第10話『夢:8月15日(後)』
成竹駅から線路に沿って歩き始め、早2時間が経過している。
これまでに駅を4つほど通過しており、そのうちの3つは無人駅だった。
当然というか何ていうか、桜花は無人駅を見て喜んでいた。
スマートフォンの写真機能を使って駅の写真を撮り、線路上に侵入して電車の見る世界を撮る。
僕は一応、毎回彼女に注意していたけど、そろそろ意味がないだろうと思ってきていた。
「ねぇ」
次の駅へと向かう最中、彼女はポツリとつぶやく程度で僕に話しかけてきた。
それまではほとんど無言で移動をしていたものだから僕の反応も少し遅れてしまった。
「ねぇってば!」
「あ、あぁ。ごめんごめん。どうしたの?」
僕が返事をすると、遠くから『ピッ…ピッ…ピッ…』という機械音が近づいてきて、また離れていった。たまに聞こえる音だが、この音は何なんだろうか。
「死なないでね」
僕は息を詰まらせた。
「………え?」
「死なないでね?」
唐突に何を言っているんだと思った。
「…どうして?」
「死ぬ気でしょ?」
彼女の言ってることが僕は理解できなかった。
彼女がなぜそう思ったのか理解できなかった。
だって、僕は今この瞬間に満足できている。死ぬ理由がないんだ。
なのにどうして、僕が死ぬなんて考えるんだ。
額に嫌な汗が滲むのが分かる。
少しだけ鼓動が早くなり、呼吸が乱れる。
僕は浅くゆっくりと呼吸をして動揺を抑える。
心中を桜花に悟られないよう気をつけ、人差し指で頬を掻く。
「死なないよ」と僕は彼女に微笑み、バレないように「ゴメンね」と口にした。
声に出さず。
それからも僕たちは歩き続け、終点にまでたどり着いたのは午後6時ごろだった。
どこか懐かしい雰囲気のある終点の前波駅。
そのホームに置かれている椅子に並んで腰をかけ、僕たちはで飲み物を飲んでいる。
飲み物は駅の近くの自動販売機で買ったもので、僕はミルクティーを、桜花はレモンティーを飲んでいる。
「はぁ〜。楽しかったぁ」
「よく飽きなかったね」
「光助君は飽きてたの?」
「少しだけ飽きてた」
僕はミルクティーの缶を揺らしながら、中の紅茶の小波を見る。
「光助君が私を連れてきたのに、私よりも先に飽きるってどういうこと!」
桜花は冗談混じりに頬を膨らませて怒ったふりをする。
僕はそんな平和な光景をみて、幸せだなと思った。
そこからしばらくは二人とも無言だった。
ジリジリと鳴く蝉の声や、木々の葉の擦れる音を聞きながら、二人で廃れた駅を眺めた。
木材が朽ち果て、駅の壁には所々に穴が空いていた。
駅の入り口につけられた時計は動いておらず、針や数字を保護するガラスは割られていた。
10分ほど経った頃だろうか、レモンティーを飲み終えた桜花は立ち上がり、缶をゴミ箱に捨てて戻ってきた。
「そろそろ帰ろっか」
僕は彼女の何気ない提案で現実に引き戻された。
僕は彼女を佑也たちから遠ざけるためにここに連れてきたのだと今思い出させられた。
「何か用事があるの?」
「ちょっとね・・・・」
彼女は少し困ったように濁しながら答えた。
夏の夕方の生暖かい風が僕らに吹き付ける。
彼女の綺麗な黒髪が風になびいている。
そこに一瞬だが、光るものが見えた。
僕の勘違いかもしれない。
勘違いでもないかもしれない。
遠くから電車の近く音がする。
「行こ?」
桜花は一言だけ言うと駅のホームへと向かっていった。
僕はこの時どうすればよかったんだろうか。
彼女の手を取って一言、「今日は宿でもとって泊まっていこう」といえばよかったのだろうか。
いや、僕はこの一言を言おうとした。でも言えなかったんだ。
どこかで気づいていたからなのかもしれない。
僕の今日の行動が意味を成さない事に。
結局、僕は彼女と一緒に、よく行く大きな街の駅まで電車に乗り、そこで彼女と別れた。
彼女は今日も約束があるらしく、前と同じ方向に歩いて行った。
彼女が最後に言い残していった「ありがとう」は僕を突き動かした。
いや、多分、僕は今日の頑張りどころがここだと知っていたんだ。
桜花を連れ出したところで意味はないと知っていて、今この時が全ての挽回のチャンスだと知っていたのだろう。
僕はすぐに近くのスポーツ用品店に入った。全国区の大型チェーン店だ。
僕は真っ先に野球用具のコーナーへと向かい、バットを一本手にとってレジに向かう。
店内には今流行りの夏曲が控えめな音量で流れていて、激しいはずの曲が静かに店内に流れている様は、滾る血が冷静な体を流れている今の僕みたいだった。
バットを両手で丁寧に持ち、僕は以前彼女が暴行を受けていた場所へと足を運ぶ。
そこには散々に暴行を受けたのか、身体中アザだらけになった桜花と、佑也とあかね、あとはその友人達らしき人間がいた。
桜花はそんな状況でも笑顔を絶やさなかった。
「ちょっと佑也、アンタ、この女犯してよ。こんなにされても笑ってるの気に入らないもん」
などと、あかねが眉間にしわを寄せながら佑也に言う。
「え……」
この二人は恋人同士だ。にもかかわらず、彼女であるあかねが彼氏である佑也に別の女を犯せと言っている。
なんて頭の悪い場面だろうか。
あまりの衝撃的な発言に佑也も圧倒されている。
その様子を見るに、やはり佑也は明確な意思を持って桜花を犯したわけではないのだろうなと僕は思った。ならば、あれだけ後悔するのもわかる。
「ちょっと!早くこいつを襲えって言ってるの!もしかして…私の言うことが聞けないの?」
あかねの脅すような言葉に、佑也は行動を強要される。
「あ…わ、わかった……」
普通の人なら、自分の彼女に他の女を襲えと言われたところで、当然のように断ることができるのだろう。
だが、佑也はあかねが好きだったんだ。異常なほどに。
だからなのか、あかねに嫌われたくない佑也は普通なら断るはずの事だとしても、あかねに気に入られるために全て受け入れる。
本当にバカな話だ。コイツ等は小学生の時から何も変わっていない。
あかねは僕に拒絶された理由を多分理解できていないのだろう。
一連の流れを見て色々と考えていると、佑也は友人達と共に桜花を抱え、そのままさらに奥の路地へと入っていった。そこは地元では有名な大人の場所だった。
ホテルやキャバクラが立ち並ぶ場所を佑也たちはどんどんと進んでいき、その中でも特に地元で有名なホテルへと入っていった。
そこは、地元では“ルール”が緩いことで有名な場所だった。
僕は慌ててバットを引きずりながら追いかける。
“カランカランッ”と言う心地いい金属音を聞きながら、僕は息を荒げて走っていく。
僕がそのホテルの扉を開けると、佑也たちは幸いにもまだ受付にいた。
僕は入り口の傘立てにバットを置き、無言で彼らに近づく。
集団の中に入る事はせず、ただ静かに「佑也」と言った。
振り向いたのは佑也だけではなく、その場の全員だった。もちろん桜花も。
佑也はかなり驚いた顔をした後、僕の方に近づいてきた。
「何?」と言う佑也の声には動揺が見て取れた。僕は落ち着いて言葉を返す。
「お前達を殺しに来たんだよ」
それだけ言って、僕は佑也を拳で思いっきり殴った。
その後は時間があっという間に過ぎ去った。
建物の外に僕は無理やり連れ出され、彼らに何度も殴られた。
僕は何とか彼らから逃げ、傘立てに立てておいたバットを抜き取った。
佑也とその友達を、バットで思いっきり殴りつけ、彼らの骨をへし折った。
僕は佑也に殺しに来たと言ったけど、誰一人殺す気は無かった。
何人かの手足の骨を折った頃、僕のバットを佑也が奪い、そのまま頭を殴ってきた。
そして、僕は意識を失った………
僕が目を覚ましたのはそれから1時間ほど経った頃だった。
時間は夜の11時頃、電車は30分後の終電を残すだけになっていた。
目を覚まして真っ先に感じたのはコンクリートの固く冷たい質感だった。
どうやら道路の上で寝転がるように意識を失っていたらしい。
僕の目に入ってきた光景は、夏の少し明るい夜空と近くに腕組みをしながら立つ桜花だけだった。
僕が痛む体に鞭を打ち、何とか体を起こすと、桜花は僕の方を一瞥し、「何でこんなことしたの」と言った。
昼間の彼女からは想像できないような、冷たい声音をしていた。
僕を見る目に熱はなく、厄介なものを見るかのような、見下すに近い視線を僕に向けていた。
僕は桜花の質問に誠実に答える。
「今日、君を助けなきゃいけなかったんだ」
「どうして!」
彼女の甲高い声が耳を貫く。
相変わらず不思議な機械音はうっすらと聞こえている。
「光助君…最近おかしい……どうしてそんなに…余計な事ばかり…」
桜花は気持ちをこらえるように、下唇を噛みながら言葉をひねり出した。
それでも僕は続ける。
「僕ね、ちょっとした事情があって、佑也が今日、君を襲うことを知ってたんだ」
僕はそう言いながら桜花に近づく。
桜花の目の前まで行くと、彼女の目をしっかりと見据えて微笑む。
「それもわからない。光助君、君が何を言ってるのか私にはわからない…」
「それでもいいよ」
「私がよくないの!」
桜花の悲痛な叫びが夜の街に響き渡る。
そして、次の言葉が僕を大きく傷つけた。
「邪魔なの!やめてほしいの!君のやっている事は私の邪魔でしかないの!…どうして……どうして分かってくれないの…」
僕はやっぱり彼女の言っている事が理解できない。
うまく言葉にできないが、突き放された事だけは理解できた。
僕は初めて見る桜花の一面に気圧され、返す言葉も探せずに彼女を見ていた。
桜花はまだ何か言いたいようだったが、堪えるように口をつぐみ、そのまま立ち上がって駅に向かって歩き出した。
僕も少し遅れて彼女に無言でついていく。
そして、僕たちは二人で終電の電車に乗って帰った。
その間、僕たちは無言で長椅子に間を空けて座った。
顔をあわせることすらしなかった。
地元の小さな駅に着き、改札をくぐって外に出ると、桜花は僕の方を振り向く事もせず、そのまま一人でその場を去った。
僕は、彼女を追いかけることはできなかった。
数時間前は彼女を追いかけることしかできなかったのに。
何ともおかしな話だなと僕は思った。
ふと空を見上げると、星はまだまだ遠くに輝き、空はくすんだ光を放っていた。
“大丈夫、失う季節はまだ先だ”と自分に言い聞かせ、僕は来ていたシャツのボタンを一つ外す。
駅からの帰路は一人だったが、季節柄寒いとは思わなかった。
僕は家に帰るまでずっと考えていた。二つのことをだ。
一つ目だけど、僕は今日1日で見た全ての光景を、すでに見た覚えがあった、しかも、桜花と見たという覚えがあった。確かにあった。
ただ、彼女とこんな遠出をしたことは僕の記憶が正しければ初めてだったはずだ。
なのに確かに身に覚えがあった。
桜花と二人で前波駅の椅子に腰をかけ、ミルクティーを飲んだ覚えが確かにあった。
桜花と二人で線路に沿って歩いた覚えもあった。
桜花から聞いた無人駅が好きな理由。あの話も既に聞いた覚えがあった。
ただ、何時どの瞬間、今日と同じ経験をしたのか、今日と同じ話を聞いたのか、どうしても思い出せない。
そもそも、本当に僕は今日1日の全てを知っていたのだろうか。
なんとなく知っていた気分がしただけじゃないだろうか。
考え始めれば思考の回転は止まらない。
どこまでもどこまでも考え続けてしまう。
僕はすぐに既視感の正体を探る事を諦めた。
もう一つ考えていたのは、気を失っている間に見た夢のことだ。
僕は家に着いて風呂に入った後、歯を磨いてトイレを済ませ、ベッドに潜った。
そして、改めて気を失っている間に見た夢を思い出した。
久しぶりに普通の夢を見たのだ。なんてことない夢だった。