第16話『:8月30日』
少しずつ冷気を孕み始めた夏の終わりの朝。時刻は5時。
僕の元に一本の電話がかかってきた。
思い当たる人物はいない。桜花はもう死んでしまっているのだから。
森本先生や佑也の可能性が一切ないわけではなかったが、わざわざこんな朝早く、脅されている立場の人間が脅す側の人間に電話をかけてくるとは思えない。
僕は疑問に思いながらも画面に表示された通話開始ボタンを押した。
「もしもし。藤沢です」
「……アンタどういうつもりなの」
低く、ドスを利かせた女性の声だった。声には聞き覚えがあった。
その声の主は普段とは違う声と口調で僕に問いただす。
「8月15日、佐伯がどんな顔をしていたかって、どうして私に聞いたの?」
怒りを含んだ口調で僕に質問を投げかけてきたのは山沢あかねだ。
普段は吐き気がするような甘ったるい猫なで声で話しているが、それは彼女が文字通り猫を被っている時だけの話だ。
あかねは数人の仲の良い友達といる時だけ、その性格の本性を現す。
なぜ僕がそんなことを知っているかだが、僕はたまたま彼女の本性を見てしまっただけなのだ。
偶然、桜花がいじめを受ける場面に何度も遭遇し、偶然、あかねが本性を露わにしている場面に遭遇したのだ。遭遇し続けたのだ。
だから僕は彼女のドスを利かせた声にも動じない。聞き慣れているから何も感じない。
彼女の思惑通りに話が進まない代わりに、僕はお詫びの意味も込めて彼女の質問に答えておく。どうしてあかねに桜花の表情を問いたのか、その理由を僕は説明した。端的に。
「君が桜花の自殺に関わっているからだよ」
受話器の向こう側から、僕の耳へと息を飲む音が伝えられる。やっぱりと言うのか、あかねは桜花の自殺に少なからず罪悪感を抱いていたんだ。
僕は言葉を選び、その言葉をあかねの動揺が収まる前に送話器へと託した。
「君が関わっているというか、桜花の自殺の原因は君だよね。疑いようもなく、否定の余地もなく、誰に状況を説明しようと満場一致で誰もが君が原因だと言う程には、桜花の自殺の原因は君だよね」
「……な、んで」
「だって、君が桜花をいじめていなければ桜花が自殺することはなかったんだよ?」
「………」
少し責めただけであかねは黙り込んでしまった。もう一押しだ。
「どうして黙り込むの?君が悪いんだよ?何か言ったら?」
「…違う。私は悪くない」
「いいや、君が悪い」
「私は悪くない!!!」
あかねの怒鳴り声が耳を激しく叩き、頭を揺さぶる。
鼓膜が破れそうなほど大きな声で、あかねは潔白を主張する。
「元はといえばあの子が悪いのよ!!!!」
彼女の醜い言い訳は携帯電話も聞きたくなかったのか、そのほとんどの音が割れてしまっていた。それでも、彼女の主張はしっかりと僕に届いた。
「私、初恋は小学校2年生の頃なのよ?それでね、すぐに告白したの。でも断られたわ。相手の男の子は一人の女の子に恋をしていたからよ。それが佐伯桜花だったの。私が恋をした男の子は私の想いをはねのけた次の日、佐伯桜花に告白したわ。でも、あの子はその想いを拒絶したの。『あなたの事は好きじゃあない』って言ってね。だから許せなかったの。私の恋した男の子を拒絶したあの子のことが私は憎かったの。だからあの子には自身の犯した過ちを気づかせるために、私はこれまで頑張ってきたのよ!!!」
後半になるにつれて涙声になっていったあかねを僕はさらに責め立てる。
「君の事情なんて知らないよ。結局のところ、君の行いのせいで桜花が自殺を決意したことは変わらないのだからね」
「ぐっ…だ、だから!わたしはぁ…悪くないんだって……どうして、どうしてわかってくれないの?あの子がすべての原因なのに」
涙をこらえての必死の反論に僕は反論を重ねていく。
「でも、君の好きだった人は生きているんだよね?」
「…それは……まぁ」
「桜花はもう死んじゃったよ?」
「……」
「ねぇ、どうして桜花は死ぬ必要があったの?」
「………そ、それは」
僕の質問にあかねは答えようとした。でも、僕は彼女に話をさせるつもりはない。
彼女の言葉を遮って僕は言葉を投げ続けた。
「どうして君は桜花を殺したんだ!!教えてよ!!!!」
「わ、私は殺して…」
「うるさい!!!!返せよ!桜花を返せよ!!!」
気がつけば僕も涙声になっていた。
声は嗄れてしまい、あかねに僕の言葉が正しく伝わったのかもわからない。
でも、僕が涙を纏った懇願をあかねにぶつけてすぐ、彼女の側から通話が終了された。
静かな自室に、自らの鼻をすする音だけが響き渡る。
あぁ、また僕は桜花を利用してしまった。そう考えると、落ち着きを見せはじめていた涙が再び僕の視界を覆っていった。
また僕は『桜花のため』『桜花との約束のため』と言い訳をしてしまった。愛しい彼女は何も関係ないのに、僕はちょうど目の前に都合の良い設定が転がり落ちていたからと言って、それに縋ってしまう。僕は本当にダメな人間だな。
“決め事”の動機に桜花を使ってしまうなんて。
“決め事”を正当化するために桜花の自殺を利用してしまうなんて。
僕は本当に最低な人間だ。
それでも僕は辞められない。僕自身のために。僕自身の“決め事“に意味を見出すために。僕が“決め事”の言い訳を作るために。僕は桜花の死を手放せずにいる。
きっと、これからも僕は桜花に縋り続けるのだろう。
自分のすべての責任を他人に擦りつけることの甘美を知ってしまったのだから、もう僕は辞めることができない。
いじめられ、精神を病み、自殺をしてしまった悲劇のヒロインを僕は利用し続けてしまうのだろう。
ごめんなさい。桜花。
僕は最低な人間です。
こうして誰にも届くことの無い謝罪をしながらも、僕は佐伯桜花という人間に縋り続ける。僕はもう彼女なしでは生きていけない。
“僕みたいな人間”がこんなことを言うのはおかしいのかもしれないけどね。
閉じたカーテンを開くと、部屋には優しい光が満ちた。僕は窓を開き、代わりに網戸を閉める。先ほどまで部屋を支配していた重い空気と涙の時化た香りが薄れていくのを感じる。
携帯電話で時間を確認すると、すでに時刻は6時を回っていた。あかねとは1時間ほど話をしてしまっていたようだ。
窓の外からはラジオ体操へと向かう子供達の声はもう聞こえない。季節は過ぎ去った。
僕の耳に届くのは、夏の終わりの気休め程度の蝉時雨と不思議な機械音だけだ。
頭に響く『ピッ…ピッ…ピッ…』という不思議な機械音は日に日に大きくなっていく。僕にはこれが何なのか分からない。
僕は桜花への罪悪感と頭に響く機械音への郷愁を抱き、今日も“決め事”のために生き続ける。




