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「君の料理がなければ眠れない」と泣きつかれても手遅れです。幸福を再現する聖女を追放した罰で、どうぞそのまま壊れてください。私は隣国で王子の「依存先」になります。

作者: 唯乃
掲載日:2026/03/27

 私の能力は、ずっと「役立たず」と呼ばれてきた。


 治癒もできない。魔法陣も描けない。剣を持てば笑われるほど非力で、神殿の祈りの儀式でさえ、私の声は他の聖女の半分も響かない。それでも私がルーベルク王国の第一王子——エドヴァルト殿下の傍に十年間置かれ続けたのは、ひとえに「料理ができるから」という、実に世俗的な理由によるものだった。


 正確には、料理を作ることそのものが私の能力だった。


 口にした者の、幸福な記憶を味として再現する。


 誰かが幼い頃に祖母から貰った蜂蜜菓子の甘さ。初めて恋をした夏の、塩気を帯びた風の匂い。母親に抱かれながら飲んだ、ぬるいスープの温かさ。そういったものが、私の料理を通じて舌の上に蘇る。技術ではなく、能力によるものだから、私は特別に美味い料理を作れるわけではない——少なくとも、そう思っていた。


 殿下は十年間、一度も「美味しい」とは言わなかった。


 ただ、夜が更けて執務室に二人だけになる時、彼はよく呟いた。


「お前の料理を食べると、落ち着く」


 その言葉を、私は大切にしていた。愚かにも。



 婚約破棄は、王宮の大広間で行われた。


 春の謁見式。貴族たちが居並ぶ中、エドヴァルト殿下は壇上から私を見下ろし、よく通る声で告げた。


「聖女セラフィーナ・ヴォーレンとの婚約を、本日をもって解消する。理由は単純だ——彼女は役立たずだから」


 笑い声が起きた。くすくすと、あるいは堂々と。私は広間の中央に立ち、その笑いを全身で受けながら、ただ真っ直ぐに前を見ていた。膝が震えているのがわかったが、倒れることだけは拒んだ。


「治癒もできない、戦えもしない、神聖魔法の才も皆無。王妃の資質とは何か、この機会に皆にも確認しておきたい。料理番は厨房にいれば足りる。王の隣に立つ必要はない」


 彼の隣には、すでに別の女性が立っていた。神殿騎士団の副団長——美しく、強く、光の魔法を操る女性。彼女は私を見なかった。


 私も、もう殿下を見るのをやめた。



 追放令は三日後に出た。


 私に与えられたのは、馬一頭と、三日分の食料と、国境まで送る護衛一人だった。荷物は両手で持てる量に限定された。私は迷わず、調理道具を選んだ。


 国境の手前で、護衛の兵士が言った。


「……殿下は昨夜、ろくに食事を取られなかったそうです」


 私は何も答えなかった。


 彼が哀れんで言ったのか、それとも罪悪感から言ったのかはわからない。どちらにしても、私には関係のないことだった。馬の手綱を握り直し、国境を越えた。


 振り返らなかった。




 隣国ヴェスタリア王国に入ったのは、夜が白み始める頃だった。


 街道沿いの宿場町で馬を預け、私は小さな広場の端に座り込んだ。体力よりも、何か別のものが尽きていた。十年間、毎日作り続けた料理。毎日聞いた「落ち着く」という言葉。それが全部、「役立たず」の三文字で上書きされた。


 泣けなかった。


 泣くには、まだ何かが足りなかった。


 広場の隅に小さな屋台を出している老女がいた。私は残り少ない銅貨を数え、簡単な食材を分けてもらった。借りた焜炉で、何も考えずに料理を作った。思考を止めたかった。手を動かしていれば、考えなくて済む。


 匂いで人が寄ってきた。


 最初は一人、次に三人、やがて十人近くが屋台の前に立った。私はただ黙って皿を配った。能力のことも、追放のことも、説明しなかった。金も取らなかった。


 一人の老人が一口食べて、しばらく黙った後、言った。


「……孫が、生きていた頃のことを思い出した」


 私はその言葉を聞いて、初めて目の奥が熱くなった。



 ヴェスタリアの第二王子——アルベルト・ヴェスタリアが私を見つけたのは、それから二週間後のことだった。


 彼は視察の途中でその宿場町を通りかかり、街の人間がこぞって「国境近くの聖女の料理を食べに行く」と言っているのを聞いたのだという。護衛を連れて訪ねてきた彼は、私の粗末な屋台を見て、明らかに拍子抜けした顔をした。


「聖女と聞いていたが」


「元、です」と私は言った。「今は料理人です」


 彼は少し考えてから、「一皿もらえるか」と言った。貴族らしい態度も命令口調もなく、率直な問いかけだった。


 私は彼のために料理を作った。


 何が再現されるかは、私にはわからない。その人が持つ記憶の中で、最も安らかで幸福なものが自然と出てくる——それが私の能力の仕組みだった。彼のために作ったそれは、シンプルなスープだった。具材は少なく、味も派手ではない。それなのに、彼は一口飲んだ瞬間、手が止まった。


 長い沈黙があった。


「……母上の、声がした気がした」


 彼は静かに、独り言のように言った。私は黙っていた。


 彼がスープを飲み干すまで、私は何も言わなかった。飲み干した後、しばらくして、彼は私を見た。眼差しが最初とは変わっていた。


「お前の能力は何だ」


 私は正直に答えた。隠す理由がなかった。




 アルベルト殿下は、私を王都に連れて行った。


 強制ではなかった。「来るかどうかはお前が決めろ」と彼は言い、私は少し考えてから頷いた。他に行く場所がなかったというのもあるが、それだけではなかった。彼の目に、何か真剣なものが宿っていたから。


 王都で、彼は私に新しい厨房を与えた。


 最初の週は、彼のためだけに料理を作った。二週目には、「兵士たちにも食べさせてほしい」と言われた。出征前の部隊だった。三百人近い兵士が、私の料理を一椀ずつ受け取っていった。


 その翌朝の出立の様子を、私は城壁の上から見ていた。


 出征前の兵士というのは、いつも見ていられないほど張り詰めた顔をしている——少なくとも私が知っている限りは。だが、その朝の部隊は違った。恐怖が消えているわけではない。ただ、それが「制御できるもの」になっていた。整然と、落ち着いて、前を向いていた。


 アルベルト殿下が隣に来た。


「昨夜、兵士の一人が言っていた」と彼は言った。「故郷を守る理由を思い出せた、と」


 私は何も言えなかった。


「セラフィーナ」と彼は言った。初めて名前を呼ばれた。「お前の能力は、人間を壊れないようにするものだ」



 それから一ヶ月が経つ頃、彼が言った。


「自覚しているか。俺はもうお前の料理なしでは正常に判断できない」


 私は手を止めた。


「……依存している、と言いたいのですか」


「ああ」と彼は即答した。隠す気が全くない声だった。


「最初に気づいた時、困った。王族が一人の料理人に依存するのは、脆弱性になる。だから排除しようとした」


「排除、ですか」


「三日間、お前の料理を断った」


彼は淡々と言った。


「結果——些細な報告書の確認で二度誤りを犯し、家臣三人に八つ当たりをし、夜中に目が覚めて眠れなくなった」


 私は少し考えた。


「それは……私の料理がなくなったからだけではないかもしれません。精神的なストレスや——」


「わかっている」と彼は言った。


「だが、四日目にお前の料理を食べたら全部収まった。それが答えだ」


 彼の論理は、いつもこうだった。感情的な飾りがなく、観察と結論だけがある。


「俺はお前を手放さない」と彼は言った。


「これは命令ではない。宣言だ」


 私は彼を見た。十年間、別の人間の隣で「落ち着く」という言葉を聞き続けた。同じ言葉でも、これほど違う。エドヴァルト殿下がそれを言う時、それは消費だった。アルベルト殿下がそれを言う時、それは——


 私はまだ、その言葉を見つけられていなかった。


 エドヴァルト殿下の使者が来たのは、秋の初めだった。


 私が追放されてから、おおよそ四ヶ月が経っていた。使者は丁寧な言葉遣いで「殿下が直接お話したいとのことで」と言ったが、私は顔を見ればわかった——余裕のない顔をしていた。王宮にいる人間特有の、何かに追われている表情だった。


 アルベルト殿下は「お前が決めろ」と言った。


「嫌なら断れる。俺が断らせる力も持っている」


「会います」と私は言った。


「終わらせたいので」


 エドヴァルト殿下は、変わっていた。


 四ヶ月でここまで変わるものか、と私は思った。顔色が悪い。瞳の焦点が定まらない。指先が微かに震えている。立ち姿は堂々としているが、その堂々さが——以前と違って——何かを必死に繕っているように見えた。


 会見室は中立の場として、ヴェスタリア王宮の小会議室が使われた。二人だけになった瞬間、彼は言った。


「帰ってこい」


 私は椅子に座ったまま、彼を見た。


「……何のために、ですか」


「それを聞くのか」彼は眉をひそめた。わずかに傷ついたような表情。


「お前と俺は十年の付き合いだ。その重みが——」


「殿下」と私は静かに遮った。


「あなたが欲しいのは私ではありません」


 彼が黙った。


「あなたが欲しいのは、"安心できる自分"です」


 長い沈黙があった。


 私は続けた。


「殿下は私の料理を食べると落ち着いた。それは私の能力によるものです。あなたはその効果に依存していた。ただそれだけのことです」


「そんな単純な話では——」


「単純です」私は続けた。


「殿下が私を婚約者に選んだのも、傍に置き続けたのも、その効果が必要だったから。私という人間を必要としていたわけではない。代替可能な、精神安定の道具として機能していただけです。殿下自身が、追放の理由でそれを証明しました——"役立たず"と言った。役に立てなくなれば捨てられるものを、人は人とは呼ばない」


 エドヴァルト殿下の顔が、みるみる変わった。


 惨めさ、というのは外から見るとこういう顔なのか、と私は初めて知った。彼は王族としての仮面を保とうとしていたが、それが崩れていく様が、手に取るようにわかった。顎のあたりに力が入り、それでも声が微かに揺れた。


「……帰ってきてくれれば、今度は違う。婚約を、いや、それ以上のものを——」


「殿下」


「俺にはお前が必要だ」

彼は言った。もはや王族の口調ではなかった。


「食事が全て不味い。眠れない。側近との会議で何度も判断を誤った。先週、財務卿と口論になり——お前がいた頃はそんなことは一度も——」


「それは」と私は言った。


「私の能力が信頼関係を前提にしているからです」


 彼が顔を上げた。


「今のあなたには、もう効きません」


 静寂が落ちた。


 私は立ち上がった。膝が震えていた——四ヶ月前、大広間で笑い声の中に立っていた時とは違う種類の震えだった。それは悲しみでも怒りでもなく、おそらく、何かが完全に終わる時の感覚だった。


「十年間、ありがとうございました。殿下が落ち着いていられたのであれば、私の能力は正しく機能していたのだと思います」


 私は一礼した。


「どうか、お元気で」


 彼が何かを言おうとしていたが、私はもう聞かなかった。扉を開けて、出た。廊下にアルベルト殿下が立っていた——聞いていたかどうかは聞かなかった。彼も聞かなかった。ただ、私の隣に並んで歩き始めた。



 その夜、アルベルト殿下は私を城壁の上に連れて行った。


 月が出ていた。ヴェスタリア王都の夜景は、ルーベルクとは違う広がり方をしている。もっと平らで、遠くまで光が続いていた。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。


「辛かったか」と、彼は言った。


「……どちらについての話ですか」


「両方」


 私は少し考えた。


「追放の時は、辛いというより、空っぽでした。今日は——」と私は言いかけて、止めた。


今日の会見で、私の中の何かが静かに、完全に閉じた。それは傷が癒えたのとは少し違う。癒えるべきものが最初からなかったのかもしれない、と今は思う。私が十年間大切にしていたのは、彼への感情ではなく、「必要とされている」という感覚だったのかもしれなかった。


「空っぽになった、というのが近いかもしれません」


「そうか」と彼は言った。


 また沈黙。


「俺はお前に言わなければならないことがある」


「はい」


「俺がお前を必要とするのは、能力のためだけではない」


 私は彼を見た。


「料理が安らかなのは事実だ。依存しているのも事実だ。だが——」


彼は珍しく、少し間を置いた。普段は間を置かない人間だから、それが目立った。


「この四ヶ月、お前を見ていた。お前は能力を誰にでも使った。老人にも、兵士にも、子供にも。見返りを求めなかった。それを見ていた」


「……」


「能力ではなく、お前という人間が、そうするのだ」と彼は言った。


「違うか」


 私は答えられなかった。正確には、答えはあったが、声が出なかった。


「セラフィーナ」


「はい」


「君は人間が壊れないための要だ」


 それは、彼らしい言葉だった。感情的な飾りがない。だからこそ、真実だった。


「俺の傍にいてくれ。妻として」


 月が、少し翳った。


 私は長い間、夜景を見ていた。


 十年間、一度も「美しい」と思われたことがなかった。「役に立つ」か「役に立たない」かの二択で生きてきた。それが突然変わるわけではない——アルベルト殿下も、私が「必要だ」と言った。感情ではなく、必要性として。


 だが、それでいい、と私は思った。


 感情的な言葉で包んだ虚偽より、乾いた言葉で告げられた真実の方が、ずっと長持ちする。


「……一つ、聞いてもいいですか」


「何でも」


「あの三日間、料理を断った時——」私はわずかに笑った。「私に依存していると気づいて、排除しようとしたと言っていましたね」


「ああ」


「それでも排除しなかったのは、なぜですか」


 彼は少し考えた。


「判断ミスが多すぎて、それどころではなかった」


 私は笑った。声に出して笑ったのは、いつ以来だろうと思いながら。


「それは」と私は言った。


「とても、あなたらしい答えです」


 彼もわずかに笑った。珍しかった。


「受け入れてくれるか」


 私は夜景をもう一度見た。遠くまで続く光。ルーベルクとは違う。私の場所は、最初からここではなかったのかもしれない。


「はい」と私は言った。


 彼の手が、そっと私の手に重なった。温かかった。


 私の能力は、その人の幸福な記憶を再現する。


 いつか、この夜のことが——誰かの料理の中に、蘇るだろう。

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