婚約破棄? ではこちらにサインを。――王室金庫、残高ゼロですわ
「エレノア・クラウゼン! 本日をもって、そなたとの婚約を破棄する!」
レグナード王国の王宮。その大広間に、王太子ユリウスの声が響き渡った。年に一度の春季祝賀会、そのど真ん中で突然始まった断罪劇に、集まった貴族たちが一斉に口を閉ざす。
ユリウスの隣には、桃色のドレスをまとったマリエッタ・ベルナー伯爵令嬢がぴたりと寄り添っていた。一方、名指しされたクラウゼン公爵令嬢エレノアは、婚約者から公衆の面前で指を突きつけられているというのに、泣きも怒りもせず静かに瞬きをする。
「承知いたしました」
「……何?」
「婚約破棄ですね。確かに承りました」
あまりにもあっさりした返事が気に入らなかったのか、ユリウスは眉を吊り上げた。
「強がる必要はない。それだけではないぞ! これまでのように王家の財政へ口を挟むことも今日で終わりだ。そなたを《王家財務再建責任者》からも解任する!」
「そちらも承知いたしました。では、最後に解任手続きだけお願いいたします」
婚約破棄以上に、その言葉へ反応した貴族も多かった。クラウゼン公爵家の令嬢エレノアが、三年前から破綻寸前だった王室財政の立て直しを任されていたことは、上級貴族の間では有名な話だったからだ。だが本人は、やはり取り乱す様子もなく、書類鞄から一枚の魔導契約書を取り出した。
「解任手続き?」
「はい。こちらへご署名を」
エレノアが契約書を卓上へ置くと、紙面に青白い魔法陣が浮かび、中央に《解任承認》の文字が現れた。ユリウスは怪訝そうに覗き込む。
「何だ、これは?」
「私を《王家財務再建責任者》から解任するための承認書です。責任者の任免権は陛下より殿下へ委任されておりますので、殿下のご署名で手続きが完了いたします。内容をご確認いただき、問題がなければ中央へご署名くださいませ」
「その程度のことか」
ユリウスは最初の二行ほどを眺めただけで、すぐに顔を上げた。
「要するに、ここへ署名すればよいのだろう?」
「殿下。できれば一度、最後まで内容を――」
「必要ない。そなたを解任することは、すでに俺が決めたのだ」
隣でマリエッタがくすりと笑った。
「ユリウス様がお決めになったことですもの。細かな書類まで読む必要なんてございませんわ」
「その通りだ。最後まで融通の利かない女だな」
「……左様でございますか」
エレノアは、それ以上止めなかった。ユリウスは迷いなく魔法陣へ指を押しつけ、光の中へ《ユリウス・レグナード》の名を刻む。
──決済が完了しました。
「……決済?」
ユリウスが首を傾げた直後、玉座の背後に設置されていた王室財務用の巨大な魔導板が勝手に輝き始めた。
《王室中央金庫 自動精算開始》
《クラウゼン公爵家貸付金 返済》
《未精算立替金 返済》
《契約終了に伴う担保権執行》
《王室遊休資産 所有権移転》
「待て。何だ、これは」
ユリウスが声を上げる間にも、残高は十万、五万、一万と凄まじい勢いで減り続ける。彼が魔導板へ駆け寄った時には、最後の数字まで消えようとしていた。
そして。
《王室中央金庫 残高:0》
大広間が静まり返った。ユリウスは巨大なゼロを見つめたまま、ゆっくりと首を傾げる。
「…………は?」
エレノアは手元の契約書を確認すると、静かに頷いた。
「問題なく精算されたようですわ」
「待て! どういうことだ! なぜ王室の金庫が空になっている!」
「ご返済いただいたからです」
「誰にだ!」
「主にクラウゼン公爵家へ」
ユリウスの顔色が変わった。
「では、そなたの実家へ渡ったということではないか!」
「正確には、渡ったのではなく戻った、ですが」
「同じだ!」
「まったく違いますわ」
即答だった。
「詐欺だ! 俺に何を承認させた!」
「先ほど申し上げた通り、私の解任に伴う契約終了承認書です。内容をご確認くださいとも申し上げました」
「俺は読んでいないぞ!」
「ええ。存じております。殿下は、いつもそうでしたから」
ユリウスが眉を寄せると、エレノアは魔導板へ触れた。今度は王室の債務一覧が表示され、その桁数を見た貴族たちの間から低いざわめきが起こる。
「三年前、王室財政はすでに債務超過寸前でした。クラウゼン公爵家が追加融資を行う条件として、私が財務再建を担当することになったのです」
「だが俺は、この三年間、何不自由なく金を使えていたぞ?」
「私が回していたからです」
「……何?」
エレノアが次の帳簿を表示した。宝石、外国産の高級酒、狩猟馬、仕立て服、夜会、旅行、贈答品。そのほとんどに《王太子ユリウス》の名が並んでいる。
「殿下が予算を超過されるたびに、私が債権者と支払期限を交渉し、別の支出を削り、それでも足りない分にはクラウゼン公爵家からつなぎ融資を入れておりました」
「では……俺が使っていた金は……」
「かなりの部分が借金ですわ」
ユリウスの口が開いたまま止まった。隣のマリエッタも、自分の首元に輝く大粒の宝石へそっと手を添える。
「そ、そんな話は聞いていないぞ!」
「毎月、財務報告書をお渡ししておりました」
「あんな分厚いものを、俺が毎月読むわけがないだろう!」
「……それは私に申されましても」
エレノアは本当に困ったように首を傾げた。ユリウスは顔を赤くしながら、先ほどの契約書を奪うように手に取る。
「だが、なぜ解任しただけで全額返済になるのだ!」
「こちらです。《王家側の都合により財務再建責任者を任期途中で解任した場合、クラウゼン公爵家に対する未精算債務を即時弁済し、不足分については事前指定された王室資産をもって精算する》」
「こんな条項、俺は知らん!」
「三年前、陛下と殿下の連名で締結された原契約にもございます」
ユリウスが目を見開いた。
「俺が署名しただと?」
「はい。あの時も殿下は『父上が確認しているのなら問題ない』と仰って、一行もお読みになりませんでした」
大広間のあちこちから、小さな咳払いが聞こえた。笑いを堪えている者がいるらしい。
ユリウスが周囲を睨みつけた、その時だった。パチン、と音がして、大広間の天井を彩っていた夜会用の装飾魔導灯が一斉に消える。通常の照明は残っているため暗くはないが、祝賀会らしい煌びやかな雰囲気だけが綺麗さっぱり失われた。
さらに、演奏中だった楽団までぴたりと止まる。
「……なぜ演奏を止める」
楽団長が申し訳なさそうに立ち上がった。
「ただいま、王太子府からの追加演奏契約終了通知が参りましたので」
「夜会の途中だぞ!」
「契約終了時刻が、たった今になっております」
「弾け!」
「追加料金をいただければ」
「だから弾けと言っている!」
「料金をいただければ」
楽団長は一歩も退かなかった。ユリウスはしばらく彼を睨み、それから助けを求めるようにエレノアを見る。
「……エレノア!」
「私はもう責任者ではございませんので」
その間にも、給仕たちが動き始めた。テーブルに並んでいた未開封の高級葡萄酒を、一本ずつ木箱へ戻していく。
「待て! なぜ酒を持っていく!」
「未払い分の商品でございます」
「俺が飲む酒だぞ!」
「ですので、まだ開栓していないものだけ回収しております」
「なら今すぐ全部開けろ!」
給仕が固まった。
エレノアも固まった。
周囲の貴族も固まった。
「……殿下。その発想だけは、少し感心いたしましたわ」
「ならば開けろ!」
「褒めてはおりません」
堪えきれず、どこかで小さな笑い声が漏れた。その直後、ユリウスの通信魔導具が立て続けに音を鳴らし始める。
《王太子府専用通信網 契約終了》
《王室専用高級馬車 信用保証終了》
《西方産葡萄酒 定期納入停止》
《南方果実 定期購入停止》
《王太子専属仕立店 信用保証終了》
《王太子主催夜会 追加予算枠停止》
「待て! なぜ俺のものばかり止まる!」
「クラウゼン公爵家の信用保証で契約されていた、王族の私的支出だからですわ」
「では来週の夜会はどうする!」
隣のマリエッタが、はっと息を呑んだ。
「ユ、ユリウス様。わたくしのお誕生日夜会は……?」
「無論、予定通り行う! エレノア、元に戻せ!」
「できません。私はもう《王家財務再建責任者》ではございませんので」
ユリウスは数秒黙ったあと、勢いよく顔を上げた。
「ならば解任を撤回する!」
「できません」
「俺が撤回すると言っているのだぞ!」
「解任手続きは完了しております。再任には新たな契約と、私の同意が必要です」
「ならば同意しろ!」
「嫌ですわ」
「なぜだ!」
「たった今クビになりましたので」
ユリウスの口元が引きつった。反論したいらしいが、自分で解任したばかりなので何も言い返せない。
その時、マリエッタの首元から小さな音が鳴った。
ピコン。
「……え?」
彼女の首飾りに、赤い魔法文字が浮かんでいる。
《代金未精算》
マリエッタが慌てて両手で宝石を隠すと、大広間の端にいた一人の男が申し訳なさそうに前へ出てきた。王都でも有名な宝石商だった。
「ベルナー伯爵令嬢。大変申し上げにくいのですが、そちらの首飾りにつきまして」
「これはユリウス様からいただいたものですわ!」
「そうだ! 俺が贈った!」
宝石商は困ったようにエレノアを見る。エレノアは帳簿を確認し、わずかに眉を上げた。
「……お支払いはまだですわね」
マリエッタがユリウスを見る。ユリウスは宝石商を見る。すると宝石商は、申し訳なさそうにそっと手を差し出した。
「では、お預かりいたします」
「いやですわ!」
マリエッタが首飾りを握りしめた。
「ユリウス様!」
「払えばよいのだろう! いくらだ!」
「こちらです」
宝石商から示された金額を見たユリウスの表情が固まる。
「……これ一つで?」
「はい」
「石だぞ?」
「宝石でございます」
エレノアが静かに訂正した。
「高すぎる!」
「殿下がお選びになった最高級品ですわ」
「なぜ止めなかった!」
「三度止めました」
ユリウスは黙った。
結局、マリエッタの首飾りはその場で回収された。目に涙を浮かべる彼女を見て、エレノアは少し考える。
「ちなみに、同じ意匠の模造品でしたら三十分の一ほどでございます」
「いりませんわ!」
その時、大広間の扉が勢いよく開き、真っ青な顔をした王室財務官が駆け込んできた。
「殿下! 大変でございます!」
「今度は何だ!」
「王太子府より申請された、来週の夜会の追加予算が承認できません!」
「それはもう聞いた!」
「西方葡萄酒の納入も停止しました!」
「それも知っている!」
「専属仕立店からも信用取引停止の連絡が!」
「それも今来た!」
財務官が一瞬たじろぐ。
「では……王太子殿下専用の深夜軽食サービスが、本日をもって終了する件は?」
「何だ、それは!?」
今度は財務官まで困惑した顔になった。
「殿下が毎晩、就寝前に料理長へ作らせている軽食ですが」
「あれは王宮の食事ではないのか?」
「追加注文ですので、王太子府の私費扱いでございます」
すると大広間の奥から料理長が現れ、帽子を脱いで一礼した。
「殿下。今夜から夜食のご注文はお受けできません」
「お前まで辞めるのか!?」
「いいえ。私は王宮料理長ですので辞めません」
「ではなぜ出てきた!」
「夜食だけ終了いたします」
「そんな細かい報告をしに来たのか!」
料理長は無言で財務官を見る。財務官が帳簿を開き、これまでの夜食代をユリウスへ見せた。
「……俺、夜中にそんなに食べていたのか?」
「主に三人前ずつでございます」
「一人で?」
「はい」
マリエッタが、ほんの少しだけユリウスから離れた。
「何だ、その目は!」
誰も答えなかった。
ユリウスは頭を抱えたまま何度か息を吐き、やがて何かを思い出したように顔を上げた。
「待て! 王室中央金庫がゼロなら国はどうなる! 騎士団の給与は? 防衛結界は? 水道はどうする!」
「そちらには何の影響もございません」
エレノアが魔導板を切り替えると、《国庫》《王室中央金庫》という二つの項目が並んだ。
「今回精算された《王室中央金庫》は、王族の私有財産と王室費を管理するものです。国防費、騎士団給与、治安維持費、上下水道、救貧院への補助など、国民生活に必要な予算は国庫として完全に分離しております」
「いつそのようなことをした!」
「半年前です。王太子府の支出が急増しておりましたので、万一の場合でも国民へ影響が出ないようにいたしました」
ユリウスが自分を指差した。
「その万一とは、俺のことか?」
「はい」
一切迷わなかった。
ユリウスは少し黙り、それから何かがおかしいという顔で魔導板を見た。
「待て。では俺の葡萄酒を止めて、平民の水道は残したということか?」
「はい」
「なぜだ!」
大広間が完全に静まり返った。
エレノアは数秒だけユリウスを見つめる。
「……逆だと思われたのですか?」
周囲の貴族たちが、ほとんど同時に頷いた。
「俺は王太子だぞ!」
「ですが、水は飲まなければ死にますので」
財務官まで真顔で補足する。
「葡萄酒だって飲めなければ俺が死ぬ!」
「では、お水を一杯、殿下へ」
「かしこまりました」
「そういう意味ではない!」
笑いを堪えきれなくなった貴族が、とうとう何人も顔を伏せた。
ユリウスは肩で息をしながらエレノアを睨む。
「では俺は今後どうやって暮らせというのだ!」
「王太子として法律で定められた俸給がございます。必要な住居、公務用馬車、警護費なども国家から支給されます」
「そうか!」
一瞬だけユリウスの顔が明るくなったが、財務官が月額を読み上げると、その笑顔がすっと消えた。
「……少なくないか?」
「高位官僚のおよそ四倍でございます」
「待て。俺はこれまで、その百倍近く使っていたぞ」
「存じております」
「その程度の額で暮らせるものか!」
「普通の方は、それより少ない額で暮らしておられます」
「俺は普通ではない!」
「支出だけは確かに」
再び笑い声が起こった。
「笑うな!」
ユリウスが怒鳴っても、今度はなかなか収まらない。彼は苛立たしげに周囲を見回し、ふと何かを思い出してエレノアへ向き直った。
「では湖畔の離宮はどうなる!」
「あちらは担保としてクラウゼン公爵家へ移りました」
「何だと!? あれは俺の離宮だぞ!」
「王室所有です」
「俺が毎年使っていたのだから、俺のものだろう!」
エレノアは静かに魔導板を指した。
《王室中央金庫 残高:0》
「その認識で三年間お金を使われた結果が、こちらですわ」
「わざわざ見せるな!」
エレノアは契約書へ視線を落とした。財務再建について必要な処理は、これですべて終了している。
「それでは最後に、婚約解消について確認いたします」
「……待て。まさか、それも先ほどの承認書に含まれているのではあるまいな?」
「はい」
「……見せろ」
契約書には、《王太子ユリウス・レグナード》《クラウゼン公爵令嬢エレノア》の名とともに、《王太子側からの婚約破棄宣言に基づき、婚約解消を正式承認》と刻まれていた。その下には、さらに一文が続いている。
《王太子側からの一方的破棄につき、既定の違約金請求権発生》
ユリウスの顔が引きつった。
「……違約金?」
「はい」
「いくらだ」
「こちらです」
エレノアが金額を示すと、ユリウスは無言で桁を数えた。一度、二度、そして念のためもう一度。
「俺の俸給で換算すると、何か月分だ?」
「およそ百二十か月ほどでしょうか」
「十年だと!?」
今日一番の大声が大広間に響いた。
エレノアは安心させるように微笑む。
「ご心配なく。分割払いも可能ですわ」
「何一つ安心できない!」
「無理のない返済計画をご提案することも――」
「誰のせいで財務相談が必要になったと思っている!」
「殿下ご自身かと」
「そういう意味ではない!」
ユリウスは両手で頭を抱えた。しかし次の瞬間、何か妙案を思いついたように勢いよく顔を上げる。
「ならば婚約破棄を撤回する!」
「お断りいたします」
「なぜだ! 俺が撤回すると言っているのだぞ!」
エレノアは少し不思議そうに首を傾げた。
「私は嫌ですので」
あまりに単純な答えに、ユリウスが絶句した。
「そなたは俺を慕っていたはずだ!」
「昔は、それなりに」
「ならば問題ないではないか!」
「ですが三年間、殿下の領収書を拝見し続けて治りました」
大広間に爆笑が起きた。ユリウスが「笑うな!」と怒鳴っても、今度ばかりは誰もすぐには止められない。隣のマリエッタまで口元を押さえて肩を震わせていた。
「マリエッタ!?」
「ち、違いますわ、ユリウス様!」
「今笑っただろう!」
「笑っておりませんわ!」
「肩が揺れているぞ!」
エレノアはその騒ぎを横目に、契約書を鞄へしまった。婚約も財務再建も終了した以上、もう王宮に残る理由はない。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
「待て! そなたは王都から追放なのだぞ!」
「はい。ですのでクラウゼン公爵領へ戻ります」
「…………」
「元々、私が王都に滞在していたのは、殿下との婚約と財務再建業務があったからです。どちらも、たった今なくなりましたので」
エレノアは優雅に一礼し、出口へ向かった。ユリウスは数歩追いかけたものの、自分から追放を宣言した手前、止める言葉が見つからないらしい。
「待て! 本当に帰るつもりなのか!」
「そのための追放ではございませんか?」
「それは……そうだが!」
扉の前まで来たところで、エレノアは一度だけ足を止めた。背後ではユリウスが、自分で承認した契約書の写しを握りしめている。
「こんなものは詐欺だ! 内容を理解していない人間に署名させるなど、卑怯ではないか!」
「殿下。私は『内容をご確認ください』と申し上げました」
「だから俺は読んでいないと言っているだろう!」
エレノアは、にっこりと微笑んだ。
「ええ。ですから次からは、契約書をきちんとお読みになってからご署名なさることをおすすめいたしますわ」
「ぐっ……!」
「では、ごきげんよう」
エレノアが大広間を出ると、重い扉がゆっくりと閉じていった。その向こうでは、まだユリウスの声が響いている。
「待て! 誰だ、俺に水を持ってきたのは!」
「先ほどエレノア様が」
「葡萄酒を持ってこい!」
「契約が終了しております」
「では自分で買う!」
「今月の俸給からでしょうか?」
しばしの沈黙。
そして。
「こんなもの、詐欺だろうがぁぁぁぁぁ!!」
エレノアは、今度こそ振り返らなかった。




