ときめく刻-2
「よっ……と。取り敢えずここに置いておけば……いいんだろ?」
「……そう。有難う」
辿り着いた備品室の床へ箱を置くと、拓人は軽く肩を回す。
そして少女は感謝の言葉を紡いで、ぺこりと頭下げた。
その仕草に拓人は慌てて、片手をパタパタと左右に振る。
「ああ、いや! そんなに大した事はしてないからさ。無事に運べて何よりだ」
「……ちょっと驚いた。力持ち、なんだ」
「いや~、男だからフツーだよ。まぁ親が元気に産んでくれたお陰かな」
異性から褒められると照れ臭く、それを誤魔化すみたいに拓人は冗談っぽく呟いた。
「でも私だったら、こんなに早く終わらなかった……」
少女は自分一人でもやり終える自信はあったが、正直荷物が重くて歩みは遅く、拓人と衝突した時には腕が痺れ始めていたのだ。
自分が苦労して何とか持ち上げていた物を、軽々とここまで運んできた拓人に対して凄さを感じる。それが素直な心だった。
何となく擽ったい心地に落ち着かなくなり、話題を変えようと拓人は段ボール箱の中身を見下ろす。
「でもさ、剣道部の備品に何で鉄アレイがあるんだ? ……まさかこれで鍛えてるのか?」
自分で言いながら、拓人は頭の中で想像してみる。
うら若き女子達が一列に並び、両手に鉄アレイを持ちながら――ふん、ふん、と鼻息も荒くトレーニングに勤しむ光景を。
果てしない残念感が胸の中に広がり、拓人は乾いた笑いを浮かべた。
「ううん、違う。これは顧問の趣味。体育の菅原先生、知ってる?」
「あー、菅ちゃんか! へー、剣道部の顧問だったんだ。でもあの人なら納得だわー」
「部活動中も肌身離さず持ち歩いてて、自分を鍛える事に凄く熱心みたい」
「……顧問として終わってやがる」
菅原は冬でも上半身タンクトップ一枚で過ごすという、校内でも有名な教師の一人だ。
筋トレが大好きで、マッシブな肉体を見せつけたい為に年中薄着なのだという噂だ。
彼ならば鉄アレイを愛用していてもおかしくない。寧ろ自然の摂理だと納得できる。
腑に落ちた様子で拓人は頷き、呆れた表情を浮かべた。
「しかし菅ちゃんも私物を生徒に運ばせるなんて酷だよなぁ。しかも女子に」
「部活後に用事が出来て、急いで帰らなくちゃいけなくなったみたい。それで私が代わりに片付けますって申し出たの」
「用事?」
「奥さんにキャバクラ通いがバレて、実家に帰られてしまったとか、何とか」
「……人としても終わってやがる」
呆れるのを通り越して、拓人は可笑しくなってしまった。
何だかツボに入ってしまい、腹を抱えて笑い出す。
それを少女は不思議そうに、ダークブラウンの瞳で見つめる。
きょとんとした表情が、小動物っぽい。
「あははは、あれだけムキムキなのに奥さんの事で慌てるとか、何か笑える」
「可笑しいの?」
「っく、ふふ……ええ? ソッチは面白くないのか? ……えーと、……名前……」
「平井義乃」
淀みなくさらりと落ち着いた声で、剣道少女――義乃は呟いた。
「ああ、俺は麻宮拓人。……よしのってさ、何か凄く和風っぽくて、お淑やかそうな名前だな」
「……そう? うちの学年、平井って苗字の人が他にも五人居るから。下の名前も一緒に言うのが癖になってて……」
「ああ、それじゃあもしかして二年生? 俺のクラスにも居るよ、平井って女子。……平井は何組なんだ?」
「A組。紛らわしいだろうから、義乃で良い」
「そ、そうか? ……じゃあ、そうする。俺はC組だ」
同学年なら今までに廊下ですれ違った事くらいはあるだろう。
しかし今日が初対面といっていい女子の名前を呼ぶ事は、拓人にとって少し気恥ずかしい行為であった。
男女の仲でいえば相当親しい間柄か、彼氏彼女の関係に許されている呼び方だと勝手に決めていたから、ちょっとドキドキする。
「それじゃあ、そろそろ出ましょう。手伝ってくれて有難う、麻宮」
「ん、ああ、どういたしまして。じゃあ行くか……うぉっ!?」
二人並んで部屋の外へ出ようとした瞬間、突然大きな揺れが拓人の身体を襲う。
何の前触れも無く床が激しく動き、衝撃で立っていられなくなった。
これまで淡々とした態度を取っていた義乃も、その時ばかりは身体のバランスを崩して年頃の少女らしい悲鳴を上げた。
「――きゃあっ!」
「危ないっ!」
部屋の壁際に固定されていたステンレス製の棚から、剣道用の古びた防具が雪崩の如く一気に落ちてくる。
拓人は義乃をガードする為、咄嗟に自分よりも小さな身体へ素早く抱きつき、覆い被さっていった。
「お、わあぁぁぁぁっ!?」
頭上から降り注ぐ面や籠手を背中に浴びながら、ただ只管に腕の中の少女を守る事だけを考えて身を挺する。
……それからどれ位の時間が経ったかは、分からない。
三十秒かもしれないし、下手をしたら一分以上も長く揺れていたかもしれない。
地球が壊れるのではないかと思った激しい地震は、ピタリと止まっていた。
「は、はぁ……ハッ……」
早い呼吸を繰り返す。恐ろしさの所為で心臓が早鐘を打ち、息が荒い。
周囲を舞う細かい埃が喉に張り付いて、拓人は咳き込んだ。
「ごほ、かはっ……! はぁ……義乃、大丈夫……か?」
ぎゅっと強く瞑っていた瞼を薄く開けて、義乃の無事を確認しようとした瞬間。
拓人はごくり、と息を飲んだ。
「……っ!?」
首筋に感じる、一点の熱。
何かしっとりと生温かで柔らかいモノが、敏感な場所に触れている。
「えっ……?」
腕の中に抱き締めた義乃の唇が、ぴったりと拓人の喉元へ重なっていたのだ。
――とくん、とくん。
女の子の唇が、自分の皮膚に触れている。
乾いた地面に雨水が染み込むように、身体の内側へ浸透する熱。
その感触に興奮し、拓人の心臓は熱く脈を打っていた。
「んっ……」
自分の下で仰向けに横たわる義乃がぴくりと身動ぎ、小さな呻き声を上げた。
同時に白くてスッと筋の通った彼女の鼻梁と、淡く漏れる湿った吐息が拓人の頬へ触れる。
初めて体験する甘美な刺激に、ぞくん、と拓人は全身を震わせた。
「……はぅっ……!」
拓人は思わず小さな奇声を漏らしてしまう。
そして喉元だけでなく、拓人の厚い胸板からも素敵な感触は広がっていた。
むにゅん、と柔らかくも張りのある二つの膨らみ。
程良い弾力を備えた義乃の胸が、剣道着の下で窮屈そうに押し潰されている。
もう拓人の頭の中はパニックだ。
耳の直ぐ傍で心臓が鳴っていると錯覚するほど、大きく拍動する心臓。
早く義乃から離れなければいけないと思いつつも、魅惑的な感触からは離れがたい。
男の本能に抗えず、義乃を押し倒した体勢のままじっとしていた。
「……や、……。あさみ……や」
「うぉっ!?」
とろけそうな至福の表情を浮かべていたのも束の間、不意に名前を呼ばれて驚く拓人。
見下ろせば、何かを訴える義乃の強い視線がこっちへ注がれている。
小さな手で少年のシャツの胸元をきゅっと掴みながら、桜色に艶めく口を開いて。
「…………重い」
「あ、わ、悪い! 今、どくからっ」
かぁっと顔中を真っ赤に染めて、拓人は義乃の身体から飛び退いた。
そのまま床の上で正座をして、おずおずと少女の顔を見つめる。
気分を害してしまっただろうか。そんな不安が拓人の表情に表れる。
そんな少年の心配をよそに、義乃は平然と立ち上がった。
「……凄い地震だった。……麻宮、大丈夫?」
「へっ? ……あ、ああ! 俺は平気。――大丈夫、問題ない」
相手を安心させる為に、キリッと表情を引き締め、ドヤ顔を浮かべて見せる拓人。
しかしそんな拓人のジョークをさらりと無視して、そう、とだけ義乃は呟いた。
「――っと、俺の事より、義乃は平気なのか? 怪我、してないか?」
「私も大丈夫。……麻宮の、おかげ」
「そうか、良かったぁ……」
「でも、荷物が……。片付けないと」
義乃は周囲の散らかり具合に溜息を漏らし、床に転がる籠手を拾い上げようとした。
「うへぇ、こりゃ酷いな。……ああでも、凄い地震だったからまだ余震があるかも。一旦外へ出ようぜ」
「……なるほど。うん、そうね」
拓人の意見に義乃が同意を示すと、二人は揃って倉庫の外へ出た。
丁度その時、ピンポンパンポンと音楽が流れる。
校内放送の合図だった。
(えー、生徒の皆さんにお伝えします。
ただいま、大きな地震がありました。
ただいま、大きな地震がありました。
校内に残っている生徒達は先生方の指示に従い、慌てず落ち着いて行動して下さい。
繰り返します……)
「……大丈夫かなぁ、皆。怪我した奴、いないと良いけど」
心配そうに呟きながら、拓人は校庭を見渡す。
生徒達は騒然としているが、幸い目につく所に怪我人はいない様子だ。
直ぐに皆も落ち着きを取り戻し、教師の指示に従ってそれぞれ部活用具を片付け始めている。
拓人が予想した程の事態には、なっていない。
この様子なら家族や友人達も大丈夫そうだ。
不安な気持ちは若干残るが、ほっと息を吐き出す拓人。
一方で義乃は、軽く握り締めた手の甲を唇に当てて何かを考え込んでいる。
「うん? どうした? ……何か心配事か?」
真剣な表情と沈黙が気になり、拓人は義乃の顔を覗き込む。
「……何でもない。私、ちょっと急用を思い出した。行かないと」
「えっ? おい……」
「今日は有難う、麻宮。それじゃあ」
「あ、ああ……。おーい、気を付けろよ! 何だか知らないけどさ~っ!」
義乃は手早く倉庫の扉を閉めると、真っ直ぐ何処かへ走り去っていってしまった。
「……大丈夫かな、あいつ」
埃で少し汚れてしまった白い剣道着が遠ざかるのを眺めつつ、拓人は親しい者達の顔を思い浮かべる。
義乃も誰かを案じて、慌ててその安否を確かめに行ったのだろうか。
そんな事に思いを馳せていると、不意にキーンコーン、カーンコーン、とチャイムの音が響き渡った。
その音につられてハッと何かを思い出し、慌てて携帯電話の時刻表示を確認する拓人。
ディスプレイに浮かんだ六時という表示を目にして、絶叫する。
「ああああぁ! やっべー!」
や く そ く が。
闇朱が手紙で指定してきた時刻を過ぎてしまっている。
拓人は急いで鞄を取りに教室へ戻り、約束の場所へ向かうべく学校を飛び出していった。