兆し
26話 兆し
朝は穏やかだった。
窓の外からは柔らかな陽光が差し込み、
一階からは食器を片付ける音がかすかに聞こえてくる。
俺たちはそれぞれ荷物をまとめ、部屋を出た。
トリはリュックの肩紐を握ったまま、静かに立っていた。
いつもならとっくに騒いでいるはずのあいつが、
今日は口をきゅっと閉ざし、おとなしくしている。
ベルは目を半分閉じたまま、何度もあくびをした。
それでもふらふらしながら、しっかりと荷物を背負っている。
神官は忘れ物がないか、念入りに確認していた。
レアは食べてすぐ寝たせいか、
いつもより少し顔がむくんで見えた。
エリオンはなんとなくレアの顔をじっと見つめた。
レアはすぐにその視線に気付いた。
「何か言いたいことでもある?」
エリオンはくすりと笑った。
「顔、完全にパンみたいに膨れてますけど」
レアの目がすっと細くなる。
そして珍しく頬を赤くした。
「だ……誰のせいで疲れたと思ってるのよ。こほん」
そう言いながら、ちらりとトリを見下ろした。
ベルも一緒になってトリを睨む。
突然視線を向けられたトリは、きょとんと瞬きをした。
「え? 僕ですか?」
「そうよ、おチビ」
レアは手を伸ばし、トリの髪をぐしゃぐしゃにした。
「あんたのせいで色々言われたんだから」
いつもならすぐに飛び跳ねて抗議するトリだったが、
今日はただ視線を落とした。
「……そうなのか」
その反応に、
レアはしばらくトリをじっと見つめた。
それから彼の背中をぽんと叩き、先頭に立って歩き出す。
「さっさと行くわよ。
ぐずぐずしてたら一生出発できないんだから」
トリは気まずそうに頭を掻いた。
俺たちは彼女の後を追って階段を下りた。
下へ降りると、
宿の女将が受付の奥から俺たちを見つけた。
彼女はすぐににこにこと笑いながら手を振る。
「あら、もうお発ちですか?」
そして慣れた様子で続けた。
「皆さんだいたい二、三日ほど泊まっていかれますからねー。
そろそろ出発する頃かなって思ってたんですよ」
女将はいたずらっぽくウインクした。
「お気をつけて。
また来てくださいね。
その時はたっぷりサービスしますから」
レアがくすっと笑う。
「商売上手ね」
「食べていかなきゃいけませんから~」
女将は笑いながら手を振った。
レアも軽く手を上げると、
そのまま扉へ向かった。
ギィ。
宿の扉が開き、朝の空気が流れ込む。
俺たちはそのままラヘンの街へ足を踏み出した。
商業地区へ向かう道は、
朝から人で賑わっていた。
荷を積んだ荷車ががたごとと通り過ぎ、
商人たちは大声で客を呼び込んでいる。
見たところ、
いつもと変わらない光景だった。
だが――
商業地区に近づくにつれ、
妙な違和感を覚え始めた。
人々は確かに忙しそうに動いている。
それなのに商人や店主たちの表情は重かった。
客の相手をしながらも顔は険しく、
互いに小声で何かを話し合っている。
最初に足を緩めたのはレアだった。
彼女は周囲を見回し、小さく呟く。
「ふーん。何かあったみたいね?」
その言葉にエリオンも辺りを見回した。
言われてみれば妙だった。
人は多いのに、
雰囲気が明るくない。
神官も静かに周囲を観察していた。
レアは少し考えた後、こちらを振り返る。
「あなたたちは先に必要な物を買っておいて」
そう言って親指で裏路地を示した。
「私は少し情報を集めてくる。
南門で合流しましょ」
神官は静かに頷いた。
「分かった。そのようにしよう」
レアは神官の返事が終わるや否や、
すぐに踵を返した。
まるで最初からこの街の住人だったかのように、
自然に人混みの中へ溶け込んでいく。
そして商人たちを捕まえ、
あれこれと話を聞き始めた。
神官は去っていく彼女を見送り、
周囲を見回した。
「確かに。
私にも少し妙に見えるな」
神官は首を傾げながら俺たちを店へ導いた。
俺たちは店を回り、
必要な品々を買い始めた。
神官は自然な様子で商品を見ながら、
何気なく尋ねる。
「この辺りで何か良くないことでもあったのですか?」
商人は困ったように肩をすくめた。
「さあ……私も詳しくは……」
別の者は手を振った。
「大したことじゃないと思いますよ。
噂なんてすぐ広まりますから」
だが――
別の店の中年商人が、
周囲をちらりと窺いながら声を潜めた。
「……いや、どうでしょうね」
彼はさらに身を乗り出した。
「王都近郊に盗賊団が現れたって噂があるんですよ」
「しかも普通の規模じゃないとか……」
その瞬間、
神官の目が鋭くなる。
エリオンの表情も固まった。
ベルはびくりと肩を震わせ、
トリは思わず神官を見た。
商人は少し間を置いて続けた。
「でも確かなことは分かりません。
ただの噂かもしれませんし……」
そう言うと慌てて付け加える。
「とにかくそういう話です。
買い物が済んだなら早めに出た方がいいですよ」
彼は顎で後ろを示した。
「ほら、他のお客さんも待ってますし」
神官はしばらく黙っていた。
やがて静かに頷く。
「……そうですか。ありがとうございます」
一行はそのまま店を後にした。
エリオンは神官を見た。
彼はいつも通り落ち着いた顔をしていた。
だが――
その眼差しは、
確かに普段よりも暗くなっていた。
一行は必要な物をすべて買い揃え、
そのまま南門へ向かった。
だが近づくほどに、
空気はますますおかしくなっていく。
本来なら王都へ向かう街道だけあって、
人の往来でごった返しているはずの場所だった。
しかし今は違う。
人々は出発できず、
門の近くに留まっていた。
三々五々集まって何かを話し合い、
慌ただしく行き来している。
神官は眉をひそめて前方を見た。
そして近づいて事情を聞こうとした。
その時だった。
「おーい!」
聞き覚えのある声が遠くから響く。
振り向くと、
少し離れた場所でレアが手を振っていた。
「堅物金髪神官さん!
お人好しの田舎者! こっちよー!」
聞き逃さないようにとの親切心なのか、
特徴まで一つ一つ付けて呼んでいる。
神官がぴくりと肩を震わせ、
うぐっ……と低く呻いた。
エリオンの顔も一気に熱くなる。
「……ああ……」
周囲の人々がちらりとこちらを見た。
だが事情を察したのか、
くすりと笑って再び会話に戻る。
レアはそんな視線などまるで気にせず、
ゆっくりこちらへ歩いてきた。
「状況、ちょっと良くなさそうよ」
彼女は周囲の人々を顎で示した。
「ここで集まってる連中。
どうやら人数を集めて移動するつもりみたい」
神官は小さくため息をついた。
「……やはりそうか。
だから人が集まっていたのだな」
ベルは不安そうな顔で周囲を見回した。
トリは状況がよく分からないという顔をしている。
「どうしてみんな集まってるんですか?」
神官は落ち着いた声で説明した。
「盗賊団がこの近辺で活動しているという噂のせいだろう。
だから連携して移動しようとしているのだ」
ベルの顔が固まった。
「じゃあ……本当に危ないんですか?」
レアはそんなベルを見ると、
くすっと笑った。
そして彼女の髪を撫でる。
「そこまで怯える必要はないわ。
巡礼路は聖騎士たちが管理している道だもの」
彼女は周囲の商人や護衛の傭兵たちを顎で示した。
「そもそも、
護衛を付けて移動してる連中も多いのよ。
下手に襲えば痛い目を見ることだってある。
だから盗賊だって簡単には仕掛けてこないはずよ」
ベルはその言葉を聞いても、
まだ安心しきれていない様子だった。
レアはそんなベルをしばらく見つめ、
腕を組む。
「……それでも念のため」
彼女は神官を振り返った。
「他の一団に混ぜてもらって移動した方が良さそうね。
どう思う? 神官さん」
神官は少し考えた後、
静かに頷いた。
「そうだな。
我々も同行する一団を探そう」




