「君の料理がなければ眠れない」と泣きつかれても手遅れです。幸福を再現する聖女を追放した罰で、どうぞそのまま壊れてください。私は隣国で王子の「依存先」になります。
私の能力は、ずっと「役立たず」と呼ばれてきた。
治癒もできない。魔法陣も描けない。剣を持てば笑われるほど非力で、神殿の祈りの儀式でさえ、私の声は他の聖女の半分も響かない。それでも私がルーベルク王国の第一王子——エドヴァルト殿下の傍に十年間置かれ続けたのは、ひとえに「料理ができるから」という、実に世俗的な理由によるものだった。
正確には、料理を作ることそのものが私の能力だった。
口にした者の、幸福な記憶を味として再現する。
誰かが幼い頃に祖母から貰った蜂蜜菓子の甘さ。初めて恋をした夏の、塩気を帯びた風の匂い。母親に抱かれながら飲んだ、ぬるいスープの温かさ。そういったものが、私の料理を通じて舌の上に蘇る。技術ではなく、能力によるものだから、私は特別に美味い料理を作れるわけではない——少なくとも、そう思っていた。
殿下は十年間、一度も「美味しい」とは言わなかった。
ただ、夜が更けて執務室に二人だけになる時、彼はよく呟いた。
「お前の料理を食べると、落ち着く」
その言葉を、私は大切にしていた。愚かにも。
婚約破棄は、王宮の大広間で行われた。
春の謁見式。貴族たちが居並ぶ中、エドヴァルト殿下は壇上から私を見下ろし、よく通る声で告げた。
「聖女セラフィーナ・ヴォーレンとの婚約を、本日をもって解消する。理由は単純だ——彼女は役立たずだから」
笑い声が起きた。くすくすと、あるいは堂々と。私は広間の中央に立ち、その笑いを全身で受けながら、ただ真っ直ぐに前を見ていた。膝が震えているのがわかったが、倒れることだけは拒んだ。
「治癒もできない、戦えもしない、神聖魔法の才も皆無。王妃の資質とは何か、この機会に皆にも確認しておきたい。料理番は厨房にいれば足りる。王の隣に立つ必要はない」
彼の隣には、すでに別の女性が立っていた。神殿騎士団の副団長——美しく、強く、光の魔法を操る女性。彼女は私を見なかった。
私も、もう殿下を見るのをやめた。
追放令は三日後に出た。
私に与えられたのは、馬一頭と、三日分の食料と、国境まで送る護衛一人だった。荷物は両手で持てる量に限定された。私は迷わず、調理道具を選んだ。
国境の手前で、護衛の兵士が言った。
「……殿下は昨夜、ろくに食事を取られなかったそうです」
私は何も答えなかった。
彼が哀れんで言ったのか、それとも罪悪感から言ったのかはわからない。どちらにしても、私には関係のないことだった。馬の手綱を握り直し、国境を越えた。
振り返らなかった。
隣国ヴェスタリア王国に入ったのは、夜が白み始める頃だった。
街道沿いの宿場町で馬を預け、私は小さな広場の端に座り込んだ。体力よりも、何か別のものが尽きていた。十年間、毎日作り続けた料理。毎日聞いた「落ち着く」という言葉。それが全部、「役立たず」の三文字で上書きされた。
泣けなかった。
泣くには、まだ何かが足りなかった。
広場の隅に小さな屋台を出している老女がいた。私は残り少ない銅貨を数え、簡単な食材を分けてもらった。借りた焜炉で、何も考えずに料理を作った。思考を止めたかった。手を動かしていれば、考えなくて済む。
匂いで人が寄ってきた。
最初は一人、次に三人、やがて十人近くが屋台の前に立った。私はただ黙って皿を配った。能力のことも、追放のことも、説明しなかった。金も取らなかった。
一人の老人が一口食べて、しばらく黙った後、言った。
「……孫が、生きていた頃のことを思い出した」
私はその言葉を聞いて、初めて目の奥が熱くなった。
ヴェスタリアの第二王子——アルベルト・ヴェスタリアが私を見つけたのは、それから二週間後のことだった。
彼は視察の途中でその宿場町を通りかかり、街の人間がこぞって「国境近くの聖女の料理を食べに行く」と言っているのを聞いたのだという。護衛を連れて訪ねてきた彼は、私の粗末な屋台を見て、明らかに拍子抜けした顔をした。
「聖女と聞いていたが」
「元、です」と私は言った。「今は料理人です」
彼は少し考えてから、「一皿もらえるか」と言った。貴族らしい態度も命令口調もなく、率直な問いかけだった。
私は彼のために料理を作った。
何が再現されるかは、私にはわからない。その人が持つ記憶の中で、最も安らかで幸福なものが自然と出てくる——それが私の能力の仕組みだった。彼のために作ったそれは、シンプルなスープだった。具材は少なく、味も派手ではない。それなのに、彼は一口飲んだ瞬間、手が止まった。
長い沈黙があった。
「……母上の、声がした気がした」
彼は静かに、独り言のように言った。私は黙っていた。
彼がスープを飲み干すまで、私は何も言わなかった。飲み干した後、しばらくして、彼は私を見た。眼差しが最初とは変わっていた。
「お前の能力は何だ」
私は正直に答えた。隠す理由がなかった。
アルベルト殿下は、私を王都に連れて行った。
強制ではなかった。「来るかどうかはお前が決めろ」と彼は言い、私は少し考えてから頷いた。他に行く場所がなかったというのもあるが、それだけではなかった。彼の目に、何か真剣なものが宿っていたから。
王都で、彼は私に新しい厨房を与えた。
最初の週は、彼のためだけに料理を作った。二週目には、「兵士たちにも食べさせてほしい」と言われた。出征前の部隊だった。三百人近い兵士が、私の料理を一椀ずつ受け取っていった。
その翌朝の出立の様子を、私は城壁の上から見ていた。
出征前の兵士というのは、いつも見ていられないほど張り詰めた顔をしている——少なくとも私が知っている限りは。だが、その朝の部隊は違った。恐怖が消えているわけではない。ただ、それが「制御できるもの」になっていた。整然と、落ち着いて、前を向いていた。
アルベルト殿下が隣に来た。
「昨夜、兵士の一人が言っていた」と彼は言った。「故郷を守る理由を思い出せた、と」
私は何も言えなかった。
「セラフィーナ」と彼は言った。初めて名前を呼ばれた。「お前の能力は、人間を壊れないようにするものだ」
それから一ヶ月が経つ頃、彼が言った。
「自覚しているか。俺はもうお前の料理なしでは正常に判断できない」
私は手を止めた。
「……依存している、と言いたいのですか」
「ああ」と彼は即答した。隠す気が全くない声だった。
「最初に気づいた時、困った。王族が一人の料理人に依存するのは、脆弱性になる。だから排除しようとした」
「排除、ですか」
「三日間、お前の料理を断った」
彼は淡々と言った。
「結果——些細な報告書の確認で二度誤りを犯し、家臣三人に八つ当たりをし、夜中に目が覚めて眠れなくなった」
私は少し考えた。
「それは……私の料理がなくなったからだけではないかもしれません。精神的なストレスや——」
「わかっている」と彼は言った。
「だが、四日目にお前の料理を食べたら全部収まった。それが答えだ」
彼の論理は、いつもこうだった。感情的な飾りがなく、観察と結論だけがある。
「俺はお前を手放さない」と彼は言った。
「これは命令ではない。宣言だ」
私は彼を見た。十年間、別の人間の隣で「落ち着く」という言葉を聞き続けた。同じ言葉でも、これほど違う。エドヴァルト殿下がそれを言う時、それは消費だった。アルベルト殿下がそれを言う時、それは——
私はまだ、その言葉を見つけられていなかった。
エドヴァルト殿下の使者が来たのは、秋の初めだった。
私が追放されてから、おおよそ四ヶ月が経っていた。使者は丁寧な言葉遣いで「殿下が直接お話したいとのことで」と言ったが、私は顔を見ればわかった——余裕のない顔をしていた。王宮にいる人間特有の、何かに追われている表情だった。
アルベルト殿下は「お前が決めろ」と言った。
「嫌なら断れる。俺が断らせる力も持っている」
「会います」と私は言った。
「終わらせたいので」
エドヴァルト殿下は、変わっていた。
四ヶ月でここまで変わるものか、と私は思った。顔色が悪い。瞳の焦点が定まらない。指先が微かに震えている。立ち姿は堂々としているが、その堂々さが——以前と違って——何かを必死に繕っているように見えた。
会見室は中立の場として、ヴェスタリア王宮の小会議室が使われた。二人だけになった瞬間、彼は言った。
「帰ってこい」
私は椅子に座ったまま、彼を見た。
「……何のために、ですか」
「それを聞くのか」彼は眉をひそめた。わずかに傷ついたような表情。
「お前と俺は十年の付き合いだ。その重みが——」
「殿下」と私は静かに遮った。
「あなたが欲しいのは私ではありません」
彼が黙った。
「あなたが欲しいのは、"安心できる自分"です」
長い沈黙があった。
私は続けた。
「殿下は私の料理を食べると落ち着いた。それは私の能力によるものです。あなたはその効果に依存していた。ただそれだけのことです」
「そんな単純な話では——」
「単純です」私は続けた。
「殿下が私を婚約者に選んだのも、傍に置き続けたのも、その効果が必要だったから。私という人間を必要としていたわけではない。代替可能な、精神安定の道具として機能していただけです。殿下自身が、追放の理由でそれを証明しました——"役立たず"と言った。役に立てなくなれば捨てられるものを、人は人とは呼ばない」
エドヴァルト殿下の顔が、みるみる変わった。
惨めさ、というのは外から見るとこういう顔なのか、と私は初めて知った。彼は王族としての仮面を保とうとしていたが、それが崩れていく様が、手に取るようにわかった。顎のあたりに力が入り、それでも声が微かに揺れた。
「……帰ってきてくれれば、今度は違う。婚約を、いや、それ以上のものを——」
「殿下」
「俺にはお前が必要だ」
彼は言った。もはや王族の口調ではなかった。
「食事が全て不味い。眠れない。側近との会議で何度も判断を誤った。先週、財務卿と口論になり——お前がいた頃はそんなことは一度も——」
「それは」と私は言った。
「私の能力が信頼関係を前提にしているからです」
彼が顔を上げた。
「今のあなたには、もう効きません」
静寂が落ちた。
私は立ち上がった。膝が震えていた——四ヶ月前、大広間で笑い声の中に立っていた時とは違う種類の震えだった。それは悲しみでも怒りでもなく、おそらく、何かが完全に終わる時の感覚だった。
「十年間、ありがとうございました。殿下が落ち着いていられたのであれば、私の能力は正しく機能していたのだと思います」
私は一礼した。
「どうか、お元気で」
彼が何かを言おうとしていたが、私はもう聞かなかった。扉を開けて、出た。廊下にアルベルト殿下が立っていた——聞いていたかどうかは聞かなかった。彼も聞かなかった。ただ、私の隣に並んで歩き始めた。
その夜、アルベルト殿下は私を城壁の上に連れて行った。
月が出ていた。ヴェスタリア王都の夜景は、ルーベルクとは違う広がり方をしている。もっと平らで、遠くまで光が続いていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「辛かったか」と、彼は言った。
「……どちらについての話ですか」
「両方」
私は少し考えた。
「追放の時は、辛いというより、空っぽでした。今日は——」と私は言いかけて、止めた。
今日の会見で、私の中の何かが静かに、完全に閉じた。それは傷が癒えたのとは少し違う。癒えるべきものが最初からなかったのかもしれない、と今は思う。私が十年間大切にしていたのは、彼への感情ではなく、「必要とされている」という感覚だったのかもしれなかった。
「空っぽになった、というのが近いかもしれません」
「そうか」と彼は言った。
また沈黙。
「俺はお前に言わなければならないことがある」
「はい」
「俺がお前を必要とするのは、能力のためだけではない」
私は彼を見た。
「料理が安らかなのは事実だ。依存しているのも事実だ。だが——」
彼は珍しく、少し間を置いた。普段は間を置かない人間だから、それが目立った。
「この四ヶ月、お前を見ていた。お前は能力を誰にでも使った。老人にも、兵士にも、子供にも。見返りを求めなかった。それを見ていた」
「……」
「能力ではなく、お前という人間が、そうするのだ」と彼は言った。
「違うか」
私は答えられなかった。正確には、答えはあったが、声が出なかった。
「セラフィーナ」
「はい」
「君は人間が壊れないための要だ」
それは、彼らしい言葉だった。感情的な飾りがない。だからこそ、真実だった。
「俺の傍にいてくれ。妻として」
月が、少し翳った。
私は長い間、夜景を見ていた。
十年間、一度も「美しい」と思われたことがなかった。「役に立つ」か「役に立たない」かの二択で生きてきた。それが突然変わるわけではない——アルベルト殿下も、私が「必要だ」と言った。感情ではなく、必要性として。
だが、それでいい、と私は思った。
感情的な言葉で包んだ虚偽より、乾いた言葉で告げられた真実の方が、ずっと長持ちする。
「……一つ、聞いてもいいですか」
「何でも」
「あの三日間、料理を断った時——」私はわずかに笑った。「私に依存していると気づいて、排除しようとしたと言っていましたね」
「ああ」
「それでも排除しなかったのは、なぜですか」
彼は少し考えた。
「判断ミスが多すぎて、それどころではなかった」
私は笑った。声に出して笑ったのは、いつ以来だろうと思いながら。
「それは」と私は言った。
「とても、あなたらしい答えです」
彼もわずかに笑った。珍しかった。
「受け入れてくれるか」
私は夜景をもう一度見た。遠くまで続く光。ルーベルクとは違う。私の場所は、最初からここではなかったのかもしれない。
「はい」と私は言った。
彼の手が、そっと私の手に重なった。温かかった。
私の能力は、その人の幸福な記憶を再現する。
いつか、この夜のことが——誰かの料理の中に、蘇るだろう。




