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現実の死よりも、フィクションの中での死の方が重い理由

作者: エンゲブラ
掲載日:2026/03/02

また戦争である。

技術的には、誤爆のなくなったこの時代に、小学校を標的とした爆撃。


「いくら探しても、娘はもうどこにもいない。10歳だぞ、まだ10歳だぞ」と泣き叫ぶ、父親の姿。


そんな映像が映れても、どこか絵空事のように、それを眺める人々。


しかし、そんな人々も、映画やドラマ、漫画などの「登場人物の死」には、ちゃんとショックを受ける。―― これはいったいどういうわけか?


けっきょくのところ、多くの人間は「物語」の中を生きている。

物語という装置によって、初めて感情移入する。


背景を知らない者の死は軽く、

知る者の死は重い。


人間誰しも、それなりの物語を背負って生きている。

物語のない人間など存在しない。


だが、それを認めてしまうと、世界は非常に重たいものへと姿を変える。


無理解が、人々を分断する。

だが、そういった無理解(=想像力の排除)もまた「容量を持たない者」たちにとっては、自己を守る「セーフティーモード」として機能している。


近年、差別主義的・排他主義的な人間が目立ってきているように見える。だが、こういった態度も、セーフティーモードによる、シャットダウンの反応に過ぎぬのかもしれない。


海外の人間、蚊帳の外の物語にまで目を向けると、自身の感情が押しつぶされてしまう。そのため、そういったものに対し、「自衛」としての拒絶の心理が、脊髄反射的に働く。


精神も筋肉と同じで、鍛えない限りは成長しない。

逃げ回ること、閉じることによって、支払わされる代償は「人間性の喪失」だ。


鍛えれば、快感に変わるトレーニングも、

これまでにそれ行ってこなかった者たちにとっては、ただの苦痛としかならない。


このような「精神の筋トレ」は、年々軽視される傾向にある。

情報の洪水が「現実の物語」に触れる気力を奪い、負荷の軽い方へ、軽い方へと我々を押し流す。


近年、自分から人間的な情緒が、ごっそりと抜け落ちていっている感覚を持つ人は、意外に少なくはないだろう。


高負荷の濃密な感情には、「物語越し」でしか触れることが出来ない、触れたくない人間が、世界のマジョリティーとなりつつあるのかもしれない。


「魂の劣化」は、そういったところから始まる。

今や、子供たちまでもが、くたびれて見える社会となってきている。

黄昏の匂いが漂う。

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― 新着の感想 ―
こんにちは。 >背景を知らない者の死は軽く、知る者の死は重い その通りかもしれない。 知らない人が殺されても、「そうなんだ、可哀相に」くらいしか思わないけど。 少しでも知っている人なら、「え、え、…
>けっきょくのところ、多くの人間は「物語」の中を生きている。 物語という装置によって、初めて感情移入する。 ↑ ここの言い回しうまいですな!惚れ惚れしちゃいます! こんなカッコイイ台詞を言いたい…
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