第19話『:9月10日』
「っ・・・」
暗く乾いた部屋で僕は目を覚ました。見慣れた部屋だ。僕の部屋。六畳あるか無いかぐらいの部屋。北の半分を占めるようにベッドが置いてあり、僕はそこで目を覚ました。閉ざされたカーテンの隙間からは、太陽の光が僅かながら入り込んでいる。
夢の9月1日、僕は桜花と待ち望んだ再会を果たした。いや、“再会”という言葉を使うのは適切ではないのかもしれない。事実として、僕たちは毎日のように互いの存在を認識し、同じ空間で同じ時間を過ごしてきた。別に僕たちは会っていなかった訳ではない。互いに会話をして触れ合うという事がなかっただけだ。
だから言葉を訂正しよう。僕は、先ほどまで見ていた夢の世界で久しぶりに桜花と言葉を交わした。それ以上でもなく以下でもない。ただ、言ってしまえば夢の中で僕と会話をした桜花は僕が勝手な想像で生み出した桜花の虚像に過ぎない。あの人間は桜花ではない。桜花の言葉は桜花のものではない。僕が桜花に行って欲しいと望んだだけの言の葉だ。あの偶像は僕のものではない。
考えるべきではない事象に思考を割いてしまう。僕が救った桜花は桜花ではないのだと考えてしまう。夢の中で彼女が死ななかったとして、桜花は救われてなどいない。このまま僕の意識は何処までも沈んでいってしまうのではないだろうかと錯覚を覚えた。
➖ピッピッピッ➖
不意に頭に不思議な機械音が鳴り響く。何処かで聞いたことのある電子音だ。何処か、身近などこかで聞いたことのある音だ。その音に意識を集中し、耳を傾けることで、僕は考えるべきではない事象を脳の奥の方へと追いやった。
頭蓋を叩くように頭に響き渡っている何処か懐かしさを覚えるような機械音を聞き続ける。だが、どれほど経ったところでその音に慣れることはあっても音自体が消えることはなかった。
決して広くはない室内に、不意に携帯電話の着信音が鳴り響く。画面を見ると佑也の名前が表示されていた。僕は迷うこと無く、画面に表示された通話開始ボタンを押す。ちょうど彼に電話をかけようと考えていたから都合がよかった。
「もしもし」
「…もしもし、江口だ」
「しってるよ。何か用事だった?」
僕の問いに佑也はほんの一瞬だけ返答に迷う。「え…あ、その…さ」と、間を繋ぎながら、彼はゆっくりと言葉を選別していく。そして、意を決したかのように大きく息を吸い込み、佑也は丁寧に作り上げた文章を言葉にして放つ。
「きっと、今日だろうなって思ったんだ」
それだけで彼の言いたい言葉を理解した。
「凄いね。正解だよ」
「そうか…根拠はないけどきっと今日だろうなって思ったんだ」
「うん。桜花が目を覚ましたからね」
「佐伯が…か」
佑也は一度言葉を区切り、ため息をつく。きっと、また言葉の選別を行っているのだろう。少しでも適切で間違いのない言葉を使おうと努力しているのだろう。
だが、佑也は僕の予想を簡単に裏切った。
「なぁ、光助。やめる気はないのか?」
僕は彼の問いに対し、無言の時間を返す。
「ずっと考えてたんだよ。お前の決め事ってやつについて。でさ、もうやめよう」
「は?」
「どうかしてるよ。佐伯の遺言の通りに旅をするのは俺も賛成だ。協力するからお前は遺言の通りに旅をしてくれ。でもな、“その後”については反対だ。どうしてそうする必要がある?」
「うるさい」
「教えろよ。そんなことされたら俺はまた1つ後悔をすることになるんだよ。どうしてそんな決め事をしたんだよ」
「うるさい!」
「どうしてお前が…」
「黙れよ!!」
佑也のしつこい問いかけに嫌気がさし、朝早くであるにも関わらず、怒鳴り声を上げてしまった。胸の奥に黒い靄が溜まってゆく感覚がする。これはきっと、僕の悪意だ。憎悪だ。悲しみだ。苦しみだ。またはストレスかもしれない。
胸を蝕んでゆく何かの正体を僕は知ることができない。自分自身のことであるにも関わらず、僕は理解することができない。ただ、この靄が悪いものだという事だけはなんと無くわかる。
腹がたつ。腹がたつ。腹がたつ。腹がたつ。
靄の正体がわからないことに腹がたつ。思い通りに動いてくれない佑也に腹がたつ。理由はわからないが腹がたつ。とにかく腹がたつ。
こうして黙り込んでいると、佑也は僕が遮ってしまった言葉の続きを言おうとする。
「どうしてお前がし…」
僕はそこで電話を切った。
頭に響く機械音と佑也の執拗な問いかけが僕の心を削り始めていた。一刻も早く“決め事”を実行に移さなければ、ふとした瞬間に僕は決め事を諦めてしまう気がした。だから僕はすぐに実行に移すことにした。
シャワーを浴び、外出用の服に身を包み、歯を磨く。大きめのリュックサックに数日分の着替えと財布を詰め込む。あとはお気に入りの本を5冊ほどブックカバーに包み、リュックサックの内側につけられたポケット部分にしまい込む。
「さて、と」
僕は大きさの割には重くないリュックサックを背負い、部屋から出ようと扉のドアノブに手をかける。廊下に出ると、扉を閉める前に一度だけ部屋を見回した。あと“何度見ることができるかわからない”から、しっかりと自分の部屋を記憶に焼き付けておこうと思ったのだ。思い入れのあるものなど特にない。強いて言うのであれば、本棚にぎっしりと詰め込まれた多くの文庫本に対してだけ、ほんのすこし思い入れがある程度だ。僕は部屋を後にする。
そこからゆっくりと自宅を歩いて回った。親に見つからないよう注意しながら、抜足差足で徘徊する。もちろん、そんなことをする理由は部屋を見回した理由と同じものであり、たとえ自宅を記憶に焼き付けたところで僕の考えが変わることもない。最後にリビングでコップ一杯の麦茶を飲み、僕は自宅を出発した。
外は相変わらず暑い。もう秋に差し掛かろうというのに日差しが強く、額には自然と汗がにじむ。夏の汗と同じような、すこし粘着質の嫌な汗だ。愛着のあるはずの我が家を回ったところで僕のやる気が削がれることはなかったが、いま僕へ着々と攻撃を仕掛けている日光や、その産物として僕からにじみ出る嫌な汗は僕のやる気をすこしだけ削いだ。
これから僕は旅に出る。桜花との約束を果たすために旅に出る。お金の心配はいらない。佑也と森本先生が“手伝ってくれる”のだから。
僕はまず、桜花との思い出の地をまわることにした。二人の約束の場所。隣県の無人駅。駅の近くの大型ショッピングモール。
二人で行った場所を順にまわって行った。最初に行ったのはショッピングモールだ。
僕は桜花がペティナイフを購入した刃物の専門店に真っ先に向かい、桜花が買ったものと同じ型のペティナイフを購入した。それ以外の店には足を向けることはない。
その足ですぐに電車に乗り込み、隣県へ向かった。
無人駅を一人でまわり、終点の前波駅のベンチに一人で腰をかけ、自動販売機で購入した缶のレモンティーを飲んだ。なるほど、彼女の好みはこんな味なのかと、好きでもないレモンティーを飲んだ。
その行動の1つ1つに意味などはなかった。それでも僕はそうするべきなのだと思った。なぜだか彼女の追体験をする必要があるのだと思った。彼女がどういう景色を見ていたのか、彼女が何を考えていたのか。それらを知る必要があるのだと勝手ながらに思った。だけど、やっぱりその理由は僕にはわからない。
今日は前波駅の周辺で宿を取り、長い夜の時間を過ごそうと考えた。群青色に染まる夕方の空には一番星が輝いている。力強くも儚げに輝いている。早く宿に向かおう。あの星の輝きが他の星々の明かりに飲み込まれてしまわないうちに。桜花ならきっとその基準で宿を目指すだろうから。
頭に鳴り響く機械音に紛れて、どこか遠くから桜花の声が聞こえた気がした。僕は振り返らない。もう決めたことだ。振り向いて、もと来た道を戻っていくことはしない。僕がするのは先を目指して歩くことだけだ。“決め事”のために歩き続けることだけだ。
桜花の元を目指してただ歩き続けるだけだ。