第15話『夢:8月21日』
あんなことがあったのに、空は何事もなかったかのように澄みきっている。
空だけじゃない。近所の子供たちはいつも通り飽きもせずにボールで遊んでいるし、おばさんたちも長い立ち話をしている。
鳥だって、街だっていつもと変わらない。
懐かしい街並みを、僕はバスに揺られて進んでいく。
僕は呆然としながらバスに身を委ねる。
涙は出ない。出るハズがない。
悲しい出来事など起きなかったのだから。
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この日、桜花の家へと向かった僕を歓迎する人間はいなかった。
僕を迎えてくれたのは一枚の紙切れ。
朝刊の折り込みチラシを雑に切り取った一片。
そこに記された文字列。
『桜花は根尾病院に運ばれました。まだ意識は戻りませんが、容体は安定しています。病室は503号室、病院の4階です』
それは、桜花の自殺が失敗に終わったことを告げるものであり、僕の“夢の中の桜花を救う”と言う目的の達成を告げるものだった。
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朝の出来事を思い出しているうちに、気づけば街の面影はすっかりなくなっていて、道は荒れた山道になっていた。僕はそこからの道のりを、窓のフレームに次々と流れ込んでくる景色を眺めながら過ごした。
木々の隙間からチラチラと顔をみせる太陽が、薄暗いバスの車内に僅かな光を与えてくれる。移り変わる光と影のコントラストは、バスという限られた空間を万華鏡のように魅せた。
バスに冷房はなく、額に汗がにじむ。開け放たれた窓からは、ぬるい風が気休め程度に入ってきて、窓際の風鈴を揺らす。風鈴の音に混ざり、外からセミの鳴き声が聞こえてくる。僕は、セミの鳴き声はやっぱり好きになれない。
しばらくすると、山側である右手の景色が、ほんの数秒の間だが変わった。コンクリートで舗装された山肌は消え、大規模な墓地が広がっている。墓石があるものもあれば、木の板に名前を書かれているだけのものもあった。
以前、桜花の火葬に立ち会った日と同じ光景だ。何一つ変わっていない。
お盆明けとあって、どの墓に添えられた花もまだ生き生きとしており、本来は物寂しいはずの墓がカラフルに染められていた。赤い花。黄色い花。白い花。備えられている花々はそれぞれ違うが、そこは確かに花畑になっていた。
この光景も以前と同じだ。何一つ変わっていない。
何も変わらない…僕は何も変えることができなかったのだ。
ただ一つ、桜花の命の結末を変えること以外、僕は何も変えられなかった。
そう、何も…何一つ……僕は…今もただ、もう変えることのできない過去を見せられている。涙を流して懺悔することすら赦されず、ただ、過去という大きな川の流れに今も身を委ね続けている。
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バスは野村斎場を通り過ぎ、隣町へと向かう国道に入る。先ほどの獣道とは打って変わり、道はしっかりと舗装されていた。片側1車線の道路を北に向かって進むにつれ、次第にすれ違う車は増えて行った。
車線が片側2車線に変わった頃、バスは左折し、道沿いにある病院の広大な敷地内に入った。大きな正門には“根尾総合市民病院”病院の名前が堂々と記されている。ここは僕たちの町から一番近い場所にある病院だ。
花々が元気に咲き乱れる庭を進み、病院の入り口の前でバスは止まった。精算機にお金を投入し、ゆっくりとバスから降りていく老人たちに続き、僕もバスを降りた。ロータリーを走り去っていくバスを見送り、僕は病院に足を踏み入れた。
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切れかけた蛍光灯が交換されることなく放置されている。病院の職員はそれを気にも止めない。
僕はチカチカと点滅する蛍光灯に照らされ、薄暗い階段を上った。
2階、3階と数え、4階にたどり着いた時、上から男の子が二人、仲良く話しながら降りてきた。
「君はさ、彼女とかはいないのかい?」
「いるわけ無いだろ。俺はずっとサッカー一筋だったんだから」
「そっかぁ。君はイケメンなのにもったいないね」
「君こそどうなんだよ、彼女はいるのか?」
「あははは!君は面白いね!僕に彼女がいたらおかしいじゃ無いか!」
楽しそうに笑いあう二人を背に、僕は桜花の眠る病室へと向かった。できることならば彼らのように、僕と桜花も再び楽しく笑い合いたいと思いながら。
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病室の前にたどり着き、扉をノックした。中から「どうぞ」と言う桜花の祖母の嗄れた声が聞こえて来る。
僕は「ありがとうございます」といい、扉を開いた。
そこは、ベッドと冷蔵庫、そして椅子と有料テレビのみが置かれている最低限の設備が整えられた簡素な病室だった。
桜花の祖母は僕を見るなり椅子から立ち上がり、荷物をまとめて病室から出て行ってしまった。最後に「ゆっくりとしていってね」と言い残して。
僕はお言葉に甘え、桜花とゆっくり会話をしていくことにした。
ベッドの脇に置かれた椅子に座り、汗一つかいていない桜花の顔を見る。
首に包帯を巻いてはいるが、それ以外は彼女に異常は見られなかった。
いつも通りの整った美しい顔で桜花は安らかに眠っている。
僕の向かい側にある窓は開けられており、流れ込んでくる風が純白のカーテンを優しく揺らす。
窓から少し離れたところには、花びらが一つも残っていない桜の木が見える。
桜の木は風に身を任せ、細々とした枝を元気に揺らしている。
僕は目を覚まさない桜花に向かい、伝えたかった言葉を放った。
「君、自殺に失敗したんだね。…君は嫌がるかもしれないけれど、言わせてもらうよ。おめでとう。僕にはまだ、君が必要だった。だから、君の自殺が失敗してくれて僕は嬉しいよ」
僕の言葉に彼女は動じない。意識が戻っていないのだから、おかしな事は何も無い。
だから、僕は話を続ける。
「あのね、僕、桜花にずっと言いたかった事があるんだ。聞いてくれるかな」
もちろん、桜花から返事は返ってこない。
でも、僕はそんなこと気にしない。
「僕はね、多分だけど、君のことが好きだったんだよ。ずっと、ずっと好きだったんだ」
必死になって想いを語る僕は、この時、桜花の瞼が少しだけ動くのを見逃してしまった。
そして僕は、重大な見落としに気がつくことなく、なおも想いを吐露し続ける。
「だからね、僕は君の自殺が失敗したと知って、ものすごく嬉しかったんだよ。また桜花と話せると思って、とても嬉しかったんだよ。…まだ僕は僕の夢を諦めなくてもいいんだと知ることができたから、…うっ……僕は嬉しかったんだよ」
僕は嗚咽を漏らしながら、桜花に被さる布団の端を力強く握る。
空いた方の左手で、力無くベッドを殴りつける。
「うっ……だ、だか…らぁ…お願いだよ。目を覚ましてよ。……君は生きているんでしょ?だったら…だったら…ぁ……君はそんなところで寝ていないでさ…僕に君の元気でうるさい声を聞かせてよ」
こうして、僕は桜花の眠るベッドを殴り続けながら、自分でも驚くほどに泣き続けた。
僕が泣き止んだのは夜の8時、面会時間が終了し、桜花の病室を後にする時だった。
その頃には、僕は涙を全て出し切っていて、声はガラガラに枯れていた。ベッドを殴り続けた左手には疲労がたまり、腕が肩より上に挙がらない。
僕は最後に「またね」と言い、桜花の病室を去った。
「また明日」と聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。
結局、この日は桜花が目を覚ますことはなかった。