かぐや姫は、もういない
「私は月の人間なの。じき迎えが来るから、慣れ合うのは時間の無駄」
眉一つ動かさずに、はづきは言う。
「だから、放っておいてちょうだい」
取りつく島もないこのいつもの言いように、「おまえはかぐや姫か」と突っこむことはせずに、私は聞き流し、返事の代わりに今しがた口から離したばかりの缶コーヒーを差し出す。
「・・・何、これ」
「はづきも飲んでみなよ、これ。新製品だから、試しに買ってみたんだ」
私と缶コーヒーとの間を、はづきの視線が往復する。その顔は強い不信感と、ほんの少しの困惑に歪んでいる。こんな表情でもきれいなんだから、美人は得だよなぁ、まったく。
なかなか受け取ろうとしないはづきからあえて目を逸らし、私は軽い調子で言う。
「知らない?コーヒーって豆から出来てるから、そんじょそこらの得体の知らないジュースよりずっと純度が高いの。いわば、質がいいってわけ。飲んで味を知っておいた方が、月に帰ったときの土産話になると思うけど」
はづきは所在なさげに宙に浮かせた手を少しだけ震わせたあとに、勢いをつけて私から缶をひったくる。
「言っておいてあげるわ。地球には、こんなに不味い飲み物が流通してるって」
ぶっきらぼうにそれだけ言って、はづきはコーヒーを少しだけ口に含む。途端に、今度は苦々しい表情に変わる。クールぶってはいるけど、はづきは表情にすべて出てしまっている。本人は気付いてないんだろうけど。
「はづきには、ちょっと苦かったかな?」
私の口調にからかいの色を感じ取ったのか、はづきの険が急に鋭くなる。
「はい、捨てない捨てない」
缶を振り上げるはづきの手を押さえ、怒っているのがバカバカしく思えるような、のんびりした調子を心がけて、諭す。
「まだ中身残ってるでしょ。もったいないし、第一ポイ捨てをするなんて、モラルを疑われるよ。見てんでしょ、月が」
はづきが私を睨む目はそれはすさまじいものだったけど、とりあえず缶はその手に握られたままだ。
よかった。あれなら、ちょっとは暖を取れるだろう。
私ははづきに気取られないように、小さく息をつく。夜の冷気は律義に私の安堵のあとを白く残す。
真冬の夜は冷える。ここが廃ビルの屋上で、月にいくらか近かろうと、はづきを暖めてくれるわけではないのだ。
まだ中身のたっぷりと残ったあの缶が、少しははづきを暖めてくれるだろう。
冷たい月の代わりに。
太陽になれない私の代わりに。
はづきと知り合ったのは中学生になったばかりのことだったから3年ほど前のことだったけど、私はそのずっと前からはづきのことを知っていた。すぐ近所に住んでいたからだ。
小学生の頃はクラスが別々だったから接点はなかったけど、はづきは二つの意味で目立つ存在だった。
すなわち、「美人」であり「電波女」という抜きん出て疎まれる特徴のせいだった。このどちらか一つだけしかはづきが持っていなかったら、あそこまではづきが嫌われることはなかっただろうな、と私は思う。
クラスが違っていてもそれとわかるほど、はづきは一人ぼっちだった。
はづきのクラスはいつもホームルームが長くて、必ずと言っていいほど、議題は「榎本はづきさんへのいじめをやめましょう」というもので、担任の先生はいつも声を張り上げて「人の持ち物を隠したり、まして捨てるなんて最低の行為だ」とか「自分が無視されたらどんな気持ちになるのか考えてみなさい」とか、「いかにも」な内容の説教を毎回ダダ漏れにしていた。先生はそんなつもりはなかったのかもしれないけど、あれじゃあ「榎本はづきは物を隠されたり無視されたりしている、そういう子なんですよ」と宣伝しているようなものだ。
いつも一人で家路に着くはづきの顔は「私は平気です」とでも言いたげにすましたもので、それでいて靴の片方がなかったり、スカートの端が泥で汚れていたりした。
1回だけ、クラスの垣根を越えて学年ホームルームというのが開かれたことがある。
滅多に使われないスクリーンを先生たちが用意して、ずいぶん古いホームドラマを見させられた。
親がいない「かわいそうな」女の子が、それでも強く生きていく「かわいそうな」話だった。
「君たちの中には、親御さんがいない子もいます。それでも、君たちと何も変わることのない人間です。差別をされるいわれも、意地悪をされるいわれもありません。それを、忘れないでください」
先生の締めくくりのこの一言に、このホームルームははづきのために開かれたのだと、なんとなくわかった。
そうか、あの子には親がいなかったのか。
集められた子の中には泣いている子もいた。ホームドラマに感動したのか、先生の言葉に自分を恥じたのか、それはわからない。
ホームルームは妙にしんみりとしたものになって、その場にいた誰もが「かわいそうな」子を「憐れむ」雰囲気になっていた。
ただ一人、唇を噛みしめて震えるはづきだけを除いて。
私は、はづきが声もなくひたすらに「かわいそうな」子のレッテルから自分を保とうとしている姿を見て、思ったのだ。
人に「かわいそう」と思われて初めて、人はかわいそうな人間になるのかもしれない、と。
「今夜は月がきれーだねー」
私の能天気な言葉に、はづきは一言も返さない。でも、いつものことなので特に気にしない。
「かぐや姫が月に帰った日も、こんなきれーな満月だったのかもね」
もっとも、かぐや姫ははづきと違って、迎えを待つために寒空の下に一人で待ちぼうけをさせられる待遇ではなかったんだろうけど。
自称・かぐや姫のはづきは、私に半ば押しつけられた缶を両手で大事に包んでいる。やっぱり、寒かったんだろう。無理にでも押しつけてよかった。
私たちが登れるなかで一番高い廃ビルに登って、地上よりいくらか月に近いとはいえ、やっぱり月は地上にいる人たちに見せるのと同じ、手の届かない存在として静かに佇んでいる。
15歳の誕生日の今夜、はづきの言い分では月からの迎えが来るらしい。
去年も、おととしもそう言っていた。誕生日になれば、月から迎えが来るのだと。
私はそのたびに、今日のように頼まれもしないのに着いてきて、来ない迎えを一緒に待った。
「かぐや姫の求婚者は5人だけだったけど、はづきはもっとモテたよねー。軽く倍はいってたんじゃない?中学に入ってからのことしか、私は知らないけど」
「・・・私は、かぐや姫じゃない」
はづきが口を開く。冬の澄んだ混じりけのない空気は、苛立ちに紛れたはづきの不安を正確に振動させる。
「かぐや姫は、あいつは罰を受けてここに置き去りにされたくせに、月に行きたくないと言った。こんな、ふざけた世界に。私は、あいつとは違う。一刻も早く、月に帰りたい。ここは私の居場所じゃない」
罰を受けた、か。
たしかに、竹取物語にはそんな描写があった。
かぐや姫は月で何か罪を犯し、その罰としてこの地球に送り込まれた。反省してこいといったところだろう。
でも、彼女は「月に帰らなくてはならない」と育ての親であるじいさんたちに告白したとき、泣いた。「帰りたくない」と言った。「あんなに帰りたかった月だったはずなのに、あなた方と離れたくなくなってしまったから」と。
たしかに、はづきはかぐや姫じゃない。
傍らで缶を握りしめるはづきは、小さな缶にすがっているように見えて切なくなった。
あんたをここに引きとめる理由は一つもなく、いつまで経っても来ない迎えを、震えながら待っている。
「どうして月に行きたいの?」
いつもならあっさり無視する私の問いかけに、はづきは珍しく反応する。答えを探している素振りが窺えた。
「月に行ったらさ、たぶんもう戻って来れないよ。かぐや姫もそうだったじゃん。今は科学も進歩してるし、地球から月に行ける日もそんなに遠くないんだからさ、なにも今急いで行くことないじゃない。かぐや姫みたいに牛車に乗って、なんて時代遅れの帰省よりも、銀色に光るスタイリッシュな宇宙船で行った方が、月にいるはづきの身内も驚くと思うけどなぁ。そりゃ、ちょっと時間はかかるかもしれないけどさ、月の住民は寿命が長いんでしょ?何の問題もないじゃない」
無駄だということは、わかっている。
それでも、私のバカげた理屈に少しでも呆れてほしかった。月をどうこう言うことから、少しでも離れてほしかった。
そんなわずかな期待を込めて言っただけに、はづきの言葉に私は不覚にもダメージを受けてしまった。
「ここにいても、私は幸せになれないから」
はづきの口の端には、笑みさえ浮かんでいた。
「かぐや姫がこの世界に送り込まれたのはね、月の国のありがたみを知るためなのよ。こんな、理不尽でむなしい世界で得られるものなんて、『醜い』という概念だけ。それを知るため、ただそれだけのために、月はここに人を送るの」
月に行きさえすれば、そこに私の求めるすべてがあって、ここには何もない。
はづきの中に根付いた、その根拠のない確信に、私は泣きたくなった。
「私も、着いて行こうかな」
言葉と一緒に出た息が、やけに濃い白になった。
ちゃんと、冗談半分に聞こえてるだろうか?はづきに私の気持ちを悟られたくない。
あんたが「かわいそうな」人間だなんて思わない。私だけは絶対、思ったりしないって決めてるから。
私が思ったら、認めてしまったら、はづきは本当に居場所をなくしてしまう。自惚れであっても、私だけははづきをわかったフリをしたくない。
「いじめられっこ」でも「幼い孤児」でも、まして「かわいそう」なんて言葉ではづきを縛って、見失ってしまいたくないの。
「最後に聞いておいてあげる」
はづきは1回言葉を切ってから、少しだけ強い口調で言う。
「あんたが私に付きまとうのは、同情?」
「違うよ」
「じゃあ、何」
「今さらそんなこと聞くんだ」
「・・・何を笑ってるの」
「だって、今さら、そんな簡単なこと、聞かれるとは思わなかったから、おかしくって」
はづきが黙ってしまったあとでも、私は体を震わせて笑った。本当におかしかったのだ。自分がどこにいるのかもわかっていないのに一生懸命になって地図を見て道を探しているみたいに、根本的な情報を見落としているのに気付かないようなマヌケさが、おかしかった。
「決まってるじゃない。はづきが好きだからだよ」
ねぇ、はづき。私じゃ、月の代わりにはなれないかな。居場所になることなんて出来ないのかな。
たしかに、この世界にはあんたの言うとおり、理不尽でむなしいことばかりなのかもしれない。
私が知ってるあんたは、ただ人と違ってるってだけで一人ぼっちで、でもちゃんとへこたれずに生きてる。それって、誇れることじゃん。私はあんたのそういう曲がらないところがいいと思う。
何があっても絶対に傷つくことがない世界があんたのいう月だというのなら、たぶんそんな世界はどこを探しても見つからない。
ここからなら光って見える月だって、実際は砂しかない寒い星だ。うさぎもいない。かぐや姫は死んだ。
「まったく、月の人間を引きとめておく手段って、ないもんかね。かぐや姫は育ての親が泣いて縋っても、迎えが来た途端に何もかも忘れて帰っちゃうし。無責任だよ、本当に」
かぐや姫は、月に帰る寸前に「育ててくれた、せめてもの恩返しに」と、じいさんたちのために不老不死の薬を残した。
「おまえのいない世界で長く生きていたって仕方がない」じいさんたちはそう言って薬を燃やしてしまったことを、かぐや姫は知っているんだろうか。
自分が周りに与えた影響を知らずに行ってしまうなんて。
はづき、あんたもかぐや姫と一緒。身の程知らずの大バカ娘だよ。
「・・・私のことが好きなら、どうしてあんたは泣いてんの」
「え?」
「好きなら、笑いなさいよ、いつもみたいに。地球人は、好きな人間の前では笑う生き物なんでしょ?」
はづきが目の前に来て初めて、自分の視界がやけに滲んでいることに気付いた。本当だ、泣いてる。
「悲しいの?私のことが、嫌いなの?」
「悲しい、のかな。だって、あんたってば、私の気も知らないで、自分勝手なことばっかり言うんだもん」
「自分勝手とはなによ。あんたには関係ないでしょ」
「ほら、そういうところ。はづきはバカだよ。自分のことを考えてるのは自分だけだと思ってる」
泣いていると自覚した途端に次から次へと涙はあふれてきて、声を出して本格的に、私は泣きだしてしまった。
はづきはただおろおろと手を彷徨わせ、缶コーヒーを傍らに置いてから、私の手をにぎった。とても温かくて、だから私はもっと泣いた。
どれくらいそうしていたかはわからない。
涙を流しつくし、呼吸もようやく落ち着いてきた頃に、はづきはぼそぼそと小さな声で、さっきと同じことを聞いてきた。
「私のことが、嫌いなの?」
握られた手を温かいと感じることはなくなった。
たぶん、私の冷たい手を温めていたせいで、温度が均されてしまったんだろう。
私とはづきの体温は、今は同じだ。
「やっぱりはづき、あんたはバカだよ。もう少しここで勉強していかないと、月はあんたを認めてくれないよ」
いつの間にか明るくなってきた空に、月は頼りない白色に変えられてしまっている。
もっと薄くなれ。出来ることなら、消えてなくなってしまえ。
「好きな人間の前でなきゃ、泣けないやつもいるの。地球人の思考回路は、あんたが思ってるほど単純じゃないんだから。わかるのにはきっと、時間がかかるだろうけど」
少しずつ顔を出してきた太陽の光のうちの一筋が、はづきの顔を照らす。目元から頬へと縦に1本筋が出来ていて、光を受けてきらきらと輝く。
泣いてたの?
待ちぼうけをくらったことがはっきりしたのだから、予想通りではある。
「月からのお迎え、今年もお預けだね」
努めて明るい声を出す。はづきに感情を引きずらせるのは酷だと思ったからだ。
でも、予想していた反応とは違っていた。
「いいわよ、べつに。泣き虫な誰かさんのために、もう少しだけいてやれってことなんでしょ、きっと」
「迷惑?」
「わけのわからない理由で泣かれるのはね」
はづきはそう言って、少しだけ、勘違いだったのかもしれないと思うほどの短い間だけ、笑った。
それはこっちのセリフだよ、という言葉は呑みこんだ。
朝日はすべてを平等に照らしていく。
私とはづきの涙のあとは、少しだけ光り、また消えていくだろう。
何度流れても、また必ず乾かすために昇って来てくれる。
「はづき、地球の日の出はきれーだねっ」
薄くなっていく月が登る空を見上げたはづきは、小さく頷いた。
今は、それで充分だ。
竹取物語では、かぐや姫は月の人間が持ってきた薬を飲んだ途端に「人間」であったときの心をなくし、何の抵抗もなく月に昇って行ったとされています。なんか、それはけっこう悲しい話だよなぁと思いながら書きました。読んでくださってありがとうございました。