胎動の刻
――酷い悪夢で目が覚めた。
「はぁ、はぁ……」
ベッドの上で仰向けに横たわる大柄な少年が、強張った表情を浮かべて荒い呼吸を繰り返している。
額にはじっとりと汗が滲んで、黒い前髪が張り付いていた。
「……何だったんだ、今の……」
少年は掠れ気味の声で呟きながら、のっそりと上半身を起こす。
青い半袖Tシャツと白い短パンにも寝汗が沢山染みており、特にシャツの胸元と背中の辺りは濡れて色濃くなっていた。
少年は枕元に置いてあった目覚まし時計の時間を確認すると、軽く頭を左右に振ってベッドから降りる。
ベルが鳴るように設定しておいた時刻より、十分が過ぎていた。
どうやら無意識に自分でアラームを止めて、二度寝をしてしまったらしい。
「ふぁ……あ、……っと。眠ぃ……」
大きな欠伸を一つ漏らしながら、少年は自室を出て階段を下りる。
目の前に現れたリビングへ続く扉を開けると、高く甘い声が自分を出迎えてくれた。
「おはよー、拓人。……わ、凄い汗。……どうしたの?」
拓人と呼ばれた少年――麻宮拓人が声のした方へ視線を向ける。
ダイニングテーブルに頬杖を突いた若い女が、猫目を軽く開いて驚きの表情を浮かべていた。
「お早う、おネェ。……いや、ちょっと目覚めが悪くてさ。何か悪い夢、見てたみたいで」
頭をぽりぽりと掻きながら、拓人は朝食の席に着いている姉――麻宮慧に対して呟いた。
今年で大学四年生に進んだ彼女は、黒いタンクトップに薄ピンク色のハーフパンツ姿という、ラフな格好で寛いでいる。
「あー、それでか。何か凄い大声を上げてたよ、アンタ。家中に響き渡る声で叫ぶから、何事かと思ってビックリしちゃった」
「大声? 俺が?」
「うん。どんな悪夢見たの?」
慧が小首を傾げると、セミロングの栗毛が静かに揺れた。
「それが……全然覚えてないんだよな。絶叫するぐらいだから、相当酷い夢だったんだろうけど」
「へー。まぁでも、良かったかもね。悪い夢ならさ、かえって覚えていない方がイイじゃん」
「ん。ああ、確かにそうかもしれないなー」
「そうだよぉ」
気楽な雰囲気で相槌を打つ慧が、テーブルの上に置かれている煙草の箱に手を伸ばした。
残り三本になった内の一本を指に挟みつつ、彼女はライターを取ろうとする。
すると突然、台所から鋭い声が飛んできた。
「ちょっと慧! 家の中では吸わないでって、いつも言ってるでしょ。火災報知機だって新しく付けたんだから」
「あー、うん。分かってる。分かってるよぉ。……おかーさん、ちょっと煩い」
「煩いって何よ。私だってイチイチ注意なんてしたくないわよ。あんたがだらしないから、毎回怒られてるんでしょうが」
「はいはい」
不機嫌そうに眉を顰めた慧が、煙草を口に咥えたまま椅子から立ち上がる。
ライターと灰皿を手に持つと、リビングから庭へ通じるガラス戸を開いて出て行った。
「拓人も早く顔を洗って、朝ご飯食べちゃって。片付かないから。学校にも遅れるでしょ」
「……うん」
母親からの少し刺々しい表情と言葉に追い立てられる拓人。
濃茶色の三白眼を眠たげに細めながら、少年は洗面所へ向かった。
青々と生い茂る緑の庭に、眩い夏の日差しが降り注ぐ。
エメラルドグリーンの陰影が、西洋風に整えられた庭木や芝生を彩っていた。
早朝の爽やかな空気を、愛らしい鳥の鳴き声が震わせる。
ローブを纏う西洋人を模した白い石像が、広大な敷地内に幾つも並んでいた。
台座にはそれぞれ、像のモデルとなった人物名が英文で彫られている。
華美ではないが全て見事な出来栄えで、厳かな雰囲気を漂わせていた。
「聖人のお歴々よ、本日もご機嫌麗しゅう。あなた方の高潔なる魂は、強く真っ直ぐに現在の弟子達へ受け継がれております」
そんな石像の数々に対し、尊敬の念を込めて話しかける男がいた。
三十代後半位の白人だ。緩くウェーブする金髪は背中の半分まで長く伸ばされていて、豊富な毛髪を後頭部の高い所で赤い紐が一括りにしている。
南国の澄んだ海を思わせる青い瞳に、彫りの深い面立ちをしていた。
彼は夏の暑い時期にもかかわらず、白くゆったりとしたローブを身に着けている。
ローブは金色の刺繍が所々を飾っており、荘厳な雰囲気を放っていた。
肩から羽織ったマントも白く、それは巨大な翼の如きデザインをしている。
男は汗の一つも浮かばせぬ涼しげな顔で、園内に配置された聖人像へ挨拶を続けていく。
やがて彼は敷地の中心部へやって来て、数十メートル四方に切り取られた池の前で立ち止まった。
池の中央には、高さ三メートル位の白いオブジェがある。
逆三角形の頂上部分を真っ直ぐな柱が支えている形は、携帯電話のアンテナマークによく似ていた。
「……御機嫌よう、我が同胞。息災でしたか?」
流暢な日本語で白人が語りかけた先に、黒いスーツに身を包んだ中年男が立っている。
きっちり七三に分けられた前髪と、黒ぶち眼鏡が生真面目そうな印象を漂わせていた。
「は、お久しぶりですグエイン卿。《聖血教会》の規律を守り、日々を健やかに過ごしております」
「それは何よりです、サイトウ。《聖血教会》の教えを守る者には幸福が約束されています」
グエインと呼ばれた白人は満足そうに目を細めて微笑み、和やかな表情を浮かべていく。
対してサイトウという中年男は、汗の滴る額をグレーのハンカチで拭いながら緊張した面持ちをしていた。
「それでサイトウ。例の人物は見つかったのですか?」
「――はっ。それが大体の居場所までは掴めたのですが、未だ発見には至らず……」
「……ふむ、困りましたね。《夜光》の者達は既に、宿主を特定したらしいという報告を受けていますが……?」
やんわりと穏やかな声でグエインに話しかけられると、サイトウはいきなり冷水を浴びせられたみたいに肩を震わせた。
「も、申し訳ありませんっ! なにぶん《星魔》に関する知識は、《夜光》の方に分がありますもので……」
ぺこぺこと何度も頭を下げ、サイトウはグエインに謝罪の意を伝えようとした。
「サイトウ。私は貴方を責めている訳ではありません。そんなに恐縮する事は無いですよ」
「はっ。ですが、しかし……」
「斉藤」
「……はッ、はい……!」
尚も何かを言いかけた斉藤の声を、微かに無機質な口調へ変わるグエインの声が遮った。
「弁解は不要です。《聖血教会》の絶対なる正義の前では、《夜光》の企みなど砕かれる運命にしかありません。貴方は余計な事を心配せずに、一刻も早く宿主の特定を急ぐのです」
「は、ははぁっ! 粉骨砕身して、必ずやご期待に応えてみせます!」
「良い返事です、サイトウ。それでこそ聖なる血で結ばれた、我らが兄弟」
「幸いにも宿主が居ると思われる場所には、日本でも腕利きの《舞い手》が在住しております。『小夜啼鳥』を御存知でしょうか?」
斉藤が呟いた『小夜啼鳥』という単語に、グエインは感動を顕わにする。
「『小夜啼鳥』! その名は遠く欧州本部にも届いていますよ。年若いながら、これまで数々の《星魔》を滅してきた功績は素晴らしいものです」
「ハッ。彼女には私の部下を通して、この件についての情報を伝えてあります。吉報が舞い込んでくるのも、時間の問題かと思われます」
「それは素晴らしい。報告を楽しみに待つとしましょう。……日本政府への根回し共々、宜しく頼みますよ、我が同胞。《聖血教会》のお導きがあらんことを」
空に輝く太陽の如き笑みを浮かべて、グエインは片手を静かに差し出した。
「はい! お任せ下さいませ。全ては聖なる血で結ばれた兄弟達の為に!」
力強く返事をした斉藤が、芝生の上へ跪いた。
恭しくグエインの手を取り、白い手袋に包まれた甲の部分へ唇を重ねる。
そんな斉藤を見下ろしながら、空いた方の手で首にかけたネックレスに触れるグエイン。
美しい文様と獅子の顔が刻まれたチャームは、金のプレートだ。
それは南中へ向けて高くなる太陽の光を受けて、きらりと眩く輝いていた。