3.湖面の三様
夜の湖の水面上を航空魔術の推力で浮かび、光学表示された青い光罫線が球体を模しながらゆっくり回転して照らしている。
その青い光罫の球体の中心で半野木昇はつま先を水面に付け波紋を広げながら、真理媒体である本を手にして光学表示を繰り各部の確認をしていた。
一定出力を保たせたままの機動魔術群に微かな強弱の波を作らせる。
その波に乗って目の前に表示させた各計器類の針の振れ幅が一致しているかを確認する。
「空調魔術、機動魔術ともに作動良好、同時起動による複合魔術の出力調整も問題なし……か」
航空魔術の発動系、計器類は正常に作動している。
続いて探査系に移る。
光学表示から光学航空計器類を消し、続いて縮小させた転星規模の光学世界地図を表示させる。
「探索の強度は真理学解析を基準にして。
……それでもゴウベンの真理学プロテクトに邪魔されればその先は覗けない……」
光学空間表示で展開させた仮想の転星を目の前にして昇は呟く。
改めてその姿を見ると昇は嘆息した。
七つの世界が一つになった巨大惑星「転星」
その地球の三十倍以上はあろう地表には巨大な超大陸が三つあり、その転星独自に設けられた三つの超大陸に囲まれた大洋の中に、過去の六つの世界と昇の世界の大陸が集められている。
そして今はそこにあの神の羊となる教えの首頭、アワントス・クダリルの創りだした三日月状の星環が転星の赤道上の衛星軌道広域に展開している。
「今のところそのどれもに異常はない……」
だが一つだけ気がかりなことがある。
それはあの時消えていった「神の羊となる教え」たちだ。
「……でも、今はその神の羊となる教えにも動きがない……」
昇の真理学解析では退却していった神の羊となる教えたちの位置エネルギー反応は超大陸の先に延びる東端の岬で消えていた。
それは新世界超大陸の中で三番目の大きさを誇る北の超大陸「タイラント」。
そこで彼らがこれから何を企て何をするのかまでは分からない。
それ以上にその先には強力な真理学妨害が張られていて、それより先を詳しく探るにはそれなりの根気が必要となる。
だから昇も当面はその場所を覗くことは先送りした。
今は何よりも自分たちの足場を固めるのが先決だった。
「それにしてもこの力はあまりにも強力過ぎる」
あの時の世界掌握。
これから先の戦闘ではなるべくこの規模の真理学解析は控えたいが、死人が発生するほどの戦闘になれば必然的に使用せざるを得ない。
「……いまならゴウベンさんの気持ちもわかるかな」
自らを神ではないと言った神、ゴウベン。
神になりたがる人間はたくさんいるのに、いざ神に等しい力を手に入れればその神の座から遠ざかろうとする人間。
「結局、神さまになれば待ち受けるのは人間の小間使いという身分か……」
人は奴隷を神の様に扱き使い、人は神を奴隷の身分の様に扱う。
それはこの十四年という歳月の中で昇が気づいた真理だった。
「一見差別的な格差のある食物連鎖の頂点と底辺は、蓋を開けてみればその地位は表裏一体。
……人は食物連鎖の一番底辺である樹の実のなる傘の下でしか生きながらえられない……」
だがそれは真理の力がなかった時代での話だ。
その軛をこの真理学は簡単に取り払う。
人は何処から来て何処へ行くのか……。
「人は事から来て事へと行く……」
そんな真理にとっくの昔に辿り着いた昇でさえ、今もまだ惑う。
「問題はその「事」をどうするかが命題なんだ」
しかし惑う昇でもその答えにはもう辿り着いている。
その答えをこの世界で結実させるには犠牲が必要だった。
世界を敵にするという考え方を持った個人という犠牲が。
「その為にはこれから起こるだろう事態にあらかじめ対策を立てておかないと……」
特に急務なのは、これからの戦闘手段だ。
まずは神の羊となる教えの一派となった十二獣宮たちもこれから駆使してくるだろうと考えられる真理学戦闘の要、相転移機動の使用。
それはこれから先、昇や章子たち遣使側は使用を控えた方がいいだろう。
この狭い地表上での相転移機動の使用は宇宙空間とは比べものにならないほど、心身ともにその負担を大きく強いらせる。
特に一旦戦場となれば即座に廃墟と化してしまう真理学による市街地戦を想定すれば、その果てしない機動距離、機動速度を誇る相転移機動は封印した方がいい。
「一応戦い方次第では、航空魔術でも十分に対応は出来るようだし……」
いかな相転移機動とはいえ小規模の真理学解析と航空魔術による高機動の物理挙動である程度は対応できることは仮想戦闘で何度か確認している。
「あとは、これをオルカノくんやビサーレントさんにも伝えておけばいい……」
彼らはまだ真理学戦闘ができる段階まで真理学適性が到達していない。
だからこの戦術は彼らにとっても朗報となる。
そう思った昇は本を閉じ、周囲に展開していた青い球体の光学空間表示を消して湖面に両足を付けて立つ。
仰いだ夜空を見て深く息を吐いた。
絶え間ない幾万の星々、星雲、天の川の輝く夜宙。
この夜空が新世界の夜空になればいい。
その為には昇に残された時間はあと一年しかない。
「やるしか……ないよな……」
「何をやるしかないの……?」
呟いた昇の背後で湖面に舞い降りたのは長い黒髪の一人の少女だった。
「何がやるしかないの……? ……昇?」
出会ってからこの方、下の名前で昇を呼ぶのはオワシマス・オリルだった。
「オワシマスさん……」
「オリルでいいって言ったでしょ? いつになったらそう呼んでくれるの? 昇」
そうは言うが、昇はオリルと違って気安く異性とそんな風に呼び合う度量はない。
「その内ね……」
「その内って?」
「その内はその内だよ……」
湖面を歩いて昇はロッジに戻ろうとする。
その背中を見つめてオリルは呟いた。
「章子、拗ねちゃったわね」
昇が足を止めた。
「私、思った。やっぱり昇はいつか章子たちとは相反するって。
章子はきっと昇のような考え方とは真正面からぶつかっていくから」
「だろうね」
その答えには力がない。
「でもその時、私は昇のそばにいたい」
「気が早いよ。僕たちはまだ十四だ。これから先いくらでも時間はある。その時に答えを出せばいい」
「じゃあ、その時に昇はいるの?」
昇は立ち止まったままだった。
「さあね。そんな先のことは分からないよ。人生、何があるかわからないんだから」
「ほんとよ。私はてっきり、あの後、昇は私と行ってくれるものだとばかり思ってた」
自信ありげに拳を腰に当て憤懣を表わすオリル。
「オワシマスさんは男を見る目がないよね」
「そう? だったら大半の女子は見る目がないわね」
「その話は止めてッ」
急に思い出したように昇は赤面し、湖面に伏せって目を瞑って耳を抑えた。
「いいえ、止めない。
知ってる?
聖教国のグレーセって「神に選ばれし者」の為にあの聖女の女の子も含めた三十万ほどの若い巫女、修道女たちが最適齢期が過ぎるまでその身の貞操を清廉潔白に守っているんですって?」
「だからやめてっ」
昇は顔さえも埋める。
「あの聖教国の主である聖女があなたを見る目を見た?
ハッキリ言って人のものを取るなって言いたくなる目よ?」
「いったい誰が誰のものなんだよっ?」
「言わせたいの?」
「いや、言わなくていいです。頼むから何も言わないでっ」
昇は絶叫した。
どうやら昇は聖教国の神にその身を捧げる聖女、巫女、修道女のうら若き少女たちのお眼鏡に叶ったようだった。
ラティンから離れる間際、それまで話したこともなかった聖教国グレーセの主、聖女マリア・マセリアから声を掛けられたことが今さらながらに思い出される。
次いで思い出されたのは真理の言葉だった。
『あなたはその気になれば聖教国の守る至宝、聖剣ラナを引き抜くことが出来ます』
その言葉の意味を次のオリルの発言が解説する。
「良かったわね。真理の言ってた通り、その聖剣を引き抜けばそれは聖教国の真の主の証し。
三十万の若くて可愛い女の子を好き放題、より取り見取りよ。凄いハーレムね。羨ましいわ」
心にもないことを最高の笑顔で言うオリル。
「おまけに水の許約者や第六世界のお姫様にまで色目を使って……!
この女ったらしっ」
「はっ?」
昇は愕然となった。自分が何を言われているのかがわからない。
「目に触れた女の子全員を興味深そうに見てたでしょ?
気づいてないとでも思った?
悪いけど、これは章子も周知の事実よ。
私と章子が二人であなたの何を話してたと思う?」
それは決して真理学解析では絶対に覗いてはいけない領域だと昇は悟った。
「いい。……知りたくないっ!」
世の中、知ってはならない領界というものがあることを昇は自覚する。
「そうやって逃げるの?」
ここから足早に去ろうとする昇をオリルは呼び止めた。
「それでも私はここにいる。それがなぜだか、昇には本当に分からない?」
昇はしばらく立ち止まった後、思い出したように呟く。
「分かるよ……。分かるけど、やっぱりオワシマスさんは見る目がないと思う……」
「そう、ならそんな見る目のない女が言うわ。このムッツリスケベっ!」
「もう……何とでも言って……」
半ば諦めた顔をする昇。
この際、好き放題に言われることにした。どのみち、そんな長くは遣使側にもいられないのだから。
しかし、ふと気づくとオリルは昇への罵倒を止め湖岸のロッジのある方角を見ている。
「オワシマスさん……?」
「章子……」
オリルの見つめる先、その湖岸の縁には章子が立っていた。
オリルとは色違いのピンク色の無地の衣を着て昇とオリルの方を見つめている。
オリルが後ろ手を組んで昇に振り向いた。
「今日の所はこれぐらいにしてあげる。お邪魔虫は退散してあげるから。仲直り、できるといいわね」
何かを悟って気を遣ったのか、そう言ってオリルは湖面を蹴ってアイススケートをする様に水面を滑り離れていく。
だがオリルが離れても章子に昇へ近づこうとする気配はなかった。
昇はどこかその意図に合点がいったのか自分の胸に章子の光の羽根を模した自分の光の羽根を灯す。
「これで話せるよ……」
湖面の上で昇が話しかける。
章子は今までしまっていた自分の気持ちを吐き出した。
「わたし、自分が悪かったなんて思ってない」
「うん……」
それは昇も頷く。
「でも半野木くんはそんな私を理解して……否定するんでしょ……?
なんでもわかってますっていうような顔してっ!」
「……うん」
章子の目じりに涙が滲む。
「そうやって、なんでも悟ったような顔して……っ! 仙人にでもなったつもりッ?」
自分を睨む章子を、それでもただ昇は見つめ返す。
「私、昇くんなんか嫌い。大っ嫌いっ!」
「うん……」
ただ頷くしかしない昇に章子は頬をつたう滴を手でぬぐった。
「それでも私、昇くんにはここから居なくなって欲しくないの……、なんでだろ……?」
昇は答えなかった。ただ揺れる湖面の波に視線を移す。
「帰りたい。元の……、元のこんな新世界じゃない私たちの前までの現代世界に……」
そんな本心ではない言葉が胸を突く。
だが、いずれにせよそんな世界などもうどこにもないことも事実だった。
「いつか……」
章子が突然口を開いた昇を見た。
「いつか行ってみよう。
あの誰もいなくなった僕たちの地球へ……」
昇が虚空を仰いだ夜空を視線で差す。
それはまだ一人では真理の空を跳べない迷える小鳥へと差し伸べられた、いつか必ずその命が儚く散る運命にある少年からのせめてもの約束だった。




