを光の白と橙色が染め上げている。
僕が無言で空を眺めていると、桜花は突然立ち上がり、いつの間にか飲み干していたレモンティーの缶を自動販売機の横にある錆びの目立つ鉄製のゴミ箱に捨てた。あぁ、きっと彼女は何か言いたい事があるんだろう。そんな事を考えていると、桜花はすぐに口を開いた。
「あのね。私から1つだけ宿題を出してもいいかな」
「宿題?」
「うん。宿題」
「どんな宿題?」
「簡単な問題の答えを考えるだけだよ。価値観のね」
僕は無言で桜花を見つめる。
「じゃあ言うよ?人生において一番不幸だと思う事と一番幸福だと思う事って何だと思う?」
「これはまた難しい宿題だね。1つだけ質問だけど、明確な答えは存在するの?」
「存在しないよ。言ったでしょ?簡単な価値観の問題だって」
彼女はそう言いながら両手を空に向かって伸ばし、伸びをする。
「でも、私なりの答えは存在するよ」
「なるほど…凄く面白い質問だね。すぐに答えるべき?」
「もう考えがまとまったんだね。すごいや」
「そうでもないよ。前からまとまっていただけだよ」
「でも、その回答を聞くのは今じゃあないよ。だってこれは宿題なんだからね」
僕は「わかった」と答えながらベンチから立ち上がる。とうの昔に空になったミルクティーの缶をホームの隅に置かれたゴミ箱に捨て、僕は桜花と向かい合う。そんな僕らを姿の見えなくなった太陽がか弱い光で照らす。空を染める色はもうすっかり群青色の方が多い。
心地よい沈黙が二人の時間を支配する。今聞こえるのは不思議な機会音と蝉の力強い鳴き声だけだ。あぁ。心地よい。そんな事を考えていると、遠くに電車の明かりが見えはじめた。
「ごめんね、桜花。僕はもう行くよ。電車が来たからね」
「うん」
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また“後で”ね。バイバイ」
桜花の選んだ言葉を僕は否定しない。
僕は桜花に手を振り、停車した電車に乗り込んだ。すぐにホームの側に振り向いたが、そこにはもう桜花はいない。誰に言うわけでもなく「ごめんね」と呟いた。
僕は電車が走り出すのを待つ事もなく、座席に座って瞼を閉じた。桜花との旅の思い出を思い返す。やっぱり、これといった思い出はなかったけれど、彼女と共に旅をしてよかった。
順に旅先の思い出を振り返っていると、僕は自分でも知らないうちに眠りについていた。