月光
立ち入り禁止となった廃工場の崩れた天井から、細い月の光が青白く床へ降り注いでいる。
両膝を突いてがっくりと項垂れている闇朱の息は荒く、びっしょりと汗をかいていた。
「……これで封印は完了よ。危ない所だったけど、何とか間に合って良かったわ」
「……っふ、……ぅ。……え、ぇんっ……」
「……あらあら、そんなに怖かった? 化け物に身体を乗っ取られそうになるのが」
円らな瞳へ一杯の涙を浮かべる闇朱へ、苺莉亜が花の刺繍が入ったレースのハンカチを差し出す。
優しげに話しかける苺莉亜に対し、闇朱は小さく首を横へ振った。
「違うっ……。怖いのは、……怖いのは、あたしっ……。あたし自身っ……」
「あなた自身……?」
しゃくり上げながら声を漏らす闇朱を、苺莉亜は真摯な眼差しで静かに見つめた。
「ううっ……あたしが、あたしがお父さんの事、憎んだからっ……。新しい母親と再婚するなんて、許せなくて、……いっぱい、いっぱい呪って、汚い心を持っていたからっ……」
泣きながら語り出す闇朱の言葉に、苺莉亜は静かに耳を傾けていく。
「だから、だからあんな、《星魔》なんかに付け入られて、あたしッ……!」
「……そう。後悔してる? 親を呪ってしまった事を」
「っふ、ぅ……それが、ダメなんですっ……。あたし、自分が悪いの、わかってるけどっ……。どうしても、悔しい気持ち、消せなくて。まだお父さんの事、許せなくてっ……!」
堪えていたモノが溢れて止まらなくなった闇朱。
《星魔》に狙われてしまった原因である、自分自身の心にあった暗い感情。
それに対する罪悪感に耐え切れず、泣き続けていた。
「反省しなくちゃって思うのに、……悪い心があたしの中から、ぜんぜん、無くなってくれなくて……!」
「…………いいじゃない。悪い心が、消えなくたって」
両手で顔を覆っていた闇朱の隣に腰を下ろし、穏やかな声で苺莉亜は語りかけた。
「誰だってね。悪い心なんて欲しくないのよ。何かに怒ったり、憎んだり。そういう気持ちってね、望んで持つモノじゃないの。自然と人の心の中から、生まれてくるものなのよ」
「……自然、と……?」
「そう。だからあなたが父親の事を憎んだ事も、今でも許せない事も全部、仕方がない事よ。自分でコントロール出来るモノじゃないもん、中々ね。そういう気持ちってさ」
「でも、でもあたしが悪い子だからっ……」
「あのさ、悪い子って何? 良い子って何? そもそも世の中に、悪くない子なんて居るの?」
「えっ……? それ、は……」
「誰だってね、誰かを何かを憎らしいと思うの。理不尽な事を悔しいと思うし、傷付けられたら辛くて、傷付けた相手を激しく呪ってしまう」
息を止めた工場内の機械をぼんやり眺めながら、苺莉亜は鼓膜と心に優しい声色で語り続けた。
闇朱は瞳に大粒の涙を浮かべたまま、黙ってその話に聞き入る。
「人を愛し、慈しみ、支えるのも人。怒り、憎み、傷付けるのも人。あなたはただ、一人の人間として当然の気持ちを抱えていただけ」
「苺莉亜、さん……」
「確かに憎しみは、過ぎると手が付けられないわ。憎んだ相手だけでなく、自分自身も傷付けるもの。だから罪悪感を覚えて、人は何とか清く正しい方へ進もうと頑張るのかもね」
「……あたしの中にある、今のこの気持ちも……。苺莉亜さんはじゃあ、悪くないって言うんですか?」
おずおずと尋ねる闇朱に、苺莉亜は大きな笑い声を上げる。
静かな夜に似合わない、昼間のような明るい声で。
工場内に響き渡る、大きな声で。
「当たり前よ。私に言えるのはただ、どうしたって世の中に悪は生まれてくるってコト。そんな物に対してイチイチ過剰に反応していたら、身体も心も、もたなくなっちゃう」
あっけらかんと告げる苺莉亜の言葉に、闇朱は惹き付けられていた。
一言一句を逃がさぬように、自然と耳を澄ませる。……少し、鼻を啜る。
「あなたまだ若いんだしさー。今からそんなに悩んでいると、これからの人生辛いわよ~?」
「……っく……そっちだって、全然若いじゃないですか」
「そうでもないのよ? 十代と二十代じゃあ、結構な差があってね……って、そんな事は今、どうでもイイっつの」
「あは、……苺莉亜さんから振ったんじゃないですか……歳の話」
「うっさいわね。助けて貰ったくせに、揚げ足を取らない」
可笑しくて小さく笑みを浮かべる闇朱の目から、新しい涙の粒が頬を流れる。
苺莉亜は手をそっと伸ばし、指の背中で闇朱の涙を拭っていった。
「もっと自分の気持ちに素直になりなさい。そして大切なのは、自分一人で抱え込まない事。悩み過ぎて、苦しみに喘いで、自分で自分を傷つけるループに陥っちゃダメ。困った事があるなら、話しなさい。……聞いてくれる人は、きっと何処かに居るから」
「……苺莉亜さん、も……?」
「とーぜん。だって今日からあなたは《夜光》の一員じゃない。だから、心が黒く染まっても負けない事よ。……私があなたの傍に居る。苦しみや恨みが溢れそうな時は、遠慮なく吐き出しちゃいなさい」
「――――っ……、っふ……苺莉亜、さん……」
苺莉亜の穏やかで明るい声に、闇朱の目には再びじゅわっと涙が浮かんだ。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を拭うのに、ハンカチではもう役に立たない。
苺莉亜はそんな闇朱を優しく両腕で抱き留めて、胸へぎゅっと包み込んでいった。
「あーあ、可哀そうに。折角の美人が台無しよね。……よしよし。辛かったな、闇朱」
「ふっ、ぅ……ぅぇぇえ、えええぇぇ、んっ……!」
先程までの押し殺したような泣き方ではなく。
闇朱は火がついた赤ん坊のように、全身を震わせて、全力で泣いた。
その涙は苺莉亜の胸を熱く濡らし、重なり合う二人のシルエットを空にある月だけがそっと見守り続けていた。




