5.もう一つの地球
白い光の魔法陣に包まれ上空に向かって、まるでエレベーターに乗っているかのように緩やかに雲を抜けて高度を上昇させていく。
さっきまでいた名古屋の街が小さくなり始めた。
住宅地や河川の橋がミニチュアのようにどんどん遠く細かくなっていく。
恥ずかしながら章子は今まで飛行機に乗ったことがなかった。
だから陸から離れ空に上がるという感覚を今はじめて体感している。
「空に上がるのは初めてなんですね」
真理の言葉に章子は無言で頷いた。
自分の母校からここまで連れて来られたときはあまりに急なことでなにも感じる余裕はなかった。
だが今は違う。ゆっくりとだが確実に宇宙に近づいている。
「しばらくはあなたが慣れるまで航空魔法による低速度域での上昇加速に努めます。あなたはまだ真理に目覚めていない」
またその話だ。
「どうしても選ばなくちゃだめなの?」
章子が問うと真理は頷く。
「決めておいた方がいい。あなたの為にもこれからの世界の為にも……」
「世界の……?」
章子にはそれがよく分からない。
自分の武器を選ぶことと世界の行く末がどうして関わってくるのか、それがピンと来なかった。
「私、武器なんて選べない。人を傷つける武器なんてどうやって選べっていうの?」
「それはあなたが日本人だから?」
真理は問いかけるように疑問を口にした。
「半野木昇は本を選びましたよ」
「ならわたしも本にする」
「それが本当にあなたの武器なんですか?」
真理の瞳は真剣だった。
「あなたの心から、あなたの武器は本であるという決意を一切感じない。だからあなたは武器として本を選べない」
「じゃあ、わたしの決意って何? ハートマークっ? 私の心は武器なんていらないって言ってる!」
章子は声を張り上げた。胸に手を当て目の前の少女に真摯に訴える。
「いいえ。あなたの心には、いえ、この世で生きとし生けるあらゆる生き物には必ず自分だけの武器がある。でなければこの世界では生きていけない。
わかっているでしょう? どんなことを言おうと、あなたはその心の武器を用いて何かの命を奪い、その命を食べて、さらに美味しさを感じて生きている」
「菜食主義者だとでもいえばいいっていうのっ?」
「植物が生命ある生物ではないと考えるほど、あなたは愚かでもない」
「植物が動物と同じ命?」
「悲鳴を上げてますよ……常に。あなた達が聞こえてないだけで。それとも考えたくないだけですか?」
真理の顔は非常に真摯的だ。
「たとえ野菜だけを食していようとその野菜にも叫びがある。その叫びに耳を傾けないのは武器で命を奪いあらゆるものを簒奪する事と同じぐらい残酷なことです」
断言する真理の背後で広がる彼方から海が見えてきた。
「あ……」
章子は思わず話を聞くのもやめて放心した。
その海は遙か北に連なる山々の方角の先に見える。
「あれは、もしかして……飛龍海……旧、日本海側……?」
それはついこの間まで、日本海と呼ばれていた海。
今は名を変え、世界共通で「飛龍海」と呼ばれている海。
「そうですね。こうやって見下ろしていると、何かにつけ争っていた自分たちの問題など小さく見えてくるものでしょう?」
「ここからでも見えるんだ……」
「直にあの彼方の薄い水平線が丸みを帯びます。そして、その時が私たちが宇宙圏に辿り着いた時……」
遠目に言う真理が今度は上を見上げた。
それにつられて章子も真上を見る。
次第に色を濃くしていく空の中で、あの突然現れた巨大な青い惑星の姿が、蜃気楼のように消えていくのが見えた。
「幻だったの……?」
「そうですね。あれは単なる拡大映像だったんですよ。我が母の遊び心です……」
種明かしをする真理の言葉に今まで傍らで黙っていたままだったオリルが口を開いた。
「私は先に行っててもいい?」
真理は頷く。
「構いませんよ。オワシマス・オリル」
言うとオリルもそう、とだけ言って軽やかに足を踏み切って跳躍する。
長い黒髪をなびかせるその姿は同じ女子の目線から見てもとても鮮やかなものだった。
「いっちゃった……」
宇宙の色に近づいてきた上空へ消えていくオリルの姿を章子はいつまでも追う。
そして空と地上の光度が逆転したころ、章子は小さな違和感に気づきはじめた。
「なに? これは?」
よく地理の授業で目にしていた世界地図通りの地形をしていた母国、日本の形。
それを本来であれば成層圏すれすれの高高度から確認し心なしかはしゃいでいた章子の心はしかし東に見えるだろうハワイ、もしくはその先のアメリカ大陸が一向に見えないことに言い知れぬ恐怖を感じていた。
章子は恐る恐る真理の顔を伺うが真理は特段気にした風はない。
だが徐々にこの世界の全貌が現れ出した時、章子は茫然とその光景を見つめるしかなかった。
「なんで……西から北アメリカ大陸が見えてくるの?……」
北米大陸が見えだしたのは、足元から西方、アジアから中東、ヨーロッパを抜けた海、大西洋のそのさらに西の彼方からだった。
章子は慌てて直下の地形を見直した。
やはりそこにはあの日本がある。
しかしそこから東へ見た東方の地上の彼方の先には何もない。
あるのはただの海だけ。
北方のベーリング海もおそらく……、おそらくだが多分日付変更線を境にその東の先がただの大海原になっている。
「なんなの……、なんなのっ! これぇっ!」
章子は絶叫する。
まるであの日付変更線を切り取り線とでも勘違いしたかのように、巨大なハサミで切断されたのかのような世界地図の変貌。
「なんで……? どうして……っ? どうしてこんなことになったのっ!」
章子は真理を見る。
見るが真理は何も答えない。
両手で頭いっぱいを抱え倒れ込むようにしゃがむ。
それでも、そのようにしゃがんだところで宇宙へと上昇する速度は何も変わらなかった。
そしてそれは否が応でも章子を目の前の現実に突き付ける。
地球はいつまでたっても丸くならなかった。
もうとっくに全世界の国々、六つの大陸、七つの海が見えているのに地球は依然その全貌を見せない。
なぜ?
ナゼ?
何故っ?
章子は恐怖のあまりに目を瞑ってしまった。
それは出所の分からない、だが絶対的に真実的な直感から来る恐怖だった。
自分たちの世界の回りに何が起きたのかを知るのが怖い。
今の自分たちに一体何が起こったのかも知るのが怖い。
一体これから自分たちはどうなるのだろうか?
一体、地球はどれほど巨大な惑星になってしまったのだろうか?
そんなことを一切合財考えたくない章子は体を丸め縮めて閉じこもることしか出来ることがなかった。
これは地球じゃない。
地球はこんなにも巨大じゃない。
章子は丸め込めた体を力いっぱい抱きしめて自分の心を守った。
そんな時だった。
上空の宇宙から太陽の光とともに声が聴こえてきたのだ。
「世界を変えたっ! あなたはなんてことをしたんだ!」
これは……あの少年の声だった。
「私は君に見せたかった。この全てを合わせた世界を」
そしてこれはあの黒い闇の人物の声。
「見せるのはいい! でもなんで寄りによって僕たちの世界までっ!」
「君の行動を加速させるにはこれしか方法がなかったものでね」
まるで切り結ぶように繰り返される問答。
太陽の彼方から響き渡るこれらの声はまるで宇宙全体に降り注いでいるようでもあった。
「聞こえましたか?」
変遷していく宇宙の色に漂い立つ真理が耳をふさぎしゃがみ込む章子に語り掛ける。
「あなたとは違い、もう一人の少年はちゃんと世界を直視し行動していますね……」
やさしく傍らに寄り添い指をすぐ傍の近い隣に差す。
「見えますか? これが先ほどまで私たちのいた惑星です」
いつの間にか辿り着いた所は真っ暗な宇宙空間。
真理が指すのはその真っ暗な宇宙空間に自転していく巨大な地球。
「う……」
恐る恐る顔を上げた章子は見回し、その光景にまたも顔を覆った。
それは章子の知る地球ではない。
自分の知る地球は見知らぬ巨大大陸をいくつも囲むほどこんなに広大でもなく、さらに遠く月を二つも持たない。そしてその一つは赤くもない。
章子にはまだ直視できなかった。
この惑星が一体なんであるかさえ、今の章子には耐えられそうにもない。
「これは……転星です」
真理は言った。
顔を覆ったままの章子をなだめるように先を続ける。
「この惑星にはいま、あなた達の元いた地球の太古に栄えていた古代の文明が六つ、息づいています」
「六つ……」
「そうです。地上で会いましたね? カネル・ビサーレントやクベル・オルカノ、そしてオワシマス・オリル。彼らはその太古の時代の住人です。
そして、その六つとあなた達、現代文明を合わせた七つの世界、我が母ゴウベンはこれをこの惑星《転星》に集めました」
章子は何も答えない。
「今のあなたのその目ではきっと何も見えないでしょう。
だからあなたにも見えるように今から一時的に真理を付与します。ほら、それで見えるはずです」
真理が章子のこめかみに手を添える。
章子はやさしく太陽の方向に顔を向けられた。
「見えるでしょう? あれがあなた達の元いた世界……地球です」
目の前に向けられた輝く太陽を、今は眩しいと感じない。
その眩しさを感じない太陽の更に向こう、この「転星」とは反対の方向にある対岐点に章子は不思議と自分の見知った惑星があるのを感じる。
「あれが……?」
「そう、あなた達のさっきまでいた地球です」
章子は懐かしさを感じていた。
今まで写真や映像でしか見たことがないはずの地球の姿を初めて目の当たりにしたのに、なぜか胸の奥から懐かしさが溢れてくる。
「まだ……あったんだ……」
章子は涙をこぼした。
てっきり消滅してしまったと思い込んでいた自分たちの地球。
しかしそれは太陽を挟んだ向こう側でしっかりと存在してることが真理を通してわかる。
「あれが今はどういう状態か、わかりますね?」
今はもう自分たち人類のいなくなった、もぬけの殻となった地球。
章子にもそれが分かった。
あそこにはもはや人類は一人たりともいないことを。
「人類以外の野生生命は全て原型生体から向こうに残してあります。しかし分からないでしょう? 今あなた達と共にこの転星で生きる野生生物が全て完全なる模倣品であることなんて」
何という事をこの少女は言うのだろう。
章子から手を放し、真理は巨大な青い転星を目の前にしながら宇宙空間に身をゆだね、その隣の惑星と対等に自転する。
「あなた達はあの地球からこの転星に全て転移されてきたのです。
だから咲川章子、あなたはいつまでもそこで泣いているわけにはいかない」
真理は目を瞑り腕を組み自分を抱く。
「あなたは真理を手に取らなければいけない。この世界を……本当に一つにするために」
章子には真理の言葉がどこか別世界の言葉に聞こえた。