現実の死よりも、フィクションの中での死の方が重い理由
また戦争である。
技術的には、誤爆のなくなったこの時代に、小学校を標的とした爆撃。
「いくら探しても、娘はもうどこにもいない。10歳だぞ、まだ10歳だぞ」と泣き叫ぶ、父親の姿。
そんな映像が映れても、どこか絵空事のように、それを眺める人々。
しかし、そんな人々も、映画やドラマ、漫画などの「登場人物の死」には、ちゃんとショックを受ける。―― これはいったいどういうわけか?
けっきょくのところ、多くの人間は「物語」の中を生きている。
物語という装置によって、初めて感情移入する。
背景を知らない者の死は軽く、
知る者の死は重い。
人間誰しも、それなりの物語を背負って生きている。
物語のない人間など存在しない。
だが、それを認めてしまうと、世界は非常に重たいものへと姿を変える。
無理解が、人々を分断する。
だが、そういった無理解(=想像力の排除)もまた「容量を持たない者」たちにとっては、自己を守る「セーフティーモード」として機能している。
近年、差別主義的・排他主義的な人間が目立ってきているように見える。だが、こういった態度も、セーフティーモードによる、シャットダウンの反応に過ぎぬのかもしれない。
海外の人間、蚊帳の外の物語にまで目を向けると、自身の感情が押しつぶされてしまう。そのため、そういったものに対し、「自衛」としての拒絶の心理が、脊髄反射的に働く。
精神も筋肉と同じで、鍛えない限りは成長しない。
逃げ回ること、閉じることによって、支払わされる代償は「人間性の喪失」だ。
鍛えれば、快感に変わるトレーニングも、
これまでにそれ行ってこなかった者たちにとっては、ただの苦痛としかならない。
このような「精神の筋トレ」は、年々軽視される傾向にある。
情報の洪水が「現実の物語」に触れる気力を奪い、負荷の軽い方へ、軽い方へと我々を押し流す。
近年、自分から人間的な情緒が、ごっそりと抜け落ちていっている感覚を持つ人は、意外に少なくはないだろう。
高負荷の濃密な感情には、「物語越し」でしか触れることが出来ない、触れたくない人間が、世界のマジョリティーとなりつつあるのかもしれない。
「魂の劣化」は、そういったところから始まる。
今や、子供たちまでもが、くたびれて見える社会となってきている。
黄昏の匂いが漂う。




