天才の傷
「…ど、どうして……!」
小刻みに揺れる、ほっそりとした肩。その震えが伝わってこちらも細かに振動する、サフランブロンドの髪。いかにも「お嬢様」といった風貌だが、しかしこの少女…リーゼは、ただの少女ではない。この世界においては「ステータス的には」最強クラスの力を持つ90レベルの《冒険者》の《妖術師》である。
更に言うのなら、リーゼはその「90レベルの《冒険者》」の中でも、更に上位に位置するプレイヤーだと言ってしまっていいだろう。なにせ彼女は、このヤマトサーバーにおいて紛れもない最強クラスの戦闘系ギルドの一つである、《D.D.D》の中核を担うクラスのプレイヤーなのだ。
しかし、そんな彼女であっても、
「ひっ、き、きゃあああっ!!!」
目の前に広がる光景を、簡単に受け入れることは出来なかった。
それは、迫りくる緑の巨人や、おぞましい殺人花。ゲームで画面越しに見ていたポリゴンと同じ、しかし圧倒的にリアルさを増したその「怪物」達は、例えリーゼ達よりもレベルが40以上下だと分かっていても、自分の装備であれば本来は紙装甲の《妖術師》だろうとそう簡単に死ぬことは無いと分かっていても、リーゼの思考を止めるに十分な恐怖を容赦なく捲き散らかしていた。
「ひ、ひっ、ひっ、」
「お、落ち着けお嬢!大丈夫だ、ステータスは、くっ!?」
「ああっ!?」
痙攣するように浅い呼吸を繰り返すリーゼに呼びかける、《武士》の青年。十匹近いモンスターを一手に引き受けて刀を振るうその様は、しかしお世辞にも様になったものでは無かった。「モンスターが後衛であるリーゼに向かないようにする」という最低限の前衛の役割は出来ているもののそれは高位の《武士》の《挑発》技のおかげであり、そしてそれだけで前衛が務まらないことなど《D.D.D》でならした彼には当然分かっていた。
「くっそ、《光刃斬波》!」
慌てて放つ斬撃が一帯の敵を斬り払う。
しかしそれは本来は後衛火力職である、リーゼの役目。
「だ、だめっ!!!」
リーゼが悲鳴を上げる。
《武士》の特技はいずれも技の出が速く、威力も前衛職としては破格に高いが、それでも勿論万能ではない。放った《光刃斬波》は武器職にしては広い攻撃範囲をもつ優秀な技だが、その弱点として決して短くない技後硬直が入る。
「う、ぐあああっ!!!」
「っ!!!」
斬り倒された敵の屍を乗り越えて、敵の集団が詰めて来て殴りかかる。技後硬直中の《武士》は防御も回避も出来ずにその拳の嵐に巻き込まれていく。膨大なHPが僅かに、しかし確実に減少していくのが、パーティーメンバーであるリーゼにははっきりと見えていた。
動かなければ。
自分が動いて、彼をフォローしなければ。
しかし意志に反して、体は動かない。
(……どうして…っ!動いて…っ!)
動けば、あのモンスター達は自分へと向かってくる。その恐怖が、彼女を縛る。
だめだ。動けない。
「……っ…」
「お嬢!」
とうとうリーゼが、ぺたりと座りこむ。
生々しい「実戦」の恐怖はまだ若い彼女にとって、そしてこの異世界に飛ばされてたった一日で克服できるものでは、到底無かった。しかしそれは彼女のせいではないだろう。それが出来るのは、一部の選ばれた人間のみ。強い意志を持つ者か、あるいは。
あるいは、既にそんなことがどうでもいいほどに、心が壊れている者か。
絶望に沈みかけた、リーゼの、焦点の合わない視界。
「……っ?」
その端に、蒼紫に輝く、三つの光点が映った。
◆
少女は、地面にペタリと尻もちをついたまま全く動けなくなっていた。
「な、なんですの……?」
それは、先程まで感じていたおぞましいモンスター達への…初めての「実戦」への恐怖心…では、なかった。同様に固まった《武士》の青年が呆けたように動きを止めるのも、同様だ。
「な、なんだありゃあ……!?」
「す、すごい…!」
90レベルの二人…それも全職種中最大の攻撃力を誇る《妖術師》と、短時間で有れば壁戦士職としては破格の戦闘力を発揮できる《武士》。その二人がてこずっていた敵が、瞬く間に殲滅されていく。
視線の先には、見慣れない姿をした、修験者のような和装の男。
頭にかぶった編み笠と襟元に捲かれたマフラーのせいでその顔は見えないが、しかしその身のこなしの鋭さはまさに「天才」とでも言うべきもので、《鬼火妖精》と《影に住む黒き忍霊》のコンボが鮮やかに決まって次々とモンスターが切り刻まれていく。
「う、うめえ……!」
《武士》の少年が舌を巻く。
既に攻撃を止めた為に《挑発》の効果は薄れ、相手をしていたモンスター達が一斉に方向変えて、様々な奇声を上げて進み出す。その様はまさに地獄の一端の様な光景だが、しかし二人はもうその動きに、最初ほどの恐怖を感じてはいなかった。
なぜなら。
「…完璧な、誘導ですわ……」
それが、和装の男の張った「罠」だと、はっきりと分かっていたから。
一瞬の隙に設置されていた、『召喚符』。
それによって儀式的に呼び出された業火が、森の怪物たちを余さず焼き尽くした。
◆
「ルル、戦闘終了しました。周囲に敵影無し、非隠蔽の《冒険者》二人ありです」
毛玉の声が、戦闘の終了を告げる。
成程画面を見ているだけだった「ゲームとしての《エルダー・テイル》」では視点を広げたりが可能なため正直役立たずな『式神』だった《臆病な風の使い》だが、こうしてキャラクター視点で有れば死角のカバーにかなり有意義だ。そんなことを考えていたから、セイメイは一瞬反応が遅れていた。
周囲に、《冒険者》がいるということに。
「あ、ありがとうございます…えっと、セイメイ、さん?」
「……え……?」
呼びかけられた声。セイメイが視線を向けると、そこに居るのはなかなかに高級そうな魔導師風のローブを纏った、一人のハーフアルヴ。美しい、しかしセイメイ自身には見覚えのない人の姿に、彼の体が固まる。なぜ、自分の知らない人が、自分の夢に居るのか。これも、自分の作りだした妄想なのか。
「…助かりました。いくら90レベルとはいえ…彼も、大したダメージは無かったようで…」
後ろでモンスターの死骸を検分する《武士》の青年を見やり、女…リーゼが続ける。
目を凝らすと見えるステータス画面には、「リーゼ 《妖術師》 レベル90 《D.D.D》」の表示。やはり、覚えは無い。しかしその美しい顔は、彼の知る別の誰かのそれを記憶から引き摺りだして作り上げられたものではない。比較的優秀な彼の記憶力は、その顔を初対面だとはっきりと認識する。
「……これは、どういうことだ…?」
呟くように、絞り出す。
その段階で既に、嫌な感覚が胸元までせり上がってきていた。
「……わたくしにも分かりませんわ…。とりあえず、今判明しているのはこの《エルダー・テイル》らしき世界に大勢のプレイヤーがいるということくらいです…。あちらのメンバー達に確認しましたが、アキバの街は気が動転した《冒険者》で溢れているらしいですから…」
続けられる、言葉。
「……我が主にも何が起こっているのかははっきりと分からないそうですが、恐らく新パッチ、『ノウアスフィアの開墾』が怪しいとのお考えでしたわ。ですから『イセノカミノヤシロ』に挑んで少しでも情報を集めようと思ったのですが…こんな雑魚にてこずるようでは、とても無理ですね。彼にも随分負担をかけてしまいましたしね…」
その言葉が、示すのは。
「……わたくし達は、アキバへと帰ります。…セイメイ、さん、あの、何か?」
自分たちのことを語っていたリーゼの言葉が、ふと途切れる。
それほどに、セイメイの顔は、目に見えて青褪めていっていたから。
「……ここは、夢じゃないのか?」
絞り出すような、その声。そこにはかつてヤマトを震撼させた名プレイヤーの面影は無い。あるのはただ、己のしてしまったことに怯える子供の震え。誰も見ていないと思っての振舞いを見られて、真っ青になる少年の震え。それは、「傷を抉られた天才」の消えない心の傷。
しかしリーゼは、それを「異世界に飛ばされた恐怖」と感じたようだった。
「……ええ、不本意ながら今のこの状況は到底夢とは思えませんね…」
だからリーゼは、何の気は無しに行ってしまった。
彼の傷口を引き裂く様な、残酷な「キーワード」を。
「…一旦、アキバに戻って《D.D.D》に合流することにしますわ。えっと、セイメイ、さん、本当にありがとうございました。おかげで助かりまし、っ!!?」
アリガトウゴザイマシタ。タスカリマシタ。
その声が聞こえた瞬間、セイメイの体は劇的なほどに反応した。
「……っ、ひぅっ……!」
「セイメイさんっ!!?」
一瞬で瞳孔が開き、その顔から血の気が引く。
汗が一気に体中から噴き出し、視界が歪んで音が軋んでいく。
突然の反応に驚き、気遣うリーゼの表情がぐにゃりと形を変えていく。
瞬間、セイメイは身を翻して走り出した。
何一つ告げることない、全力での逃走。
個体の機動力は決して低くない《召喚術師》であれ、そこは90レベルの《冒険者》、そして何より彼が今纏う『機動力・移動力重視の装備』である『風の祝福する篠懸衣』は、秘宝級装備品の中でも最高クラスの移動速度上昇効果を備える和装防具だということもあって、その体はあっという間も無く森の中へと消え、リーゼの視界から姿を晦ます。
「な、なんだったんですの……?」
呆然とつぶやく、リーゼ。
セイメイの突然の奇行は、彼のことをよく知る古参のプレイヤーならばともかくとして、彼に初めて会ったリーゼに到底理解できるものでは無かった。だから彼女はその時、セイメイの目に浮かんだ涙にも、気付くことさえ出来なかった。
◆
セイメイの体が、吹き飛ぶように転がった。足を踏み外したせいだ。
凄まじい勢いでの疾走だったせいで木の根をちぎり森の土を抉るように転がった後、必死に体を起こそうとしてセイメイは盛大に嘔吐した。内臓を捩じ切るような激痛が体中を駆け回り、吐いても吐いても際限なく吐気はこみあげてくる。
「ぐ、ぐうう……おうぇ……っ!」
「ルルルル……」
そしてそれと同時に、粘つく様な汗が全身から噴き出す。
乱暴に額を拭ってもそれは決して留まろうとせず、彼の燃えるような体ををますます蝕んでいく。
音を失くしたように霞む世界の中で、《臆病な風の使い》のアラーム音だけがそんなセイメイを気遣うようになり続ける。しかしそんなものに気を払う余裕などが彼に無いことは、誰の目にも明らかだった。
(無様、だな……)
そんな自分自身の姿を…もがき苦しむその様を、どこか頭の冷静な部分でそう思った。
無様だった。みっともなかった。
だがそれは、何も知らない人の前で取り乱し、逃げ出したことに対して、ではない。もう二度としないと誓った、二度と聞かないと心に決めた「アリガトウ」の言葉を受けるような振舞いを、性懲りも無くしてしまったことに対してだった。一人の人生を歪め、数人の《冒険者》を苦しめ、それでもなお同じことを繰り返す、学習しない自分を、セイメイは恥じた。
「ルルルルー、ルルルルー」
なぜ、守れないのだろう。
傷付け続けるのだろう。
そんな取りとめのない思考が、ぐるぐると渦巻く。そのせいで。
「ルルルルー…ルルルルー!」
必死に声を上げる健気な『式神』の声に、セイメイは気付けなかった。