口付けと、封印
「……話が大分逸れたみたい。……今から封印、施すから……」
「――あ、ああ! そうだな、そうだった。……よろしく頼む」
二人の間を漂っていた重い空気を払うように、拓人は少し明るい調子で同意した。
義乃はまだ少し元気が無い様子だが、激情の炎は取り敢えず沈静化したように見える。
「……それじゃあじっとしたまま、動かないでいて」
「りょ、……了解」
「……いま我が手に一つの原初を。原初は祝福を受け、魔を戒める楔とならん」
落ち着いたアルトの声が、拓人の鼓膜を震わせ始める。
神聖な響きを含んだ言葉は、何かの呪文か聖句のようだ。
ちゃり、と涼やかな音色を奏で、義乃が掌から法具を垂らした。
「正しき行いには正しき糧を。彼の頭上に優しき慈悲の雨を降らせたまえ」
まるで寄せては返す漣の音色みたいに、優しく大きく自分を包み込んでいく義乃の声。
自然と心が穏やかになって、拓人の心臓の鼓動も安らかなリズムを刻み始める。
「我、いま、ここに聖なる力の行使をもって、迷える者の導き手とならん」
言葉が進む程に法具が黄金色の光を帯びた。
それは徐々に輝きを増すが、不思議と間近で見ていても眩しさは感じない。
すると畳の上を滑るように、義乃が拓人の方へ更に近付いてきた。
その手が静かに拓人の首筋へと触れ、ゆっくりと胸元の方に流れてゆく。
「よ、よしのっ……!?」
少しひんやりとした義乃の指が、風呂上りで高めの体温へ鮮やかな感触を与えてくる。
穏やかだった心音が急にどきどきと騒ぎ出し、拓人は上擦った声を漏らした。
そんな拓人の様子を気にする事もなく、詠唱に集中する義乃は瞼を徐々に下ろし。
「願わくは天に祈りを。地に法を。海に安らぎを」
法具の輝きが更に増し、部屋の中は黄金色に染め上げられる。
義乃の指が拓人の胸へと辿り着き、紫の印をそっと一撫でした。
そして聖なる力に満ちた法具に、軽く義乃は唇を触れさせる。
「……聖なる血に連なる者へ、至上の光を与えたまえ……」
最後の一句を告げた瞬間、義乃が法具から拓人の胸へ唇を移し、印の上へ口付けを重ねていった。
――どくん、と大きい心臓の高鳴りが拓人の胸へ一斉に広がる。
繊細で温かな唇の訪れと、全身へ流れ込んでくる不思議な力の存在を感じて。
拓人は夢心地で息を吐き、ただただじっと義乃の行為を受け止め続けていた。
「……んっ……」
「……う、は……ぁ」
「……麻宮? ……あさみや?」
「ぅ……は、ぇ……?」
「封印の儀式、終わった。……術は成功よ」
「――あ、ああ! そう! ……それはうん、良かった……ありがとう、義乃」
いつの間にか終わっていたらしい封印の儀式。法具の光も消えていた。
後半は義乃の口付けの事しか頭になかった為、ぼーっとしていた拓人は慌ててぺこりと頭を下げる。
「……顔がにやけてる」
「ええっ!? そ、そんな事はないぞ!」
「……倉庫の時も、そんなカオをしてた」
「えっ!? あ、いや……あの時は、そのっ……」
「ヘンタイ」
「――――へッ!?」
義乃は狼狽する拓人を半眼で見つめてから、ふいっと顔を横へ逸らしていった。
今日知り合ったばかりの女子から、同じ日に二度も与えられた口付けの感触。
しかしそんな幸福と引き換えに与えられた「ヘンタイ」の称号。
気分を害してしまっただろうかと、拓人の背中を冷や汗が一筋流れ落ちる。
そんな思いに気付いているのか、いないのか。
義乃は静かに立ち上がった。
部屋の奥へ歩んでいけば、襖に手をかけて拓人を振り返り。
「今日は疲れたし、もう寝る。私は隣の部屋で寝るから、麻宮はここを使って」
「あ、ああ! わ、分かった」
「そこの押し入れに布団が入ってるから」
「お、おう! 色々と気を遣わせて悪いなっ」
義乃が指差した押し入れを一瞬見やり、どこか居心地が悪そうに拓人は身じろぐ。
「ああ、それと……」
「……うん? 何だ? まだ何かあったか?」
「もしも寝ている間に、私に変な事をしようとしたら……刺す」
「さっ――!?」
「お休み」
かたん。襖の閉まる音。
隣の部屋に行った義乃を見送る体勢のまま、拓人は暫し硬直していた。
「……刺すってナニで? ……どこを……?」
震える声を漏らし、自分の身体を見下ろす拓人。
怯えの表情を暫し浮かべ、去り際に見せた義乃の鋭い表情を思い出す。
氷の仮面を思わせる、怖い顔だった。
……だが、しかし。
「……意外と面白いヤツなのかも、な。……義乃って」
なんだか可笑しくなって頬を緩めると、胸の印へそっと触れる。
《大星魔》の証をまだ怖いと思うが、身体が震えてしまう程ではなくなった。
義乃への感謝を胸に抱きながら、拓人は暫く封印の余韻に浸り……。
まだやまない雨の音を耳にして、障子越しに外の方を見つめる。
「……秤音……」
心配そうに目を細め、クラスメイトの顔を思い浮かべる。
最後に見た姿は、かなり弱っているように見えた。無事だろうか。
闇朱の安否を気遣う拓人の気持ちを、湿っぽい夏の夜が静かに包み込んでいった。




