才能③
第23話 才能③
宿の中は、まだ完全には目覚めきっていない空気に包まれていた。
あちこちで客たちが眠たげな顔でスープをすすり、
従業員たちも黙々と空いた皿を片付けている。
朝食は簡素だった。
温かな豆のシチュー。
薄いジャガイモのスープ。
そして固いライ麦パンが数切れ。
トリは朝から夢中になってパンを頬張っていた。
パンをスープにたっぷり浸して口へ押し込み、
続けてジャガイモのスープを流し込む。
ベルはそんな様子を横目で見ていた。
しばらく黙って眺めていた彼女は――
パシッ。
容赦なくトリの腕を叩いた。
「いてっ!?」
トリが顔をしかめる。
「なんで叩くんだよ!」
ベルは呆れたように言った。
「もう少しゆっくり食べなさい。見ていてみっともないわ」
トリは唇を尖らせた。
「だって腹減ってるんだもん……」
ベルは小さくため息をつく。
レアはすでに食事を終えていた。
空になった皿を前に、
椅子にもたれながら退屈そうに天井を眺めている。
時折仲間たちへ視線を向けては、
暇そうに足を揺らしていた。
そして――
エリオンはほとんど食事が喉を通らなかった。
視界に入るたび、
どうしても自分の手が気になってしまう。
彼はぼんやりと掌を見つめた。
それから司祭へ視線を向ける。
司祭は何事もなかったかのように、
静かに豆のシチューを口へ運んでいた。
まるで昨夜の出来事など存在しなかったかのように。
エリオンは再び自分の手を見下ろした。
その時だった。
レアがひょいと手を伸ばした。
「食べないなら、私がもらうけど?」
彼女はエリオンの皿を引き寄せようとする。
エリオンはぼんやりと彼女を見た。
レアは肩をすくめる。
「いらないならだけど」
その言葉でようやく我に返ったように、
エリオンは小さく息を吐いた。
「……食べます」
ゆっくりとスプーンを持ち上げる。
温かなスープが喉を通り、
少しだけ現実へ引き戻された気がした。
レアはそんな彼を見て小さく笑う。
「ちゃんと食べる気はあったんだ?」
エリオンは答えず、
誤魔化すように水の入ったコップを持ち上げた。
トリはパンを頬張りながら二人を見ている。
司祭は相変わらず何も言わない。
やがて食事は終わった。
トリは腹をさすりながら大きなあくびをし、
ベルは静かに食器を片付ける。
レアが椅子から立ち上がった。
司祭もゆっくりとナプキンを置く。
「さて、そろそろ行こうかの」
トリは待っていましたと言わんばかりに立ち上がった。
ベルも席を離れる。
レアは軽く首を回した。
エリオンは最後にもう一度だけ自分の指先を見下ろした。
何も変わっていない。
それでも――
昨夜感じたあの感覚だけは、
まだどこかに残っているような気がした。
食事を終えた一行は宿を出た。
朝の空気はまだ少し冷たい。
街もようやく目を覚まし始めたところだった。
商人たちが荷物を運び、
露店商たちが次々と店の準備を始めている。
その間を歩きながら、
一行は傭兵ギルドの演武場へ向かった。
トリは朝から落ち着きがなかった。
あちこちを見回しながら歩き、
時折足取りまで軽くなる。
「トリ。少し落ち着いて歩けないの?」
ベルが何度も声を掛けるが、
本人は聞いているのかいないのか。
結局ベルは諦めたような顔で睨むだけになった。
司祭はそんな二人を見て小さく笑う。
その時、
トリが勢いよく振り返った。
「これから行く場所って、傭兵ギルドの演武場なんですよね!?」
彼は目を輝かせる。
「剣術!」
「模擬戦!」
「傭兵!」
拳まで握り締めた。
「くぅ~……考えただけで格好いい!」
レアはそれを聞いて呆れたように肩をすくめた。
「何がそんなに嬉しいんだか」
司祭が笑う。
「まあ、お前が好きそうな場所ではあるな」
「傭兵たちが実際に腕を競う場所じゃからの」
エリオンはふと気になって司祭を見た。
「でも……」
「傭兵たちは嫌じゃないんですか?」
「自分たちが見世物みたいに見られるのを」
言い終えると、
エリオンは自然とレアへ視線を向けた。
レアが肩をすくめる。
「まあ、金になるからな」
「最初は嫌だったとしても、
金の入った袋を何度か受け取れば考えも変わるだろ」
「ある意味じゃ、
自分を売り込む場所でもあるしな」
司祭も静かに頷いた。
「実際、そのようにして少しずつ大きくなったそうじゃ」
「最初は単なる稽古場だったらしいが、
見物人が集まり、
金が動くようになってから今の形になったのだとか」
トリはすでに目を輝かせていた。
「へぇ……」
「なんだか本当に面白そうだな……」
そうして話をしながら歩いているうちに――
いつの間にか目的地へ到着していた。
演武場は想像していたよりもはるかに巨大だった。
広大な円形の演武場を中心に、
木造の観客席が幾重にも取り囲んでいる。
その上には長いベンチが並び、
大勢の観客たちが下を見下ろしていた。
歓声。
笑い声。
木剣の打ち合う音。
様々な音が入り混じり、
演武場全体を震わせている。
下ではすでに何組もの傭兵たちが模擬戦を繰り広げていた。
一組や二組ではない。
十組以上が同時に動いており、
中にはまだ装備も揃っていない見習いらしき者たちも混ざっている。
真剣な表情で剣を交える者。
観客の歓声を浴びながら、
わざと派手な技を披露する者。
様々だった。
その光景を目にした瞬間、
トリの目が大きく見開かれる。
「うわああっ!!」
そのまま勢いよく駆け出した。
「トリ!」
ベルが慌てて呼び止める。
だがトリはすでに人混みの中へ飛び込んでいた。
人々の間を縫うように進み、
通路を真っ直ぐ駆け抜ける。
そして柵へ飛びつくように身を乗り出し、
眼下の演武場を見下ろした。
「わぁ……本当だったんだ……」
ベルも慌てて後を追う。
「トリ! そんなところにぶら下がらないで!」
しかしトリの耳には届いていない。
彼は柵にしがみついたまま、
夢中で演武場を見つめていた。
ベルはそんな姿を見て大きくため息をつく。
「……本当に言うこと聞かないんだから」
一行はそんな二人を見ながら、
ゆっくりと歩いていく。
演武場の周囲は思った以上に賑わっていた。
観客たちの間を歩き回りながら食べ物を売る商人。
その場で麦酒を注ぐ売り子。
「焼きたての串焼きですよ!
一本いかがですか!」
商人が愛想よく声を掛けてくる。
司祭は軽く手を振った。
「結構じゃ」
「へい! 良い観戦を!」
商人は未練なく別の客へ向かっていった。
一行は再び柵の近くへ歩いていく。
ベルはトリの隣へ並んだが、
どうやら背が足りないらしい。
何度も背伸びをしている。
それでもよく見えないのか、
眉をひそめていた。
その様子を見たエリオンは、
何も言わずベルを持ち上げた。
「きゃっ!?」
ベルが驚いて振り返る。
だが相手がエリオンだと分かると、
すぐに胸を撫で下ろした。
「……あ、びっくりした」
「ごめん」
ベルは少しだけ視線を泳がせた。
それから小さな声で言う。
「……でも、ありがとうございます」
その様子を見ていたレアが吹き出した。
「おっ、便利そうだな」
「レアお姉ちゃん!」
ベルはむっとした顔でレアを睨む。
だがすぐに、
「ふんっ」
と顔を背け、
再び演武場へ視線を向けた。
司祭はそんなやり取りを見て小さく笑う。
下では今もなお、
木剣が打ち合わされる音が響いていた。
ちょうどトリの近くで、
二人の傭兵が模擬戦を終えたところだった。
一人は大柄な男。
もう一人は身軽そうな体格の剣士だった。
その剣士が木剣を肩に担ぎながら、
じっとトリを見つめる。
やがて口元を緩めると、
指先をくいっと動かした。
――こっちへ来い。
そう言っているかのような仕草だった。
トリは目を丸くする。
それから自分を指差した。
「僕ですか?」
剣士は笑いながら頷く。
その瞬間、
トリの顔がぱっと明るくなった。
「うわぁ!」
彼は少しの迷いもなく柵を乗り越えた。
そのまま演武場へ飛び出していく。
レアが呆れたように笑う。
「本当にあいつは体が先に動くな」
司祭は思わず額を押さえた。
エリオンも苦笑する。
ベルだけが悲鳴のような声を上げた。
「ちょっと! なんで越えるのよ!」
大柄な傭兵がその様子を見て吹き出した。
「もうファンの相手か?
大した人気者だな」
するとトリを呼んだ剣士が笑って答える。
「分かってないな」
「こういうのは早いうちから囲い込んどくもんだ」
トリはいつの間にか、
もう剣士の目の前まで走っていた。
剣士は腰の木剣を抜き、
トリへ差し出した。
「どうだ?
一回振ってみるか?」
トリは何度も頷いた。
「はい!」
剣士は軽く木剣を放る。
トリは慌てて両手で受け取った。
その瞬間、
彼の表情が少し変わる。
「えっ……」
「思ったより重いですね?」
剣士がにやりと笑った。
「そいつは特製の黒檀製だからな」
腕を組みながら顎をしゃくる。
「まあ、とりあえず好きに振ってみろ」
「見ててやる」
トリは緊張と期待の入り混じった顔で木剣を握った。
そして周囲の傭兵たちを真似るように構えを取る。
ぎこちない。
剣を握る手にも余計な力が入っている。
それでもトリは真剣だった。
ヒュッ。
ヒュッ。
木剣が空を切る。
剣士は何も言わずにその様子を見ていた。
最初は面白半分だった。
ただの子供が興味津々で眺めていたから、
少し相手をしてやろうと思っただけだ。
だが――
いつの間にか、
その表情が少し変わっていた。
トリはその視線に気付いたのか、
動きを止めて剣士を見た。
「えっと……」
「どうしてそんな顔で見るんですか?」
剣士はしばらく黙り込んだ。
それから首を横に振る。
「いや」
「何でもない」
そう言いながらトリの傍へ歩み寄った。
そして木剣を握る手を軽く押し、
構えを直してやる。
「ここはこうだ」
「それから足はこう動かす」
トリの目がぱっと輝いた。
「あっ!」
「よし、その調子だ」
剣士はもう一度トリの動きを見た。
トリは言われた通りに足を動かし、
再び木剣を振るう。
ヒュッ。
ヒュッ。
先ほどよりもずっと自然だった。
剣士の眉がわずかに上がる。
「これは……」
小さく呟く。
それから彼は何度かトリの姿勢を直してやった。
トリはどんどん楽しそうな顔になっていく。
ヒュッ。
ヒュッ。
木剣が軽快に空を切った。
しばらくして、
短い体験は終わった。
トリは大きく息を吐く。
「うわぁ……」
「本当に疲れた……」
そう言いながらも、
顔には笑顔が広がっていた。
楽しくて仕方がない。
そんな顔だった。
トリは何度も木剣を見下ろした。
だがやがて名残惜しそうに剣士へ返す。
それから一行の元へ戻ろうとした。
その時だった。
「おい、坊主!」
トリが振り返る。
剣士は木剣を肩に担ぎ、
笑みを浮かべていた。
「今日の予定が終わって時間があるなら、
傭兵ギルドへ来てみろ」
彼は親指で奥の建物を指した。
「掲示板のところで待ってるぞ!」
トリの目が再び大きく見開かれた。




