ときめく刻-1
昼休みの時間を迎えた校舎内は、夏服に身を包んだ生徒達の明るい声で賑わっていた。
――私立花菱学園。
拓人が通う高校で、彼の自宅から歩いて二十分程の高台にある。
校舎はまるでビルのような外見で、壁の多くがガラス張りになっていた。
緑豊かで広々とした敷地内に、校庭や体育館、室内プールなどの施設が整然と並んでいる。
最近設立された学校らしく、様々な設備も新品同然だった。
学校指定の女子制服やカバンは、そのデザインが可愛らしいと他校の女子生徒からも羨ましがられている。
豊かで美しい海と山を有する、ここ清玄市の名物施設の一つにまでなっていた。
それゆえ毎年受験シーズンには、多数の入学希望者が訪れるという人気の高校だ。
その二年C組が、拓人の所属するクラスだった。
そのままサラリーマンが出勤してきてもおかしくなさそうな、オフィス風の教室内。
オフホワイトの壁には学校であることを示すように、ちゃんと黒板が掛けられている。
生徒達が思い思いに談笑を交わしながら、弁当やパンを食す。
そんな室内の一角で、はしゃいでいる二人の男子がいた。
「あさみー、今週号のガッツ見た?」
「見た見た! 『かまぼこブレイン』見たかよっ? ヨッシー」
「見た見た見た! 鱈子のメイド姿、もうメチャクチャ萌えたよー!」
「な! やっぱりあの漫画の作者って、ツンデレ女を描かせたら一流だよなぁ」
『週刊ガッツ』と大きく印字された厚いコミック雑誌を、拓人の机の上に広げて興奮気味に話す小柄な男子生徒がいる。
吉田法健。
髪は短い焦げ茶の癖っ毛で、小さく丸い瞳と、鼻の上に散るソバカスが特徴だ。
大柄で逞しい体格をしている拓人と、女子生徒のように華奢な身体の法健。
彼らはお互いに「ヨッシー」、「あさみー」とアダ名で呼び合いながら、親しげに漫画の話題で盛り上がっていた。
「あー! それ今週号のガッツ? 『デッドスタイル』載ってた?」
ふと頭上から降りかかる声に反応し、着席していた拓人は顔を上げる。
朗らかで澄んだ声の主を見上げながら、拓人はふっと目尻を緩ませて微笑みを浮かべた。
「ああ、載ってる。ケインがすっげーカッコいいぞ、今回は」
「ホントーっ!? やった、見せて見せてー!」
「秤音さん、ケイン推しだもんね。ほら、カラー扉にも大きく出てるよ、ココ」
「きゃー、カッコいぃ! ケインさんマジ天使だよ~。ありがとう、吉田君」
好きな漫画のキャラクターが大きく描かれたカラーページに見惚れ、感嘆の声を上げる少女がそこに居た。男二人で交わしていた熱い会話に、華やかな雰囲気が新たに加わる。
少女は円らな暗緑色の瞳をうっとりさせて、満足気な表情を浮かべていた。
秤音闇朱
拓人達と同じ二年C組に在籍する、長い黒髪の美少女だ。
緩やかに内側へ巻かれた毛先が、ふわりと軽やかに揺れている。
半袖の白ブラウスを着た姿は爽やかで眩しく、窓辺から差し込む夏の日差しを受けてキラキラと輝いていた。
きっと漫画かアニメなら、光るエフェクトてんこ盛りで彩られるシーンだろう。
外国人の血が混じっている所為か、闇朱の目鼻は他の女生徒よりもハッキリしていて、思わず目を向けてしまう魅力に満ちていた。
特に拓人の意識を奪って仕方がなかったのが――ぽよん、と効果音が聞こえそうな程に盛り上がる、闇朱の豊かな胸の膨らみだ。
闇朱は机の上に身を乗り出す体勢で、ケインの活躍に見入っている。
だから着席している拓人の丁度目前で、ブラウスのボタンを弾け飛ばしそうな質量が魅惑的に揺れていた。
白いブラウスの裏から薄らと、ミントグリーン色のブラが透けて見える。
拓人の胸奥で心臓がどくん、と強く高鳴った。
目が釘付けになってしまいそうな突然の誘惑に対し、拓人は必死に抗うべく視線を机上の漫画に向ける努力を試みた。
しかし抗えぬ雄の本能に引きずられ、顔の脇で存在を主張しまくる闇朱の胸元を、どうしてもチラ見してしまう。
(俺の目が魚眼レンズ並みの視野を備えていたら、余裕でガン見出来るのに)
そんな風に、拓人は興奮で少しおかしくなった思考を巡らせていた。
「あんじゅ~、ちょっとコッチ来て~」
ふと夢中で漫画のページを捲っていた闇朱に対し、ダルそうな声で呼びかけるクラスの女子が一人。
彼女は他の女子数人とグループを組んで、教室の隅に集まっていた。
闇朱は雑誌から一瞬顔を上げると、手の平を彼女達へ向けて制止の意を表していく。
「ごめーん、後ちょっとで見終わるから、少し待ってて」
漫画の場面は丁度クライマックスシーンを迎え、見開きページ一杯に闇朱お気に入りのキャラであるケインが格好良くポーズを決めている所だった。
「ダメー。いいから、早く来てってば。オタクが伝染すっぞ」
今度は少し強めに、棘を含んだ声で再び呼びかけてくる女子生徒。
その何気ない一言にカチンときた拓人は、不機嫌そうに眉を顰めた。
彼女はグループのリーダー格で、闇朱ともよく談笑したり昼食を一緒にしたりしている。
しかしいくら友達だからといって、折角楽しそうに漫画を読んでいる所を無理に呼びつける事は無いのではないか。
用事があるなら、向こうの方からこっちへ来ればいいのだし。
拓人はそんな風に思うものの、直接文句を口に出す事はしなかった。
下手に女子達の機嫌を損ね、自分が嫌な目で見られたくないという気持ちもある。
しかしそれだけではない。今は生徒達が楽しく過ごしている、折角の昼休み時間だ。
下手な発言は場の雰囲気を悪くする。
何より、もしも自分が口出しする事で、闇朱と彼女達の仲が険悪な雰囲気になってしまったら大変だ。
そこまで考えれば、ここは大人しくしているのが得策だと拓人は結論づける。
そんな風に想いを巡らせていた時――ふぅ、と闇朱の微かな溜息が拓人の鼓膜を揺らす。
ささやか過ぎる音色の為か、法健は気付かず拓人だけが反応を示した。
「――秤音?」
心配そうに闇朱へ顔を向けた拓人だったが、闇朱自身は相変わらず無邪気な笑顔を浮かべたままだった。
「――何? 麻宮君」
「あ、いや……何でも無い」
てっきり気分を害した表情を浮かべていると思ったのに、全然そんな様子はない。
気のせいか、と拓人は自分を納得させる。
「ごめん、私行くね。吉田君、ありがとう。また機会があったら読ませて」
「ああ、いいよ。またね、秤音さん」
法健が快く返事をすると、闇朱はにっこりと笑みを深めて去っていく。
――いや、立ち去る間際に拓人の片手をきゅっと掴み、さり気無く何かを握らせた。
拓人は急に触れられた細い指の感触に驚いて、心臓を速いリズムで高鳴らせた。
法健は気付いていないらしく、去ってゆく闇朱の後ろ姿を見送っている。
拓人がそっと手を開くと、四角く折り畳まれたクリームイエローの紙が見えた。
「……良いよね、秤音さんって」
「はぇっ!?」
「……ん? どしたの? あさみー」
渡された紙片の意味を考えようとしていた所、法健に声を掛けられて拓人は変な声を漏らしてしまう。
動揺する心を制しつつ、問題の紙はズボンのポケットに押し込んでいった。
「い、いや、何でもない。……で、なんだっけ?」
「だからぁ、秤音さんの事。気さくで優しくて、可愛いし。僕みたいなオタクにも、分け隔てなく接してくれるし……良い人だなって」
「ああ……うん、そうだな。いつも笑顔で、怒った顔なんか一度も見た事が無いよなぁ。皆から人気があるのも頷けるよ」
「ねー。色んなタイプの人と仲良くなれるって凄いよね」
「でもヨッシーがオタクだって事は関係ないだろ? 別に悪い事じゃないし、そんな風に卑屈に考える事ねーって」
「あはは、あさみーは相変わらずだね。でもそうは言ってもさ、大っぴらにオタクですーって周りに宣言するのは、世間的に色々抵抗あるからねー」
「……まぁ、確かに自分からわざわざ言う事は出来ないかな。――でもだからこそ悔しい気がする。自分が好きな物の事を、自信を持って周りに言えないって事は」
拓人は両手を首の後ろで組み、天井を見上げながら嘆息する。
漫画やゲームが好きな自分自身を、自ら否定しているような気がして情けないと思った。
昔に比べてオタクに対する偏見の目は、次第に薄れてきていると言われる事もある。
しかし、嫌悪の視線を向けてくる者が完全にいなくなった訳ではない。
特に高校生である拓人や法健にとって、学校という場で自身がオタクだと明かす事は結構な勇気と覚悟が必要な行為であった。
「でもさ、ここに居る奴らだってゲームとか漫画大好きじゃん。男とか女とか関係なくさ。寧ろ家にゲームとか漫画を全く持ってない学生の方が珍しいと思う」
「まぁ、そうかもしれないねぇ」
「だったら一部の人間だけをオタク呼ばわりするのって、何かおかしい気がするんだけどなぁ……」
拓人達が漫画談義に花を咲かせるのは日常であり、自ら宣言せずとも周囲からはオタクだと認知されている。
しかし何だか自分達が特別悪いと言われているような気がして、拓人は憮然としてしまう。
拓人は向かい側に立っている法健の顔を、細めた瞳で何となく見つめた。
身長が同年代の男子平均よりも低く、大人しい性格の法健。そんな容姿と性格が災いしたのか、彼は苛められやすい。
一年ほど前、人気のない校舎裏で数人の男子に法健がからまれていた時があった。
その時拓人は先生を呼ぶフリをして、何とか苛めていた男子達を追い払う事に成功する。
拓人と法健が現在のような友となった、きっかけとなる出来事だった。
以来拓人は自分なりに少しでも苛めを減らそうと、なるべく法健の傍にいる事にした。
苛めてくる奴らは自分より弱そうで、数が少ない者を標的にする傾向があったからだ。
しかし苛められっ子だという事実を感じさせぬ位に、法健の性格は明るい。辛い事もあるだろうに、沈んだ表情一つ見せず楽しげにしている。
そんな法健の芯の強さを拓人は尊敬し、好ましいと思っていた。
「まぁ単にゲーム好きとか漫画好きならオタクなんて言われないんじゃないかな。僕の場合はグッズとかフィギュアも集めてるし、部活も漫研だし仕方無いよ。でも好きでやってる事だから、誰になんて言われようと気にしない」
「……ヨッシーは強いな。そういう所、カッケーって思う」
「やだなぁ、褒めても何も出ないよ? ……僕はあさみーや秤音さんみたいな人が傍に居てくれるだけで、結構幸せなんだよ」
法健はそう言って笑い、広げられていた漫画を静かに閉じる。
その素直な物言いにかぁっと目尻に赤い色を浮かべ、拓人は少し慌ててしまった。
「あれ? あさみー、どうしたの? 黙っちゃってさ。目の端っこ、赤いよ?」
「別に……何でもない」
「……もしかして、照れてる?」
「――ごほっ、……うっせー! 照れてねーよ!」
「おおぅ、何と言うツンデレ。でもあさみーじゃ萌えないなぁ。そのガタイで照れられても、気持ち悪いだけだね」
「てめっ……! おぅコラ、ヨッシー。表へ出るか?」
拓人は先程よりも顔を赤く染めて、じろりと法健の顔を睨む。
鋭い瞳から放たれる目力は中々の迫力だが、どうやらそれを見慣れている友人には全く効果が無かった様子で。
「あはは、そんなに睨んでもダメだよ。優しいあさみーには似合わないって、そんな顔」
呑気に告げる法健の様子に、拓人は唇を尖らせ窓の外へ顔を向けた。
夏の青空には巨大な入道雲が広がっていて、暑苦しく輝く太陽の光を遮っていた。
ポケットの中に手を入れると、指先に感じる乾いた紙の感触がある。
拓人は鼓動を逸らせて、きゅっと紙片を優しく握り締めていった。