第20話『夢:9月2日』
もうすっかり見慣れてしまった病室の扉をノックする。中から「どうぞ」と聞こえてきた。芯の通った女性の声。耳に焼きつき、脳裏にこびりついた愛しい声。桜花の声だ。
僕は扉を開ける。
「…おはよう」
ベッドの上にリュックサックを置き、そこに荷物を詰め込もうと尽力していた桜花に僕は声をかける。桜花は「うん。おはよう」と言った。僕は続ける
「約束どおり、君を連れ去りに来たよ」
「アハハハハ!似合わないことはヤメなよ。夏なのに寒気がしたよ」
桜花はキツイ言葉で返してくるが、自然と悪い気はしない。そんな温かい嫌味を流して僕はさらに続ける。
「行こう。時間は有限なんだ」
「時間は無限だよ。生きている限りはね」
「それを僕たちは有限と言うんじゃないか」
僕の言葉を「アハハ」と笑い飛ばし、桜花は荷物が詰まったリュックサックを重そうに背負う。
「おまたせ。さぁ、私たちの愛の逃避行の始まりだね」
「何が愛の逃避行だよ…」
これは最後の思い出作りではないか。その言葉は口に出さずに飲み込んだ。
なぜだか理由はわからないが、今日に限って院内の人影は少なかった。桜花の提案で階段を使って下の階へと下っていく。薄暗い階段の手すりには所々だがサビがあり、うっかりそこに触れてしまった際に手のひらに橙色がこびりついてしまい、僕は少しだけ気持ちが落ち込んだ。
3階から2階に降りる最中、下の階から男の子が一人駆け上がっていた。嬉しそうな顔をして階段を駆け上がる彼は、この薄暗い空間にはあまりにも不釣り合いに見えた。
前にも階段ですれ違ったことのある男の子だ。確かあの時はもう一人男の子がいたはずだ。
「何か嬉しいことでもあったのかな」
桜花が少年を目で追いながらポツリと呟く。
「きっとそうだよ」
きっと、あの時一緒にいた男の子の元に行くのだろう。僕はなぜだかわからないが少しだけ嬉しい気持ちになった。それだけで薄暗く見えていた階段がさっきよりは明るく感じられた。
病院から出ると太陽は相変わらず攻撃的で、手のひらで日差しを遮っても眩しいほどに、元気に紫外線をバラまいている。だけど、空気を染め上げる香りはもう夏のものとは言い切れない。
僕は青空に浮かぶ太陽を細目で眺めながら桜花に問う。
「さて、どこへ行こうか」
桜花は嬉しそうな顔で答える。
「ウユニ塩湖だね」
「本気で言ってるの?」
「当たり前だよ。私が嘘を言うとでも思う?」
「君は嘘ばかり言う」
「あはははは!心外だね。たまにジョークを言う程度だよ」
「そのジョークに僕はかなり迷惑をかけられたけどね」
僕は嫌味を言うように、苦虫を噛み潰したかのような表情を作る。桜花は僕の表情を見てまた嬉しそうな顔をする。
「どうして嬉しそうな顔してるの?」
「別にー。なんでもないよ」
「あぁ、そう。それはいいけど、結局どこへ行きたいの?」
「だからウユニ塩湖だって言ってるでしょ」
「……同じこと聞くけど、本気で言ってるの?」
「あはははは!何度も同じ答えを返すけど本気だよ。光助くん。正直にお金の都合を白状したら?私知ってるよ、ウユニ塩湖に行くためにはかなりお金がかかるって。だから私は今まで行って来なかったんだもの」
「痛いとこを突いてくるね君は。だったら、僕はあえて別の言い訳をするよ」
「可愛げがないなぁ君は。」
「一番の楽しみは“最後”にとっておくべきだろう?」
桜花は僕の言葉に目を見開く。
「……うん…そうだね。一番の楽しみは“最後”にとっておかないと」
僕らは二人で顔を見合わせ、笑う。
一頻り笑った後、桜花が「でもさ…」と口を開いた。
「やっぱり、最初に行くのはモネの池だよね。君が言ったんだよ?明日にでも行こうって」
「そういえばそうだったね。あの場所ならタクシーとかバスを使えばすぐに行けるはずだから、今からすぐに行こうか」
それから僕たちは、病院のバス停からバスに乗り、近隣で一番大きな町の駅まで移動した。
バスの窓から見える流れ行く街並みは、いつもと変わらない日常を今日も繰り返し送っている。空は綺麗で。主婦は紫外線を避けて木陰で世間話をして。長話をする母親を待つ子供達は元気に走り回って遊んでいる。
みんなみんな、いつもと変わらない。きっと、これからもずっと変わらない。“最後”までそんな普遍的な日常が続くのだろう。
空が綺麗だ。雲は1つとして見当たらず、誰に聞いても快晴だと答えてくれるだろう。もうカレンダー上の夏は通り過ぎているというのに、空の光景も体感する温度も夏となんら変わりはない。いつまでもこんな日々が続いてくれれば良いのにと切に願う。
だけど、普遍的な日常が続いたのだとしても、“いま”はいつまでも続くことはない。いつか必ず終わりがやってくる。だってほら、もうすでに僕たちの生きるこの世界は夏ではなくなってしまったのだから。気づかぬところで少しずつ変わっていってしまっているのだから。
“スンスン”と鼻をひくつかせ、空気の香りを嗅ぐ。やっぱりだ。僕たちの生きる世界を隙間なく満たしている空気は、もうすでに乾いた冬の香りが少しだけ混ざってしまい、秋の日常として色付けされてしまっている。
きっと、このまま季節はすぐに冬へと駆けて行き、僕たちは1年の終わりを実感することになるのだろう。そして、僕たち自身もまた、“最後”に向けて進んでいくのだろう。僕たちが感じる時間はあっという間に過ぎ去ってしまうのだろう。
➖だって➖
バスに揺られながら、僕の横で静かに寝息を立てる桜花を見る。
➖だって➖
きっと、これからの時間は“最後”の時間まであっという間に過ぎ去ってしまうのだろう。
だって、世界はこんなにも素敵で、刺激に満ちていて、美しいのだから。だからこそ桜花は自殺を試み、僕は決め事をしたのだ。
あぁ。楽しみだ。僕は待ち遠しい。




