10.その心は……
「状況は芳しくないようですね……」
何気なくそう呟いたのはこの空港湾で一番高い上空で立つ羊の獣人だった。
「それはどちらについてのです?
我々? それともあなたたちの事ですか?」
不思議そうに問いかける真理に、クダリル直属の下僕である羊の獣人シモン・ペンティスラ・ジーザスは答える。
「どちらもでしょう。
我が教門に下った十二獣座たちは貴方たちの最大戦力である半野木昇に恐れをなしている。
しかし、肝心の半野木昇も何を思ってかこの戦闘を速やかに終息させようという気概を一切持っていない。
これではまともな戦闘など期待できませんね」
シモンが一瞥するように見下ろした下の空中で立つ昇は、相も変わらずクベルから一定の距離を保ったまま着かず離れずに獣支たちの攻撃を殺すことだけに終始している。
「一体何を考えているのか……。
その気になれば我々など一瞬にして撃破することのできる力を持っているというのに……」
「あなた達と一緒にしないで。
昇はただの強者じゃない。
弱者の心をもつ強者よ。だから今もあなた達の攻撃をただ受け止めているだけに留めている」
真理とともに高空でシモンと相対しているオリルが言った。
「あなた達、遣使を育てる為にですか?
それは更に酷いお話ですね。
弄んでいるじゃありませんか。
敵も味方たちも……」
シモンの問いにオリルも真理も反論することができなかった。
事実、昇は弄んでいたからだ。
敵である獣支たちに致命傷を負わせるような攻撃も行わず、クベルに向けられた攻撃の中でも特に瀕死となりうる急所を狙った攻撃だけ悉く弾いていく。
まさに生かさず殺さずの中途半端な戦いをこの場にいる全てに強制している半野木昇。
「果たしてその真意はどこにあるのか? 疑いたくなりませんか?
きっともちろん、私とあなたたちのこの戦闘も、敵味方区別なく誰かがどこかの急所が狙われれば半野木昇が介入するのでしょう。
味方を守り、かといって敵の傷も癒す、この戦闘の主導権を完全に握った半野木昇。
それでも我ら神の羊は退きませんよ。
あくまで今の半野木昇は我らの敵なのですから。
問題はあなた達です。
あなた達は脅威からだけ身を守られ、しかし面と向かった相手には何も手を出さない自分たちの仲間を信頼することができるのですかね?」
その言葉はもちろん下で苦戦するクベルをフォローしている昇にも届いているはずだが、昇の取る行動に変化は見られなかった。
「いいですね。彼こそは我が主の隣に相応しい」
シモンは品定めするように昇を見ていた。
「バカを言わないで。昇は絶対にそっちへは行かせない」
紫の真理の光を纏わせオリルが強い視線をシモンに向ける。
「残念ながら、オワシマス・オリル。
我が主はもはや貴女など歯牙にもかけませんよ。
今の我が主が思考する最大の関心事はただ一つ、半野木昇だけです。
彼を想い、彼を遠くから見つめるだけで自らを慰めるに終わる我が主の哀れな姿は、下僕である私の目から見ても耐え難いものなのですから」
「クダリルが……?」
「私の前で主の御名を口にするのは控えて頂きたい。むやみやたらに人の怒りを買いたくないのならね」
そう言ったシモンの 手の平に浮かび上がるのは紋章。
水の輪郭で燈った魂の紋章だった。
シモンは彼ら獣支たちのような魔動媒体、十二獣具を持たない。
その代わりとなる力の源がこの真理紋章だった。
「それでは遊びましょうか。
特に別人でありまた同一人物ともいえる違う位置エネルギーの同じ人物から生み出された愛玩生命同士、それの力比べのできる充足感は想像するよりも遥かに得られるものが多そうです」
その知的好奇心の色を強く放つ羊の獣人の眼差しは神の娘である真理に向けられていた。
同じようでやはり違う過去と今の少女クダリルを母とする羊の獣人と神の娘。
「ああ、母の言っていた事紀に呑みこまれたという他の二人の仲間というものが誰のことを云っているのか、今やようやく分かりましたよ」
「何の話ですか……?」
呟いた神の娘、真理の言葉に羊の獣人シモンが首を傾げる。
「あなた達だったんですね。黒山羊のシオンに白羊のシモン。
だから、その義理堅さが主を守るための事紀の犠牲になる要因だった。
……しかし一つだけ間違いがありますね。私たちはそれぞれの親の愛玩生命ではありません。
独立した一つの個体です。だから母はもう一人の貴方たちのことも仲間と言った。
そうです。
私たち姉妹の事も娘と呼んでいることと同じようにね……」
「私たち……姉妹?」
長々と語る真理の言葉に再び疑問を感じたシモンだったが、だがそれに真理が答える前にことは動いた。
「何故、奴らの方が真理行使で上回っているんだ?」
真理やオリルが立つ高空より遥か下の空。
オウドビやマヌハの放つ鎖と棒術による攻撃をすれすれに躱しながら、カネルは狙いの定まらない荷電粒子の弾光を放てる限り放っていた。
しかしそのどれもを容易く躱し相転移機動を繰り返す獣人たちは遠近自在に間合いを図る。
それを目の当たりにするカネルは唇を噛んだ。
十二獣座たちはカネル自身よりも真理行使の上で基準となる真理学適性が低いはずだ。
にもかかわらず今のカネルでは手の届かない高等真理学技術である相転移機動を自由自在に使いこなしている。
「この違いは一体なんだっ!」
自分の不甲斐なさに憤るカネルを慮りながら、章子はカネルに致命傷を与えようとする攻撃だけを集中して払い落とす。
「たぶん、あっちは真理項目かなんかで相転移機動を簡略化して使うことができるんだと思う……」
章子は自分の思いついたことを言ってみた。
「真理学項目……?」
カネルの問いに章子は頷いた。
航空魔術などの魔術項目と一緒だ。
あらかじめ使用用途を明確化して組み込み備え付けておく発動項目。
あとはそれをコンピューターシステムと同じ間隔で使いこなせばいい。
それは特別な技量など必要としない、単なる道具の使用と大差ない発動項目。
「なら、それが私にもあれば……」
だがカネルに与えられた真理媒体、銀飾短銃コマー・フォルトには初期の項目として魔動項目はあっても真理項目は無かった。
「それを何故だと問えば、返ってくる答えは分かり切っているわけだ……」
カネルに真理媒体を与えた張本人、真理はきっとこう言うだろう。
『この私、真理生命に選ばれたあなた達は獣支ら行使者とは違い創始者なのですよ。
だからこそ、これからのこの新世界で必要となる力は、自分自身で生み出さなければなりせん。
でなければ意味がない。
こんな獣支たちのような真理項目を使うだけしか能のない真理学適性の低い彼らとは違い、
自分で自分たちだけの力を創造する潜在力があなた達にはあるのですから、それを使わない手はないでしょう?
しかも、それに到達した瞬間こそがこの新世界の扉を開く、ただ一つの鍵であると知れば尚更にね……』
まるで、いずこかにでもいる厳しい教官のような言葉ではないか。
「それをあと二分もない時間で辿り着けと言うのだから鬼と言うほかないっ!」
しかし、そこで最初に心の折れた者がいた。
カネルの上空。
避けれるはずの数々に及ぶ射矢槍を躱さずに立ったままでいるクベル。
その目は力を失い、自失し、ただ茫然と避けることを止めて立ち尽くしている。
このままでは射矢槍に串刺しにされるが、そんなこともお構いなしにただクベルは力なく離れていた昇を見つめているだけだった。
「どうせ、この攻撃さえも君が消すんだろう?」
その目の訴えの通り、四方から襲い掛かっていた射矢槍の威力は被弾する直前でかき消された。
その光景にとうとう自嘲し、やつれたように立ち尽くす。
「僕には……。僕には、もうムリだ。
これ以上、真剣に戦いを続ける気にはならないよ。
あとは全部、君一人でやればいいんじゃないかな? 半野木昇くん」
それは皮肉だった。
どうあっても捉えきれない相手の攻撃にさらされ、しかも目の前ではそれを嘲笑するように自分の苦戦する相手を手玉に取る仲間。
その光景を見せつけられて、それでも戦意を保てという方が無理難題を言ってるように等しい。
そこまで考え、危うく自分の剣までも放り出そうとする自暴自棄になったクベル。
「僕には君が分からないよ。君はこの戦闘で僕に何をさせたいんだ?」
それはこの実力の差を認めて欲しいのか、褒めて欲しいのか、憧れて欲しいのか、羨んでほしいのか、いずれにせよこの戦闘の結果から得られるものなど、たかが知れていた。
「……そうか。ぼくはいらないか」
だが昇はただそう言って、そんなクベルの疑心暗鬼に配慮をすることもなく本を閉じる。
「何をする気だい……?」
余りに見当違いの行動を目のあたりにし訊ねたクベルに昇はただ答える。
「何って、どうやらぼくは必要ないみたいだから、この戦闘で壊れたものを全て元通りにしてから消えようと思っただけなんだけど……」
真理の色を消し、戦闘を継続する意思さえ消した昇はもはや誰の姿も見てはいない。
それを見て慌ててクベルは吠えた。
「冗談じゃない。これだけ戦闘をかき乱しておいて、最後はとんずらかいっ? 何のカタもつけずに?」
だが昇はクベルを一瞥もしない。
「昇っ! 僕を怒らせないでくれっ!」
「だったら、戦闘を続けるんだね。それが僕が遣使にいる最大の理由なんだから……」
クベルの怒声にやっと一言だけ昇は冷徹な言葉を口にした。
その一言はやはり戸惑うクベルの理解からは遙かに遠いものだった。
「……の、昇……? 一体何を言って……」
クベルは茫然としながら、去ろうとする昇の背をただ眺めることしかできなかった。
「我らはいつでも貴方を歓迎しますよ? 半野木昇。
あなたにはいつでも我が主の隣が約束されています」
囁かれるのは、その光景を端から伺っていたシモンの甘言。
その厚意を受けてか、昇はクベルへ最後に一言を残していく。
「せっかくこの正念場を乗り越えたら君を、名前の方で呼ぼうと思ってたんだけど、その必要もなくなったね」
「なんだって?」
「だからこれからはオルカノくんじゃなくて名前の方で呼ぼうと思ってたんだよ。
ずっとそう言えって言ってたじゃないか。
それにこの戦闘が終われば君の力も大分ぼくに近づくし、なんかそうした方がいいみたいな感じにもなってたしさ。
でもそれも、もう必要もないみたいだし……。
さよをなら、かな? ……クベル?」
去ろうとする昇にクベルは呟いた。
「待ってくれよ……」
昇の足がそこで止まった。
クベルの目に光が戻る。
火の許約者の心に今再び戦意という名の炎が燈った瞬間だった。
「それを早く言ってくれれば……よかったのにさ……」
そして自身の持っていた剣を握り直し、勢いよく鍔なり鳴らす。
「見せるよ……。
例え君にどんなに弄ばれようとも、君に僕の名を呼ばせるためだけに僕は立つ!
本当の許約者だけの戦い方の真髄ってヤツを見せながらにさっ!」
昇に自分の名を呼ばせること。
それだけでも、この戦闘で得られるものは十分にあった。
それこそだけは、例えどんな辛酸を呑まされるとしても、クベルにとって絶対の価値を秘めるものだったのだから。




