第14話『:8月29日(後)』
「光助くんがこんなに早い時間に学校にいるなんて珍しいよね。部活もやってないし、いつもは遅刻ギリギリに来るじゃない?」
あかねは吐き気がしそうなほど甘ったるい猫なで声で話しかけてくる。
「うん」
僕はそれをそっけなく返す。
「何かあったの?」
「別に」
「そうなんだ」
そう言いながら、あかねは前髪をいじり始める。
綺麗な黒髪を指に巻きつけ、離す。
再び巻きつけ、離す。
あかね自身、髪の毛が指に絡まり、解けるのを上目遣いで見ている。
その様子を見ていると、あかねの作ったようなアヒル口が目に入る。
僕はあかねのこの表情が嫌いだ。
彼女がこの顔をする時というのは、話し相手を見下している時だから。
本当に、あかねは昔から何も変わらない。
浅はかで愚かな人間らしい人間。
自己の利益を最優先し、他人のことを突き落としてでも自分が幸せになろうという傲慢な考え方。
しかし、それを表に出さない卑しい性格。
彼女は本当に何も変わらない。
こうやって学校では猫をかぶり、裏では桜花をいじめていた。
あかねが桜花に対して卑劣ないじめを繰り返していたことを僕は知っている。
彼女は桜花の首を絞め、拳で身体中を何度も殴り、刃物で桜花を切り裂いていた。
時には階段から突き落とし、時にはプールに溺れさせ、桜花は何度となく気を失っていた。
ここまで命に関わる事をしておいて、桜花のいじめが重大視されなかったのは、あかねが殴り、ナイフで切り裂いた部分は服に隠れる場所がほとんどだったからだろう。
思わずあかねを睨みそうになる。
僕はなんとか、怒りを顔に出さないように心がける。
「じゃあ、僕はもう帰るから」
「え、どうして?」
あかねは不思議そうに問いてくる。
本当は微塵も興味がないくせに、まるで興味があるかのように問いてくる。
「別に」
「そうなんだ」
ここであっさりと引き下がるのだから、彼女がぼくに話しかけてきたのも、帰る理由を問いてきたのも社交辞令の一種だと容易に分かってしまう。
我ながら、どうして小学校時代の僕はあかねに恋心を抱いたのだろうと思う。
そう、あかねは僕の初恋の相手だ。そして、佑也の初恋の相手でもある。
もしかしたら、僕らがあかねに恋心を抱いていた当時、クラスメイトの多くが同じようにあかねを好いていたのかもしれない。
そうでなければ、佑也がフラれた程度のことで僕がクラスメイト全員からいじめられるようになるはずが無いのだから。
かつて僕たちにとって天使のような存在だったあかねは、今となっては僕の運命を狂わせた悪魔だ。
小学校の時、佑也に告白されたあかねが告白を断る動機として、僕の事が好きだなんて嘘をつかなければ光助と僕の友人関係が壊れることはなかった。
いや、別にこの程度ならいじめられることは無かったのかもしれない。
結局のところ、悪いのは僕自身なのだ。
あかねは佑也からの告白を拒絶する際、僕の事を好きだと言ってしまった。
すると、彼女は同級生からケジメのようなものを要求されてしまった。
当然といえば当然だ。
つまり、僕の事を好きだと言った以上、僕に告白しなければいけないと、あかねはクラスメイト全員から言われたのだ。
あかねは普段から他人の心を弄んでいた人間なのだから当然の報いなのかもしれないが、
当時から基本的には傍観者の立場、第三者の立場に身を置き、物事を外から眺めていた“事なかれ主義”の僕にとっては、ただただ迷惑な話だった。
今でも思い出すことができる。半ば儀式のようなあの光景を。
夏休み半ばの出来事。
登校日の翌日の出来事。
僕たちが普段使っている教室での出来事。
クラスメイト達に取り囲まれ、泣きそうになりながら「好きだった」と声を絞り出したあかねの顔が印象的だった。
それよりも印象的だったのは、僕たちを取り囲むクラスメイト達の視線だった。
嫉妬にまみれた男子生徒の視線。
疑惑を滲ませた女子生徒の視線。
興味を含んだクラスメイトの視線。
怒りが込められた佑也の視線。
どこかで安堵している桜花の視線。
そんな、色取り取りの視線が僕を攻め立てた。
「告白への返事は?」と聞かれているようだった。
僕はクラスメイトの期待に応え、迷うことなく返事をした。
目に涙を浮かべ、こちらをすがるように見つめるあかねに対し、僕は突き放すように言葉をぶつけた。
「僕は山沢さんが嫌いだ」と。
次の瞬間、プライドを傷つけられたあかねは声を上げて泣き始め、教室中に動揺の声が響いた。
「どうしてだ?」
「あかねちゃんが泣いちゃったじゃない!」
「あいつ、ふざけやがって」
「早くあかねちゃんに謝ってよ」
「殺してやる」
「あかねちゃんが傷ついちゃったじゃないの!」
「光助のくせに」
「光助君のくせに」
「光助のくせに!」
「光助君のくせに!!」
「「「許さない!!!!」」」
その日から、クラスメイトによる“光助潰し”が始まった。
僕の、いじめに耐え続ける日々が始まった。
クラスメイト達から暴行を受けている間、あかねは笑っていた。
両手で顔を覆いながら、周りには見られないように気をつけながら、彼女は笑っていた。
その時と同じ笑顔で、あかねは今も笑っている。
いつもと変わらない笑顔を作り、僕を見つめて笑っている。
「ねぇ。山沢さん」
「なに?」
「僕はやっぱり君が嫌いだ」
あかねの顔が引きつる。
笑顔の仮面が崩れそうになるが、彼女は慌てて取り繕う。
「山沢さん。佑也の事、好きなの?」
「当たり前じゃない。佑也は私の運命の人よ?」
「じゃあ、どうして小学校5年生の時、君は佑也の愛を拒絶したの?」
僕はすごく単純な疑問を口にした。
僕の問いに対し、あかねは笑って答えた。
「愛を拒絶するって、何だか小説家みたいな事を言うんだね」
明らかに話を逸らされてしまった。
僕は彼女のペースに自ら流される。
「そうだね。僕も自分で思ったよ。何だか小説家みたいな事を言うなって」
あかねは目を細め、手で口元を隠しながら「ふふっ」と笑った。
「どうかした?」
「やっぱり、光助君って面白いね」
「気のせいだよ。僕からすれば君の方が面白いよ」
「どのあたりが?」
「その作ったような笑顔を必死に崩さないところが」
「えっ…」
あかねは笑顔を崩した。
口をぼうっとだらしなく開き、眉尻を下げ、目を見開き、動揺した。
「あ…ははは。何言っているの?」
再び笑顔を作り、必死に動揺を隠そうとするあかねに対し、僕は背を向けた。
そして、僕が一番気になっていた事を彼女に聞いた。
魔法の言葉を投げかけた。
「ねぇ。山沢さん。8月15日、桜花はどんな顔をしていたの?」
僕はそれだけ言うと、その場を後にした。
あかねの顔を見る事はしなかった。
だって、見る必要など一切無いのだから。
あかねがどんな表情をしているのかは容易に想像ができる。
彼女の作り上げた“山沢あかね”と言う砂上の楼閣は、僕の放ったあの一言で簡単に崩れ落ちてしまう。
身につけ続けた笑顔の仮面は剥がれ落ち、再び形を形成する事はもう無いのだろう。
学校からの帰り道、僕は公園に寄った。
いつもと変わらずに2つ並ぶ錆び付いたブランコの片方に僕は腰を下ろす。
こうして、僕は何をするわけでもなく、ただそこに座り続けた。
正午になり、昼の到来を知らせるサイレンが町中に響きだす。
ふと見上げると、空は薄暗い雲で覆われていた。
空気の香りは土の香りを含み始め、すでに夏の香りを失いつつある。
今日は、少し肌寒さを感じる8月29日。
ブランコに揺られ、空を眺める僕はまだ知らなかった。
この日の夜。夢の中。
繰り返される過去の世界で、生きた桜花に再び会う事になるなんて。
ましてや、数日後の夢の世界で桜花と再び会話をする事になるなんて、僕は思いもしなかった。
僕が■■■■■■■■■■■■■■■■■■■なんて思いもしなかった。
『ピッ…ピッ…ピッ』と言う不思議な機械音は、今日も変わらず頭に鳴り響いている。