そして鳥は戻ってくる
約35,000字と長めの短編となっております。
お時間をいただけましたらありがたく思います。
昼下がりのボルトン伯爵家の庭で、リネットは幼馴染のジョディーに招かれて、その義理の弟クレイグと三人で楽しくお茶を飲んでいた。
リネットとジョディーは共に九歳、クレイグも九歳だがジョディーより七か月後に生まれているため弟ということになったという。
ジョディーがまだ赤ん坊の頃に、三つ上の兄が流行病で亡くなった。
それから数年後にジョディーは母も亡くしてしまった。
ジョディーの父とクレイグの母は、配偶者を亡くした者同士で一年前に再婚したのだった。
一年前に初めてクレイグと会った時、リネットの初恋が始まった。
ジョディーに『同じ年の弟ができたの』と紹介された日、クレイグがリネットの髪を『夕焼け雲のようなきれいな髪』と言ってくれた時に。
赤髪の巻き毛がコンプレックスだったリネットだが、クレイグの言葉がまっすぐ心に飛び込んできて、身体中に温かく広がっていった。
クレイグは、ハチミツ色のサラサラの髪を風になびかせ、一番高いところにある太陽のような笑顔だった。
「リネットは、ブルーベリーのタルトが本当に好きだよね。僕の分も食べていいよ」
「あらクレイグ、大好物をリネットに譲るなんてこれから雨でも降るのかしら? それともリネットを喜ばせたい理由があるの?」
「あまりにもリネットが幸せそうに食べてるからさ、ブルーベリーのタルト一つ分の幸せだけでは可哀そうだと思った……それだけだよ」
「ありがとう、クレイグ。でも、クレイグにもこの美味しさを分かってほしいから半分返すわ」
「半分はもらうのね、リネットらしいわ!」
リネットは笑いながら二人をみつめる。
笑っていなければ、胸の苦しさから二人に見せられない顔をしてしまいそうで怖かった。
二人は血の繋がりのない義理の姉弟なのに、サラサラな髪がそっくりだ。
リネットは、ジョディーのストレートロングの美しい金髪が憧れでもあり、羨ましくもあった。
そんなジョディーに同じように真っ直ぐな髪の弟ができて、リネットのコンプレックスは身体の真ん中でオークの木のように枝葉を広げていた。
リネットはクレイグに恋をしていたから、クレイグが誰をみつめているかも気づいてしまった。
少し身体の弱いジョディーをまるで騎士のように守るクレイグは、同じ年の義姉を熱のこもった目で見ていた。
ただ、それに気づいたのはリネットがクレイグに恋をしているからであって、クレイグは自分の気持ちを上手に隠していた。
ジョディーのほほえみが向けられたクレイグは、ふざけた態度を取ったり意地悪なことを言ったりする。
でも、どこかで嬉しさを隠せていない。
そんなクレイグをそっと見ているリネットの心の中は、いつも雨が降っている。
三人で過ごしていても、リネットの空が晴れることはない。
分かっているのにリネットはいつもずぶ濡れになっていた。
クレイグがボルトン伯爵家に来るよりずっと前からジョディーは仲の良い友人で、リネットはジョディーのことがとても好きだ。
クレイグの好きなところを挙げるよりジョディーの好きなところのほうが、リネットはたくさん挙げることができる。
ジョディーは一番の友人で、誰より大切に思っていた。
クレイグもジョディーの友人であるリネットだから、優しく接してくれている。
人を好きになるということは、世界にその人と自分と二人だけが存在すればいいと思うことだとリネットは何かの本で読んだ。
クレイグとリネットの二人の世界というのはこの世の果てまで行っても存在せず、いつもそこにはジョディーがいる。
だからリネットの想いが報われることはないと、最初から分かっていた。
クレイグに惹かれている気持ちも、コンプレックスも、すべて胸の中に押し込めたリネットは、その苦しさを少しでも身体の外に出すように他愛もないおしゃべりをした。
***
「それで落ちていた小鳥を拾って、両親に内緒で自分の部屋で世話をしていたの。羽を怪我していて飛べないのよ。でも次の日、お父様が私の部屋にやってきて、私は慌てて小鳥のチッチを隠そうとしたの。そうしたら、入ってきたお父様はなんと手に金色の鳥籠を持っていたのよ!」
「まあ! リネットのお父様、小鳥のことを知っていたのね。鳥といえば、お義母さまから聞いた話なのだけれど、高い塔に集まった鳥たちが、塔の大きな鐘の音で一斉に飛び立つのは、それは驚く光景なのですって。たくさんの鳥が羽ばたく音はすごいのでしょうね」
「それは私も見てみたいわ! 夏の大風のような音なのかしら」
リネットは目を閉じて、たくさんの鳥が塔から一斉に飛び立つところを想像した。
そんなに鳥が集まっているのを、見たことはなかった。
「大きな鐘の音に追い立てられたのに、どうして鳥はまた集まってくるのだろう。自分もその鳥たちを見てみたいな……」
クレイグは不思議そうに言った。
「それで、リネットのお父様は鳥を飼う許可をくださったの?」
リネットが塔から飛び立つ鳥たちを想像していると、ジョディーが話を戻した。
「……ええ。鳥籠の掃除はメイドと一緒に自分でやることと言われたけれど、飼ってもよいと言われて嬉しかったわ」
「小鳥を飼えるなんて、リネットが羨ましいわ……ごほっ……!」
「姉上!」
クレイグは椅子を蹴るように立ち上がって、ジョディーの背中を大切なもののように撫でた。
ジョディーは空気の乾いた季節が来ると、胸を悪くして寝込むことがよくあった。
心配そうにジョディーの様子を見ていたクレイグが、リネットを振り返った。
長い前髪からちらりと見えたその目は、冷たい冬の湖のようでリネットは身が縮む思いがした。
そのせいか、ジョディーを気遣う言葉は声にならなかった。
「リネット、今日はこれでおしまいにしようと思う。せっかく来てくれたのにごめん」
「ごめんなさい、リネット。また遊びに来てね」
「……二人とも謝らないで。今度は我が家にお招きするわ。どうかお大事にしてね、ジョディー。クレイグも今日はありがとう」
ジョディーたちの付き添いの大柄な侍女が、華奢なジョディーを軽々と横抱きにして先に歩いて行く。
クレイグは、立ち尽くしているリネットの近くに来て、硬い声で言った。
「リネットは、小鳥の世話をしていた時のワンピースのままなのでしょう? 小鳥って清潔なのかな。姉上は猫や犬にも咳が出るから近寄れないけれど、小鳥はどうだろうね……」
その声は驚くほど尖っていた。
まるでジョディーが咳をした原因が、小鳥を触った汚いリネットにあると言うような口ぶりで、リネットの心の中にインク瓶を倒したように黒い染みが広がっていく。
「……ごめんなさい。もちろん手はきれいに洗ったけれど、着替えはしていなかったわ。本当に、ごめんなさい……私のせいね……」
「別に、僕はリネットのせいとは言ってないよ」
クレイグはそう言うと、走ってジョディーと侍女を追いかけて行ってしまった。
置いていかれたリネットは連れてきた侍女と共に、ボルトン家の従者によって門まで案内されて馬車に乗り込んだ。
リネットは膝に目を落として、浅い息をする。
何かが閊えているように息苦しい中、馬車は歩く速さでゆっくりと進んでいった。
リネットは家に戻っても、何もする気にならなかった。
父から鳥籠をもらい小鳥を飼ってもいいと許されたのは、本当に驚くことだった。
リネットに父が話しかけてくることはあまりない。
時々、父にはリネットが見えていないのではないかと思うこともあった。
そんなふうに距離を感じる父からもらった鳥籠だったから嬉しくて、リネットはジョディーとクレイグに真っ先に伝えたかった。
窓際に置かれた鳥籠に近づくと、小鳥のチッチが首をかしげてリネットを見る。
「……チッチ、ごめんね」
クレイグから、小鳥が汚いと言われたようで、リネットは悲しくなった。
でも、本当にジョディーが咳込んだのは自分の不注意が原因かもしれないと、リネットは母が化粧をするときのケープのようなものが欲しいと思った。
古い物でいいので、母には内緒で探してみてくれないかと侍女に頼んだ。
ジョディーに会うたび、ワンピースを着替えるわけにもいかないからだ。
それからほどなくして、母が使わなくなったお古のケープを侍女からそっと手渡された。
***
リネットはジョディーの誕生日パーティに、母と共に招かれていた。
ボルトン伯爵家の広いサロンの窓が開け放され、庭にもテーブルが置かれている。
大人はサロンの中のテーブルに着き、子供たちには庭のテーブルに子供用の料理の皿がいくつも置かれた。
「ジョディー、お誕生日おめでとう。ジョディーの好きなものをいっぱい思い浮かべて選んだの。気に入ってもらえたら嬉しいわ」
リネットは、ジョディーの好きな水色のハンドバッグを差し出した。
小さなバッグには淡いグレーのワンハンドルの持ち手があり、かぶせの蓋はゆるやかなスカラップになっていて、透明なガラスボタンの装飾がついていた。
ジョディーの誕生日プレゼントは、侍女と一緒に出かけて探した。
大人っぽい物が好きなジョディーは、ウサギやネコの絵のついた物やピンクのリボンがついたものより、色も形も落ち着いていて、あまり飾りのないものを喜ぶだろうと考えて選んだ。
「なんて素敵なの! リネットは私のことを何でも知っているのね、本当に嬉しい、ありがとう!」
「こちらこそ喜んでもらえて嬉しいわ。バッグを持ったジョディーはとても素敵なレディね!」
ジョディーはバッグを持ってくるりと回り、デイドレスの裾を少しつまんでレディの挨拶の真似をすると、近くにいた大人たちがパチパチと手を叩いた。
『ジョディー嬢の愛らしいこと』
『ボルトン伯爵は目に入れても痛くないというが、あの可愛らしさならうなずける』
そんな大人たちの声がリネットの耳にも届く。
ジョディーはとても幸せそうだ。
リネットはそんなジョディーの笑顔が大好きなのだ。
自分の贈り物がジョディーを笑顔にしたことが、リネットには何よりも嬉しい。
ジョディーはバッグを持ったまま反対の手でリネットの手を取って、庭にいる招待客の間を縫うように歩き、たくさんの人たちに挨拶をして回り、たくさんのおめでとうを集めた。
すると、友人たちといるクレイグに出くわした。
「姉上、そんなに歩き回ったら疲れてしまうよ。飲み物を取ってくるから二人で座って待っていて」
クレイグに椅子を勧められて、ジョディーと並んで座る。
たしかに、ジョディーの息が少し乱れているような気がした。
「クレイグ、私も行くわ。ジョディーがさっきチーズのカナッペを食べたいと言っていたの。さすがにクレイグもそんなに持てないでしょう?」
「大丈夫だからリネットも座っていなよ。姉上が一人になってしまうし」
それでもリネットが椅子から立ち上がろうとしたとき、クレイグの袖のボタンにリネットの髪が絡んでしまった。
慌てたクレイグが腕を振ると、リネットは引っ張られるように倒れ込んだ。
ジョディーが思わず悲鳴を上げる。
クレイグの腕の先にリネットが括り付けられたようになってしまい、クレイグはリネットを見下ろす形で立ち尽くしていた。
「僕がほどくから、二人は動かないで」
近くにいた、リネットより三つ四つ年上に見える少年がリネットを立たせてくれて、絡んだ髪を器用にほどいていった。
クレイグはリネットのふわふわの髪から顔を背けるように、髪にボタンが絡んでいる腕を伸ばして身体をねじっている。
「はい、もういいよ。ほどくためとは言え髪を引っ張ってしまってごめんね。痛くはなかった? それからクレイグ、君はもう少しレディに優しいほうがいいよ」
年上の男子にそう言われてしまったクレイグは、恥ずかしさなのか怒りなのか顔を真っ赤にしながらも、「ユーイン様、ありがとうございました」ときちんと礼を言った。
ユーインという名を聞いて、ボルトン伯爵家やアストリー伯爵家が属する一門を束ねるコートネイ侯爵家の令息なのだと気づいた。
リネットもユーインに頭を下げて礼と謝罪をし、クレイグにも謝ろうとしたが彼は友人たちと行ってしまった。
「リネット大丈夫?」
「ええ、私の髪が巻き毛なのがいけなかったわ。騒ぎになってしまってごめんなさい。ジョディー、今度こそカナッペを取ってくるから待っていてね」
リネットはジョディーを残してサロンに向かう。
ジョディーの隣にいると何故だか涙が出てしまいそうで、リネットは早歩きになった。
すると、左手の木立の向こうに、クレイグが友人たちといるのが見えた。
クレイグにきちんと謝ろうとして近づくと、彼らの会話が聞こえてリネットは立ち止まった。
***
「クレイグもひどい目に遭ったな。あの巻き毛の子さぁ」
「ああ。ああいう巻き毛は、今日のような場ではきちんとまとめるべきだ。こうして人に迷惑をかけることもあるのだから」
クレイグの硬い声に、リネットは足を地面に釘付けられたように動けなくなった。
「あの子、汚れてモジャモジャの年老いた犬そっくりの毛だってね。クレイグの姉さんみたいにサラサラにきれいにしておけばいいのに」
「それは無理だ。姉上とは質が違いすぎる」
汚れてモジャモジャの、年老いた犬そっくりの毛……。
汚れて、モジャモジャの……。
リネットは思わず自分の髪に触れた。
ふわふわと広がってしまう髪は、さっきはクレイグの袖のボタンに絡まってしまった。
リネットから顔を背けて、心底嫌だというように身体をねじっていたクレイグ。
汚れてモジャモジャの、年老いた犬そっくりの毛。
クレイグたちの声が、リネットの耳から遠ざかっていく。
リネットは後ずさった。
「おい、ちょっと……」
その時、こちら側を向いていたクレイグの別の友人の一人と目が合った。
友人の言葉にクレイグが振り返って、驚いた顔でリネットを見た。
リネットはサロンに向かって駆けだしたが、クレイグは追っては来ない。
もしかしたらクレイグが追いかけて来てくれるだろうかと、浅ましい期待を一瞬でもしてしまった自分に気持ちが悪くなる。
そしてサロンのすぐ手前のテーブルに居た母を見つけ、リネットはのろのろと近寄った。
「……お母さまごめんなさい。具合が悪くなってしまったので、帰りたいです……。皆様には、ご迷惑をおかけすることになり……申し訳ございません」
なんとかそう絞り出すと、涙が両方の目から溢れ出た。
『巻き毛に生まれてごめんなさい』と言いたかったのに、その言葉は出てこなかった。
さっきからの気持ち悪さが喉の奥に詰まっているようで、そこを言葉が通れなかったのだ。
「まあ、それではすぐに帰って休みましょう。皆様方、申し訳ございませんが、今日はこれで失礼いたします」
リネットの母はリネットの肩を強く抱きかかえながら、同じテーブルの夫人たちにいくつか言葉を掛ける。
主催であるジョディーの母もいたので、リネットは頭を下げた。
「ジョディーがあちらの椅子にいます。私は具合が悪くなってしまいました……。ジョディーに何も言わずに帰ろうとすることをお許しください」
「リネットさんの顔色が悪いわ、どうぞお大事にね。またいつでもいらしてね」
馬車を待つ間、案内された応接間で母と休んでいた。
母はリネットのせいで途中退席することになってしまい、怒っているのか険しい顔をしている。
しばらくすると馬車の用意ができたと言われ、リネットは母と共にボルトン伯爵家を後にした。
ボルトン伯爵家とアストリー伯爵家は隣接しているが、互いの広い庭を挟んだ隣なので馬車で二十分ほどかかる。
行きの馬車はアストリー伯爵家にいったん戻り、時間で迎えに来るはずだったところ、ボルトン伯爵家が馬車を出してくれることになった。
「あなたのせいで、ボルトン伯爵夫人に謝るはめになってしまったわ……。具合が悪かったのなら、行く前に言ってくれればよかったのに」
「……ごめんなさい」
母は表には決して出さないが、子爵家から子連れで伯爵夫人となったクレイグの母によい感情を持っていない。
侍女にそう言っているのを、リネットは偶然聞いてしまったことがあった。
人にはいろいろな顔があることを、リネットは知っている。
母も父も、ジョディーもクレイグも、人に見せない顔を持っていて、時々ポロリと出したそれをリネットが見てしまうことがあるのだ。
そしてリネット自身も、その心の内はいろいろな感情がごちゃごちゃになって渦巻いている。
いつもは走ったり歩いたりしてやってくる距離なのに、揺れる馬車の中の今はとても遠く感じた。
***
アストリー伯爵家に戻ったリネットは、ワンピースドレスを侍女に脱がせてもらうと、湯浴みを拒否してベッドに入った。
部屋に誰が来ても掛け物を頭からかぶって、寝たふりをした。
汚れてモジャモジャな毛の年老いた犬のようと言った友人の言葉を、クレイグは肯定するように受けて話を続けた。
もう涙は出尽くしたと思ったのに、鼻の奥がツンとして痛くなった。
母の髪は真っ直ぐでハチミツ色、父はサラサラの金色で、父も母もリネットのようにくるくるの巻き髪ではない。
誰に似たのか分からない赤髪の強くカールした巻き毛を、リネットはいつもサイドで二つに結んでから背中で一つに編んでもらっている。
でも、今日はパーティだからと、侍女が可愛らしく二つ結びにしてワンピースドレスとお揃いのリボンを結んでくれた。
全体のボリュームを押さえるために、細い三つ編みをいくつか垂らしていたのに、巻き毛はクレイグの袖のボタンに引っかかってしまった。
あの時のことを思い出すと、胸が潰れたような痛みを感じた。
リネットはのろのろとベッドから下りた。
鏡に映った自分が目に入る。
三つ編みや二つ結びを全部ほどくと巻き毛が広がって、空き地の剪定されていない木のようだ。
クレイグから発せられた言葉を思い出す。
『姉上とは質が違いすぎる』
淡い金色のまっすぐで長い髪のジョディーと、くるくるでボサボサの老犬の汚い毛のような赤髪のリネット。
言われなくてもジョディーの美しい髪とはまったく違うことくらい、リネットは分かっている。
クレイグの冷たい目とジョディーの美しい髪が、リネットの頭の中を占領していた。
母から強く掴まれた肩に痛みもある。
リネットは、醜い赤い巻き毛が映った鏡を叩いた。
何度も何度も鏡を叩き、ふらふらとドレッサーの引き出しを開ける。
その中から侍女がリボンを切るのに使っている裁ち鋏を取り出して、掴んだ髪をジョキジョキと切り始めた。
全部切ってしまえば、くるくるの巻き毛ではなくまっすぐな髪が生えてくるだろう。
リネットは何でこんな簡単なことに、今まで気づかなかったのだろうと思った。
ジャキジャキと耳のすぐそばで小気味よい音を立てながら、どんどん髪を切っていく。
耳の上まで切って、さらに頭の天辺の毛も横にザクザクと切る。
リネットの足元に、ふわふわでくるくるの赤髪が溜まっていった。
それを両手で掬って天井に向かって放ると、ゆっくりと巻き毛が落ちてくる。
リネットはなんだか楽しくなってきた。
ずっと苦しめられた赤髪の巻き毛を、はしたなくも足で蹴散らした。
鏡の中のリネットは、この家の料理長の坊主頭にそっくりだった。
「あまり上手に切れなかったけれど、きっとしばらくすれば真っ直ぐな髪が生えてくるわ……そうしたら、ジョディーやクレイグやお母さまのようなサラサラの髪に、私もなれるかもしれない!」
リネットは頭の軽さと涼しさに少し驚いたが、どこか清々しい思いもした。
シャンプーを嫌がる老犬の毛も、きれいに洗って乾かして鋏を入れたら、きっとこれくらいスッキリするはずだ。
リネットが鏡に向かって満足気に微笑んでいると、温めたミルクを持って部屋に入ってきた侍女の悲鳴がアストリー伯爵家に響いた。
***
それから五日後、ボルトン伯爵夫人がジョディーとクレイグを連れてアストリー伯爵家にやってきた。
リネットは母に部屋から出ないようにときつく言われたが、そっと抜け出して階下を窺う。
ジョディーの朗らかな挨拶が聞こえた。
リネットは、小鳥の世話のために侍女からもらったケープを頭に被っていた。
あの日、リネットを見た母は膝から崩れ落ちるように床に座り込んでしまった。
いつもリネットの髪を結ってくれる侍女が、青ざめた顔でどうすることもできない髪を、それでも鋏で整えてくれた。
父はそんなリネットを見て茫然と立ちつくし、信じられないという顔をしていた。
そして翌朝になって、リネットは母方の祖父母のところでしばらく暮らすようにと父に言われたのだ。
「……ええそうなんですの。リネットはあれから体調が戻らないものですから、しばらくわたくしの実家で療養することになりましたの。ジョディーさんとクレイグさんがせっかくお見舞いにいらしてくださったのに、リネットは今部屋で休んでいて、ごめんなさいね……」
「うちの子供たちも寂しがっております。でも身体が良くなれば、戻って来られますわね」
「ええ。今日は本当にありがとうございます。いただいた果物とお花、リネットも喜ぶでしょう」
開け放された応接室から母たちの話が聞こえたが、ジョディーやクレイグの声はほとんど聞こえなかった。
この髪では会えないけれど、せめてひと目二人を見たくてさらに身を乗り出す。
少しすると、部屋から皆が出てきて玄関ホールに向かって歩いている。
リネットは二階の廊下の端から、手摺りに掴まって見下ろしていた。
クレイグの母がジョディーと先を行き、その少し後ろをクレイグが一人で歩いている。
通り過ぎた直後に、リネットのケープがふわりと下へ落ちてしまった。
「……リネット……」
振り返りきょろきょろするクレイグと目が合ってしまい、リネットは走って部屋に戻る。
男の子より短く切ったこの髪を、クレイグに見られてしまった……。
切った直後は爽快だったが、侍女に泣かれたことや父が『愚かな……』と呟いたこと、母から罪人みたいだと叱られたことで、自分がしてしまったことが悪いことだったと気づいた。
リネットは胸が苦しくなって、ぺたりと座り込んだ。
まっすぐな髪が生えてきてから、ジョディーやクレイグに会うつもりだった。
父がだいたい三日ごとに、庭の椅子で従者に髭を整えさせていたから、リネットの髪もそのくらいで生えてくるはずだが、あれから三日以上過ぎてもまっすぐな髪が生えてくる気配はなかった。
鏡の前で髪をつまんで引っ張ったのに、何も変わらずに短髪のリネットがいるだけだった。
祖父母のところに行くための用意は、ほとんど終わっていた。
母方の祖父母にはずっと会っていなかったので会いたいとは思うけれど、ジョディーやクレイグと会えなくなるのは、とても寂しい。
リネットは、のろのろと立ち上がった。
リボンは荷物に入れなくていいのに、引き出しを開けていくつかを手に取った。
今のリネットには滑稽なほどリボンが似合わない。……というよりも、リボンを結ぶ髪がないのだ。
二人に会うことができないまま、リネットは護衛の従者と共に馬車に乗せられた。
父は仕事に出かけた後で、母は朝食の時に「いい子でいるのよ」と言っただけだった。
***
クレイグはぼんやりと窓の外を眺めていた。
リネットは祖父母のところへ行ったきりだ。
新年や花祭りの休日にも、一時帰宅さえしていない。
まさか七年も戻ってこないなどとは思いもしなかった。
ジョディーはリネットと、ときどき手紙のやり取りをしているらしいが、クレイグに手紙が届いたことは一度もない。
リネットから最初に手紙が届いた時に、ジョディーに何か自分について書いてあるか聞いてみたが、『文末に、クレイグにもよろしく、そう書いてあっただけよ』とにっこり微笑んで言われてしまった。
『気になるなら、クレイグも書けばいいじゃない。今度私が手紙を書く時に一緒に書く? お義母さまに許可してもらえるように言ってあげるわよ?』とジョディーに言われたが、ジョディーに見張られながらリネットに手紙を書く気にはなれなかった。
謝罪の言葉はリネットに会って直接言うしかないと思っているうちに、こんなにも月日が過ぎてしまった。
リネットが祖父母のところに行ってしまったのは、自分のせいだとクレイグは思っている。
ジョディーの誕生日パーティの時、リネットの髪が自分の袖のボタンに絡まり、そのあとで友人たちと酷いことを言っていたのを聞かれてしまった。
そして、あんなに髪を男子よりも短く……ほとんど毛がないくらいに切ってしまっていた。
あの日、リネットの姿を見たとき、心臓が止まるかと思うくらいクレイグは驚いた。
男子の友人たちでも、あんなに髪を短くしている者はいない。
リネットはそのせいで領地に行くしかなくなったのだ。
あれでは街を歩くこともできなかっただろう。
クレイグがそこまでリネットを傷つけてしまったのだ。
リネットに会えたらきちんと謝るつもりでいた。
でも、謝る機会もないまま、リネットが七年も戻ってこないとは思ってもいなかった。
ジョディーが十六歳になった日、クレイグは養父であるボルトン伯爵から衝撃の話を聞くことになった。
ジョディーの婚約が結ばれたというのだ。
相手は、一門を束ねているコートネイ侯爵家の三男ユーインだという。
ジョディーの婿となってボルトン伯爵家に入る予定だと、養父が嬉しそうに言った。
その隣にいる母は、仮面のように表情が固まっている。
たぶん自分も母にそっくりな表情をしているのだろうと、クレイグは思った。
クレイグの母と養父は再婚同士、同じ一門の子爵家の母と再婚した時、養父はいずれジョディーの婿としてクレイグの籍を入れることにすると言ったそうだ。
クレイグは母から常に尻を叩かれていた。
養父といってもクレイグだけは母の再婚前の実家である子爵家に籍があるままで、ボルトン伯爵にジョディーの婿に相応しいと認められなければならない。
そのために遊ぶ時間など母は許してくれなかった。
友人たちは伯爵か侯爵家の子息で、彼らと会うことは人脈作りや情報収集ということで許された。
リネットはジョディーの幼馴染だから、ジョディーのお供という立場で母は許した。
ジョディーの気持ちを必ず掴み婿として認められるようにと、母からしつこく言い含められていた。
いつもボルトン伯爵がジョディーに付けている侍女は、クレイグのことも伯爵に報告していると母から言われて恐ろしかった。
そのため常にジョディーの言動を注視し、彼女の気分を損ねないようにしていた。
いかに自分がジョディーを大事にしているか、それを周りにいるボルトン伯爵の耳目となっている者たちにアピールすることが重要だったのだ。
ジョディーを大事にしなければ、クレイグの足場は崩れてしまう。
そのときは、母もろとも真っ逆さまに落ちていくのだ。
母は、クレイグがジョディーの婿になれなければ、実家に戻れないのだから今より悪条件で別の後妻になるか平民になるか、もしくはクレイグだけを切り捨てることになるかの三択だと言っていた。
そして母は三つ目を選び、クレイグを切り捨てようとしている。
ジョディーの心を掴まなければならず、リネットを初めて見た時に感じた、輪郭がおぼろげな感情を持ち続けるわけにはいかなかった。
碧で丸い、小鳥のような澄んだ瞳のリネット。
巻き毛だって、初めて会った時に柔らかい冬毛の鳥のようで可愛らしく思ったのだ。
クレイグにも分からないうちに、リネットとの間に紙を一枚ずつ挟むように距離ができていった。
母に言われたとおり振る舞っているせいだと思っていたが、それとも何かが違っていた。
学園の中等部では常に三位以内の成績を維持し、それはボルトン伯爵からも褒められていたのに、ジョディーの婿に選ばれたのはクレイグではなくユーイン・コートネイだった。
養父のボルトン伯爵は、努力を重ねてはいたが何の力もないクレイグより、コートネイ侯爵家との強固な繋がりを求めて婿を決めた、そういうことなのだろう。
あの日、リネットの巻き毛が自分の袖のボタンに絡んだのをほどいてくれたのが、ユーインだった。
あの時からずっと、ユーインに対して仄暗い感情を隠し持っていたが、ジョディーとの婚約と聞いて打ちのめされた。
侯爵家のユーインと自分は比べるまでもなく、勝てる要素が一つもなかった。
そして衝撃的な話はジョディーとユーインの婚約の件だけではなかった。
「ジョディーがコートネイ侯爵家から婿をとることになり、おまえの処遇をどうするかが問題となった。おまえの母アルマは変わらずボルトン伯爵夫人だが、今さら跡取りになるわけでもないおまえをボルトン家の籍に入れるのも不自然だ。そこで隣家のアストリー伯爵家のリネット嬢への婿入りを打診したのだ。おまえは子爵家に籍があるが、アルマの息子である。ジョディーの婚約でコートネイ侯爵家との繋がりも太くなり、同じ一門であるアストリー伯爵がおまえの婿入りを受け入れてくれれば、伯爵家の者となれる。ジョディーとリネット嬢はとても仲がいいからな、ジョディーも喜んだぞ。もちろんアルマも喜んでいる」
ボルトン伯爵に話を振られたクレイグの母は、曖昧に微笑んだ。
この再婚をするにあたっての話し合い時と違う着地点に、母は納得していないのかもしれないが、クレイグを母の実家である子爵家に戻されても文句は言えないのだ。
クレイグには養父の言葉は聞こえているものの、頭の中を素通りしていた。
リネットと婚約してアストリー伯爵家に婿入りする……。
クレイグには、赤髪の巻き毛が無残な短髪になったリネットを思い浮かべ、結婚など無理だとしか思えなかった。
そこまでリネットを追い詰めたのは、自分だと思っている。
リネットはおそらくクレイグを許していない……。
あんなに髪を短くしてしまうほどリネットは傷つき、その原因であるクレイグたちに対して怒りを持ったままでいるだろう。
「リネット嬢は、母方の祖父母とその領地で暮らしていると聞いていますが、それなのに婿入りですか?」
「もうすぐリネット嬢はアストリー伯爵邸に戻ってくるそうだ。そうしたら正式にクレイグとの婚約を結べばよいだろう。これはもう我が家にとって決定事項だ。それから、ジョディーの婿取りよりも、クレイグの婿入りのほうを先にするのでそのつもりで準備をするように」
「……かしこまりました……」
その言葉しか、クレイグに許されてはいなかった。
***
ある日リネットは、祖父からクレイグとの婚約の打診がボルトン伯爵家からあったことを聞かされた。
(……クレイグと私が婚約なんて……)
リネットは、七年前のクレイグが向けた冷たい瞳を思い出す。
クレイグとは手紙のやり取りもしていないし、ジョディーとの手紙も年に一度の挨拶くらいだ。
クレイグはきっと今もジョディーのことを想っているはずで、リネットと婚約など嫌に決まっている。
「私とクレイグが婚約ですか……?」
「ボルトン伯爵家も、アストリー伯爵家も同じ一門、それを束ねる侯爵家から提案された縁組だというから、断れないのはボルトン伯爵家もまた同じだろう。リネットは嫌なのか?」
「……嫌か嫌ではないかと問われたら、嫌ですと答えますが、結婚せよと言われたら、かしこまりましたと答えます……」
「そうか。それならば向こうに戻る用意をしなさい。まだ打診の段階だから話し合いがもたれるだろう。うちもおまえの代わりのメイドを探さなくてはならないな……」
「……かしこまりました」
リネットは自室に戻り鏡の前に立った。
七年前、三センチほどを残して髪を切り落としてしまってから、新しく生えてきた髪も赤髪の巻き毛だった。
今なら切っても同じ髪が伸びてくるのは当然だと思えるが、あの頃は全部切れば新しくまっすぐな髪が生えてくると信じていた。
伸びてからは、扱いやすいように肩より少し長いくらいまでにして、きっちり編み込んで一切の浮き毛も出ないように油でまとめている。
あの頃は前髪を眉毛に沿って短く切っていたけれど、今は前髪も伸ばして全部まとめているのだ。
眠るときは頭のてっぺんでゆるく結ぶので、寝返りも打てる。
髪をほどくのは洗うときだけだった。
心がざわざわすると、自分の髪に鋏を入れたときのあのジャキジャキという爽快な音を思い出して、また切りたくなってしまう。
実際、あれから何度か髪を自分で切ってしまった。
父も母も領地のリネットに会いに来てくれるどころか、祖父宛てにも手紙の一通も来ていないと気づいた時。
祖父はリネットを学園には通わせてくれず、足腰や記憶力が弱っている祖母のメイドのようなことをするよう命じられた時。
心に雨が降ってそれが溜まってくると、リネットは鋏に手を伸ばさずにはいられなかった。
でも、九歳のあの日のように、あんなに短くすることはない。肩より長い髪を肩にかからない程度にするだけだ。
引き出しから、少し持ち重りのする鋏を取り出す。
シャキシャキと何度か刃を交差させると、クレイグとの婚約を聞いてからの心のざわめきが少し遠くなった気がした。
クレイグとの婚約を聞いて、胸に小さな痛みを感じている。
ジョディーのことを想っているクレイグが、我がアストリー伯爵家に入り婿となるということは、ジョディーと婚姻してボルトン伯爵家の籍に入る道が断たれたということだ。
ジョディーへの恋と伯爵家に籍を置くという夢が破れた後のクレイグとの婚約に、リネットはこれから自分に幸せは来ないと、暗い未来に目を伏せた。
クレイグは、汚い老犬のような巻き毛の自分を愛することなど無いのだ。
せめて自分に無関心でいてくれたら……それだけがリネットの希望だった。
チチチ……とチッチが鳴いていたので、そちらへ歩いていく。
チッチは籠から出ても飛んで逃げないように、鋏で羽をクリッピングしていた。
リネットもチッチも、遠くへ飛べないし決められた籠の中にいることしかできなかった。
しばらくチッチの羽のクリッピングをしていないので、羽は飛べるほどに戻っている。
もうチッチの鋏も必要ないのだ。
リネットは自分の髪を切る鋏とチッチの羽を定期的に切っていた鋏を、庭に深く穴を掘って埋めた。
王都の父母のところに戻る時、チッチももちろん連れて行く。
鳥籠をくれた父は、覚えているだろうか。
懐かしい家に戻ると、父も母もどことなくよそよそしかった。
むしろ家令や執事のほうが、リネットを温かく迎えてくれた気がした。
九歳からの七年は、子供から大人への変化が大きく、会ってすぐに埋められるほどの短い時間ではなかった。
「ただいま戻りました。長らく家を空け、感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいです」
そうリネットが挨拶をすると、父母は少し驚いたような顔をした。
この家を出て七年、リネットは十六歳になっていて、父母から見れば知らない娘のようなのかもしれない。
「……ずいぶん大きくなって……。お夕食まではお部屋で休みなさい。あなたの部屋はあの頃のままです」
「お気遣いありがとうございます」
父は何も言わなかったが、リネットが手にしている鳥籠に目をやった。
リネットに何の言葉もないまま、父は執務室に足早に向かった。
久しぶりの家族の夕食は、母に問われたことにリネットが短く応えるだけの会話しかなかった。
料理の味も、覚えているものとは違っていた。
サラダにスライスオニオンがあって、リネットは料理長が代わったのだと気づいた。
坊主頭の料理長は、リネットにとても優しかった。
加熱していない玉ねぎが苦手なリネットの皿には、載せないでいてくれていたのだ。
そんなことをぼんやり考えながら食事ができるくらい、静かなテーブルだった。
クレイグとの婚約のことで何か言われるかと思ったが、二人とも何も口にしない。
リネットは何かがおかしいような気がしたが、七年も離れていた父母の何が『いつもどおり』なのかさえ思い出せなかった。
***
リネットが王都に戻った五日後に、リネットと父母はボルトン伯爵家に招かれた。
そこにはジョディーと婚約したユーインと、その父であるコートネイ侯爵もいた。
「リネット! とても久しぶりだわ、戻っていたならすぐに来てくれればよかったのに!」
そんなジョディーの言葉をボルトン伯爵が窘めた。
「ジョディー、今は控えなさい」
「……ごめんなさい、ダディ」
リネットはジョディーの謝罪の言葉に、違和感を覚えた。
父親に向けたものとはいえ、格上のコートネイ侯爵も同席している場面での言葉としては、七年前ならともかくリネットと同じ十六歳のジョディーには幼すぎるように思えた。
リネットは末席にいるクレイグをそっと見る。
七年ぶりに会うクレイグは、幼い頃の面影を残しながらも逞しくなっていた。
サラサラの金色の髪を肩まで伸ばしていて、なんだか記憶にあるクレイグが薄くなって消えてしまいそうだ。
目が合ったりしないように、慌てて視線を落とした。
「アストリー伯爵とご家族に来てもらったのは他でもない、私の妻であるアルマの息子クレイグとアストリー伯爵家のリネット嬢との婚約を結ぶのはどうかと、こちらコートネイ卿がご提案くださったのだ。クレイグは今も我が妻アルマの実家ベサント子爵家の籍のままであり、アストリー伯爵家の一人娘であるリネット嬢と婚姻となると婿入りという形になると思うが、いかがだろうか」
リネットは父や母の思惑を、その表情からは読み取れなかった。
そもそも九歳から七年も母方の祖父母のところで過ごしていたリネットは、アストリー伯爵家で婿を取れるような教育を何も受けていない。
学園にさえ通わせてもらえなかったのだ。
リネットは祖母の食事や下の世話をしていただけだった。
「まあまあ、そう急かすものでもない。リネット嬢は七年も留守にしていたのだろう? まずはクレイグくんと二人で話をしてはどうか。その間、我々は大人の話をしていようではないか」
コートネイ侯爵がそう言うと、ボルトン伯爵は侯爵に謝罪しながらクレイグに指示を出した。別の応接室にリネットとの席を用意するらしい。
この流れに戸惑いながらも、七年ぶりのクレイグと話したいこともあるような気がして、クレイグと従者についていった。
ソファに座ってから、従者がお茶を淹れてくれるのを黙ってみつめていた。
リネットはクレイグが口を開くのを、ただ待っていた。
それはあの日から続いているのかもしれない。
「リネットが、こんなに長く戻らないとは思っていなかったよ」
リネットが七年も待ち続けていたクレイグの言葉は、どこか非難めいた空気を含んでいた。
何度もクレイグに手紙を書こうと紙を前にして言葉を探したが、クレイグからの手紙を待ってからのほうがいいのではないかと思った。
でも、クレイグからの手紙が届くことはなく月日だけが過ぎていった。
クレイグだけではなく、父母に出した手紙の返事も届かなかった。
たしかに変化のない生活だが、それを書いた手紙に返事がなかったため、リネットからも書くのをやめてしまった。
そうしたことが、リネットの帰りたいという気持ちを少しずつ削っていった。
祖父母の家でメイドのようなことを続けたいとも思っていないのに、どこにリネットの居場所があるのか分からず、どこに居ても同じだった。
「……帰りたいと思えることが、特になかったので……」
そう言うと、クレイグは驚いたような傷ついたような顔をした。
「帰りたくもなかった……か……」
「そもそもこの婚約がどうなるのか、まだ分からないと思っているの。クレイグのためには、私との婚約は結ばれないほうがいいような気がするもの……」
「リネットは、俺との婚約が嬉しくないのか……やっぱり、そうだよな……」
(クレイグは婚約相手がジョディーではなく私なんかになってしまって、混乱しているのね……)
幼い日の惨めな思いとクレイグへの恋心が息を吹き返さないように、リネットはクレイグを突き放す言葉を、慎重に確実に選び出した。
「嬉しくないのかと言われても……他に想い人がいる人を夫にして、嬉しい女がいるかしら……」
狙ったとおり、クレイグは驚いたような顔をした。
「……俺が……誰を想っていると……?」
クレイグの声がかすれていた。
リネットが気づいていることなど、想定もしていなかったのだろう。
「その人の名前は言いたくないの。私はその人のことが、誰よりも大切だったから」
クレイグは何かを言おうとしながらそれを言葉にできず、慌てた表情を隠せないまま茫然としている。
クレイグはジョディーと結婚しボルトン伯爵家の婿となることが無理だと分かった以上、リネットと婚約を結ぶことが次善の策だと思っていたのだろう。
クレイグが隣の家のリネットと結婚したら、近くからジョディーを見守り、時には助けるつもりで。
ジョディーも、リネットを口実にアストリー伯爵家を訪れては、当たり前のようにクレイグを頼りにする、そんな光景をリネットは簡単に想像することができた。
子供の頃のリネットがクレイグを目で追ってしまうと、そのクレイグの熱のこもった視線が追いかけているのは、いつもジョディーだった。
そしてそんなクレイグの前で、頬を膨らませてみたり妙にはしゃいだ声を上げたり、時には突然咳き込んでみせたりと、リネットと二人でいる時にしないことをするジョディーにも気づいていた。
クレイグと結婚なんてしてしまったら、大好きなジョディーのことを羨ましく疎ましく面倒くさく思い、それらはやがて恨みになってしまう気がした。
リネットという存在を都合のいい緩衝材にしてジョディーとクレイグが今と何も変わらない安寧な日々を送るのを、リネットはただ見ていることしかできない──そんな未来につながる婚約は嫌だと思えるくらいに、この七年でリネットは成長することができた。
ジョディーとずっと友人でいたかった。
だからこそ、クレイグとの婚約だけは受け入れられないと思いを強くする。
その時、開け放たれている扉の向こうからボルトン伯爵の怒鳴り声が聞こえ、クレイグに続いてリネットも部屋を飛び出した。
***
「一人娘のリネット嬢にアストリー伯爵家を継がせないというのは、いったいどういう見解なのだ!」
「ですから、恥ずかしながらリネットと私に血の繋がりはないと先ほどから申しております。私の子ではないリネットに、アストリー伯爵家を継がせることはありません。甥を養子に迎えるつもりですから、リネットが婿を取ることはないのです。これ以上、我が家の恥を晒したくはありませんので、これで失礼させていただきます」
「……私が……お父様の、娘ではない……」
思わずそう言ってしまったリネットに、部屋の誰もが動きを止めて目を向ける。
リネットを今も苦しめている巻き毛と同じ髪を持つ父が、この世のどこかに居る……。
父母のどちらにも似ていないこの髪の理由をこんな形で知ることになった。
リネットの名前を忘れてしまった祖母から聞かされていた『妄想』は妄想ではなく真実だったのか……。
祖母は、自分がいかに可哀相な立場かという物語を、世話をするリネットに話していた。
前にいたメイドに身体を叩かれていただとか、毎日少量の毒を盛られているだとか。
リネットは母が不貞をしてできた子だという話は、可愛がって育てた娘に裏切られ、そんな娘の後始末に追われる可哀相な私という物語だった。
リネットは聞き流していたが、まさか本当だったのだ。
リネットの耳の奥に、裁ち鋏が立てるジャキジャキという音が鳴っている。
まるでリネットを父母から切り離すように、ジャキジャキと……。
その瞬間、いろいろなことが腑に落ちた。
母方の祖父母の家に送られたことも、父とは血の繋がりがなかったからなのだ。
自分と似ても似つかない赤髪の巻き毛に生まれた娘を見て、父も母もどう現実と折り合いをつけてきたのだろう。
真実をそっと塗り込めて生きるはずだった人たちは、リネットを見て絶望したのだ。
言葉がまだ拙い頃から、温度を伴った愛情を二人から感じたことがなかった。
この巻き毛で生まれた時から、父母にとってリネットは娘という名の迷惑な客人だったのだ……。
リネットは静かに長く息を吐いてから、今度は顔を上げて大きく息を吸い込んだ。
「私が父の娘ではないということとは関係なく、この婚約のお話をお断りするためにこちらに伺ったので、その方向でどうぞよろしくお願いいたします」
リネットのはっきりとした言葉に大人たちは呆気に取られたような顔を見せ、しんと空気が凍り付いた。
最初に動いたのはコートネイ侯爵だった。
「……とりあえず、そういうことであればこの話は最初からなかったものとする。ボルトン伯爵、この始末については日を改めよう」
そう言って部屋を出ていったコートネイ侯爵の後を、ボルトン伯爵だけが追って出て行った。
残された者たちは胸に渦巻く言葉があっても、誰もそれを口にはしなかった。
「……では私たちも、これで失礼いたします」
この場に爆弾を落とした父は、青ざめた顔で今にも倒れそうな母の肩を優しさのない抱き方をして、リネットをこの場に残すことなどどうでもいいように部屋を出て行った。
ユーインが、隣の席にいたジョディーの髪のひと房に口づけを落として立ち上がると、ジョディーの腰に手を回し部屋を出て行こうとした。
ジョディーはリネットを振り返ると、
「なんだか今のリネットは知らない子のように感じるわ。どうしてクレイグとの婚約を断りに来たなんて言ったの? 汚いおじいさんの犬みたいと言われたことを今も引きずっているの?」
リネットは、そのジョディーの言葉に今日一番の衝撃を受けた。
父の娘ではないと言われたことよりも──
リネットの頭の中で、あの日のことが仕掛け絵本を開いたように鮮明に立ち上がってくる。
木立の向こう、リネットに背を向けているクレイグとリネットのほうを向いているクレイグの友人。
あの言葉を立ち聞きしてしまったとき、ジョディーはそこに居なかったのに、どうして……。
これまで頭の隅に追いやっていたジョディーの小さな棘を含んだ言葉や嘲るような微笑みが、頭の真ん中に引っ張り出された。
クレイグの友人の言葉はきっかけに過ぎず、ジョディーへのいろいろな感情を断ち切るためにリネットは髪を短く切ったのかもしれない。
ユーインに守られるようにしてリネットを冷たい目で見ているジョディーのほうへ、一歩踏み出した。
「あの頃の子供だった私はクレイグのことが好きだったけれど、今の私はクレイグとの婚約なんてまったく望んでいないからこうなって良かったと思っているの。私は外国へ行って勉強を続けるわ。きっと昔の友達に手紙を書く時間はないでしょうから、今のうちに謝るわね。ジョディー、ごめんなさい」
「……リネット……」
ジョディーが怒ったような傷ついたような顔をした。
いくつも皮肉を乗せた言葉の全部を理解してくれただろうか。
でも、ジョディーが何かに傷ついても、ジョディーならいつも誰かに慰めてもらえるのだから心配はいらない。
リネットは、ジョディーを好きなのと同じ大きさでジョディーのことを嫌いだったのだと気づいてしまっていた。
ジョディーが好き、ジョディーが一番の友人、そんな言葉を蓋にして、自分の醜い本音を隠していた。
美しい髪もクレイグからの想いも誕生日パーティを開いてもらえるくらいに父親に愛されていることも、リネットが神の前に地面に伏して懇願しても手に入れられないものを全て持って、高位貴族であるユーインを婿に取るジョディー。
嫌いだと心の中で言葉にしたら、ほっとするほどしっくりきた。
たとえこの感情がジョディーへの醜い嫉妬でも、そう理解できたこの安らぎを否定したくないとリネットは思う。
(今この手に鋏があったら、ジョキジョキと髪を切れたのに──)
「……ジョディー、もう行こう」
ユーインはそう言うと、ジョディーの肩を抱いて今度こそ部屋を出て行き、ジョディーは振り返らなかった。
***
皆が部屋から出て行き、リネットとクレイグだけが残された。
静かになりすぎた空気に押されるように、クレイグがリネットに声を掛ける。
「……リネット、送っていくよ……」
「ありがとう、そう言ってもらえてとても嬉しい。でも送ってもらうのはやめておくわ。……ドアを開けてもらえるのか分からないもの。そういう時は、たぶん一人がいいの」
「リネット……」
「気遣ってくれて嬉しかったけれど、私のことよりもクレイグはボルトン伯爵のところへ急いだほうがいいと思うわ。アストリー伯爵家に婿入りできなくなったのだから、身の振り方を聞くべきではないかしら……」
クレイグは、下唇を噛んで床を睨みつけていた。
その床に、クレイグはリネットの顔を思い浮かべているのだろうか。
そんなふうに思いながら、リネットはクレイグから言葉が出るのを待っていた。
「リネットは、どうしてそんな冷静でいられる!? 父親であることを疑いもしなかったアストリー伯爵と、血の繋がりが無いと今知ったのだろう? それなのにどうして!?」
今この瞬間の身の置き所の無さは、クレイグとリネットは似ている。
だが、惨めさにおいて、クレイグよりリネットのほうが少し上回っていたかもしれない。
今も、父母にこの場から連れて帰ってももらえず、すっかり置き去りにされている。
そうしたことがリネットの頭を冷やし続けていた。
「七年も両親と離れて暮らしていたら、互いに興味がないこと……特に親が子供に興味がないことは誰でも気がつくわ。こんなシャンプー嫌いの老犬のような巻き毛、父母のどちらにも似ていないもの。本当の父が別にいると分かってスッキリした気持ちもあるの。大人たちが後始末をする時がついに来たけれど、私にどう知らせるのが最善なのかと、誰も考えてくれなかったことに少し胸が痛いけれど……自分で乗り越えなくてはと思っているの」
クレイグは顔色を失い、立ち尽くしていた。
リネットはそんなクレイグをみつめながら、自分がクレイグを救えないことに無念さを覚えた。
幼い頃から、リネットはその両手に悲しみを持たされていた。
家族の間に、幼いリネットが言語化できない違和感が常に根底にあったのだ。
小さな手に乗せられるくらいの悲しみが大きく育っても、リネットも成長していったから、両手から落とすことなくその悲しみを今日まで持ち続けていられた。
リネットは悲しみと共に大人になった。
でも、クレイグはいきなり大きな悲しみを「おまえのものだ」と投げつけられたのだ。
きっとまだ混乱の中にいる。
リネットがジョディーに言った『子供の頃はクレイグのことが好きだった』という言葉も、混乱の中でクレイグの耳を素通りしたのだ。
クレイグの実母であるボルトン伯爵夫人は、すべてを受け入れて伯爵家に残ることを選択するのだろう。
すでに実家のベサント子爵家を出た身であり、今さら十六にもなったクレイグを連れて戻れる状態ではないことはリネットにも分かる。
ボルトン伯爵が最善だと思っていた、隣家である一門の伯爵家へのクレイグの婿入りが立ち消えになって、クレイグの処遇が宙に浮いてしまった。
その身の置き所のなさを自分のことのように理解できるのに、リネットにはクレイグを救える手立てがない。
リネットがどんな言葉をクレイグにかけても、さらに傷つけるだけだ。
クレイグもリネットに救ってほしいとは、まったく思っていないだろう。
互いに親から大事にされずに育ち、それを早くに察知していたリネットには、ほんの少し何かが見えているにすぎない。
リネットはじくじくと痛む胸を押さえ、立ち尽くしたままのクレイグに礼をして、ボルトン伯爵家から静かに出て行った。
***
それからリネットの周りは急に騒がしくなった。
両親の離縁が決まり、リネットはまた祖父母のところに戻ることになったが、今度は母も一緒だった。
リネットの前で母を責めるようなことを父は何も言わなかったが、母にもリネットにも優しい言葉をかけることはなかった。
リネットの本当の父は誰なのか、母に聞けば分かるのだろうがそうするつもりもリネットにはない。
祖父母のところに母も行くのなら、赤髪の巻き毛の男のところに行かれない事情があるのだろう。
聞いてどうなるわけでもない。
不幸せの袋を突ついても、出てくるのは不幸せに決まっているのだから。
祖母の世話に明け暮れていた時、何度もリネットは祖母から心無い言葉を投げつけられた。
何の前触れもなく、いきなり祖母のリネットへの罵倒が始まるのだ。
『おまえなんかが生まれたから、みんなが不幸になった。あの子は一時の迷いだったのに、おまえなんかができたせいで、戻ることも進むこともできなくなって!』
祖母はリネットの名前も忘れていた。
花の名前も朝に食べた粥も何もかもを忘れているのに、リネットへの憎しみだけが溶け残った汚い雪のように祖母の心にへばりついていた。
祖母はそれを指で掻いてはリネットに投げつけた。
リネットはそれも祖母の妄想の世界だと思って黙って聞いていたが、真実だったのだ。
母は祖母にとって、次男を産んでから十年以上も経ってから生まれた初めての女児、可愛くて仕方がない末娘だった。
シャンとしていた頃の祖母が、我が儘な面があるものの、愛らしく美しい自慢の娘だったと言っていた。
リネットの父と婚姻の日を目前にして、母の腹の中に『赤髪で巻き毛のリネット』が宿ってしまった。
それなのに婚姻の約束を白紙に戻すことはできず、父はリネットごと母を娶った。
一門にそのことが漏れないよう、これまでリネットの真実はアストリー伯爵家と母の実家の間で秘められてきた。
それがこんな形で白日の下に晒されてから、リネットは初めて父の口から話を聞いたのだった。
明日は祖父母の家へ向かうという夜、リネットはかつて父からもらった鳥籠からチッチを出して、両手でふんわりと包むようにした。
ここ一年ほどチッチの羽をクリッピングしていなかったので、飛んでいけるだけの羽が戻っているだろう。
父から与えられたものは何も持っていかないことにしたリネットは、鳥籠も置いていく。父の優しさをここから持ち出すことに躊躇いがあった。
父がずっと見させられてきた『妻の不貞の証』であるリネットが、持ち出していい優しさなどないだろう。
チッチもリネットも籠の中で与えられた餌をついばむだけだった。
リネットに羽はないが、チッチはあの空へ飛んで行けるのだ。
その自由さが羨ましくて、リネットは泣きそうになる。
祖父母の家に母と行きたくなどないのに、この家に残る選択肢もない。
今すぐ十歳くらい歳をとりたいと何度も願ったが、叶えられるわけもなかった。
湯浴み後の広がった巻き毛を、窓から入ってくる風が揺らしていた。
こうしていると、クレイグのことを思い出す。
あんなに傷ついた顔をして、クレイグはどれだけ辛かっただろう。
もっと優しい言葉があったのではと、何度も後悔をした。
リネットにできることなど何もないと思いながら、何もできなかった自分がひどく価値のない人間に思える。
考えが出口のない回廊の中をただ巡っている中、チッチの鳴き声がリネットをここに呼び戻す。
「チッチ、長いこと閉じ込めてごめんね。羽を切っていたこともごめんなさい」
そう言ってチッチを包んでいた両手を緩めた。
チッチは羽を広げて部屋の中を右に左に飛び、リネットの巻き毛の頭に止まる。
「もう、チッチったら! そこはあなたの巣じゃないのよ」
笑いたいのに、涙が次々落ちてくる。
チッチがリネットのところにやってきた頃の、それでも幸せだった日々を思い出した。
傷ついた鳥を保護したリネットに、どんな気持ちで父は鳥籠を与えてくれたのだろう。
尋ねたとしても明確な答えが得られないものは、リネットの心の中で自分に都合のいいように置いておきたかった。
父がくれた愛情なのだと、リネットだけが思えればそれでいいのだ。
「チッチ、外へ飛んで行かないのなら、また羽を切ってしまうわよ」
リネットは指を鋏のようにして、切る真似をした。
ジャキンジャキンと口にしながら。
すると、チッチがリネットの巻き毛から飛び立って、また部屋の中をあちこち飛んでいる。
そしてあっと言う間もなく、開けていた窓からするりと出て行った。
リネットは窓枠から身を乗り出してチッチを目で追うと、すぐに暗い空に紛れて見えなくなった。
チッチは飛んでいってしまった。
その時、音もなくドアが開いてリネットの部屋に母が入ってきた。
暗い目はリネットを透かして、何か別のものを見ているようだ。
「……リネット、あなたには可哀想なことをしたわ……。ごめんなさい。本当にごめんなさい……だけどね、可哀想なのはあなただけじゃないの……」
母は手に、リネットのものではない鋏を持って近づいてくる。
虚ろな目をした母が怖くて、リネットは動けなかった。
ジャキンジャキンという音が聞こえる。
いろいろなものを断ち切る、心地よい音が。
リネットから断ち切られて落ちていったものには、母という存在も入っている。
ジャキンジャキンという音が耳のそばで長らく響いた。
こんな巻き毛に生まれてきて、ごめんなさい……。
でも、母にそう言いたいとは思わなかった。
***
早朝、まだ暗いうちに目覚めて階段を下りていくと、ダイニングルームに続くサロンに父が居た。
リネットは逡巡しながらも、父に声をかける。
「おはようございます。今日、出立いたします」
「……あの鳥はどうした」
「ゆうべ、空に放ちました」
「そうか……。その髪は自分でやったのか」
「……いえ、母が」
自分の罪を断ち切るように、母はあの時泣きながらリネットの髪を少年のように短くした。
母は、リネットという娘を切り捨てたかったのだろう。
祖父母の家に居た時、子供のようになってしまった祖母から繰り返し聞かされた母の過ち。
不貞の動かぬ証拠、いや、歩く証拠だったリネット。
リネットの赤髪の巻き毛は、母にとって罪の形をしていた。
父も母もリネットの赤髪の巻き毛を見たくなかっただろうが、それはリネットも同じだった。
この世にリネットを産み出した母が、リネットの髪を貴族の娘とは思えないくらいに切って、娘なのか誰なのか分からないようにした。
父は目を見開いてリネットを凝視した。
テーブルに視線を落とすと、
「家令に君に渡す金の当座の分を預けてあるから、君の母に黙って受け取っていきなさい。残りはゴールドエイミスに君の名義を作って入れてある。その証書も家令から受け取るように。ああ、君の母の分は別に彼女に渡すから心配はいらない」
ゴールドエイミスとは、巨大な金庫を持ちそこで金を預かってくれる元は鍛冶屋だった商会で、証書があれば金の出し入れができ、貸付も行われている。
父はそこにリネットの金を、母の分とは別にして入れてくれたという。
「……ありがとうございます。長い間、とてもお世話になりました」
「気をつけて行くように……元気で……やっていきなさい」
それが父であった人の優しい別れの言葉だった。
リネットはそれを大切に畳んで、胸の中の空っぽの鳥籠にそっとしまい込んだ。
リネットは、母と祖父母の家に行った。
母と暮らしたくなかったが、修道院に入るための寄付金は用立てないと祖父から言われ、これまでどおり祖母の世話をして暮らせばいいということだった。
リネットは、父がここまで慮ってリネットに直接金を渡してくれたのだと思った。
祖父母の家では、誰もリネットのことを大切に扱わない。
母と祖母にとっては迷惑な存在で、祖父からは対価を払わなくていいメイド扱いだ。
リネットが祖父母の家を出れば、母が祖母の面倒を見ることになりそうだ。
そのことについて、リネットはひとかけらの罪悪感もなかった。
祖母は母のことを忘れてしまっていた。
長い間会っていなかったせいか、祖母の中の可愛い娘と今の母の姿が祖母の中で一つにならなかったのだろう。
祖父母の家に行く前にアストリー伯爵家を出た日、家令がそっと渡してくれた金は可愛らしい鳥の刺繍が施された袋に入っていた。
リネット付きの侍女が作ってくれたという。
硬貨は音を立てないように布で少しずつ包まれており、リネットはありがたく首からぶら下げたのだった。
それをまた首から下げることになった。
少年のような髪のリネットは、用意していた少年の服を着て祖父母の家を出た。
リネットのような少女が一人寄り合い馬車で居眠りをしようものなら、目覚めたらとんでもないことになるかもしれなかった。
母から髪を無残に切られたことで、リネットは赤髪の少年になれた。
キャスケットを被ったリネットは、どこにでもいる痩せた少年だった。
祖父母の家を出たリネットは馬車を乗り継いで北のアトウッド領へ向かい、途中で宿屋に何度か泊まりながら、この国で一番大きな塔が建つ丘に辿り着いた。
かつてジョディーが話していた『塔の近くにいる鳥たちが、鐘の音で一斉に飛び立つ』というその塔だ。
その時クレイグは、『大きな鐘の音がすると知っているのに、どうして鳥はまた集まってくるのだろう。自分もその鳥たちを見てみたい』と不思議そうに言った。
言われてみれば、鐘の音に追い立てられるように飛び立ったのに、何故また戻ってくるのか──
一羽だけではなく、多くの鳥たちが揃ってそうするのはどういうわけだだろう。
リネットもその鐘の音を聞いてみたかった。
一斉に飛んで行き、また戻ってくる鳥たちを見てみたい──
クレイグの疑問だった『また鐘が鳴って追い立てられると知っているのに、どうして戻ってくるのか』
そのことを一人考えて生きていきたい、それがリネットの希望だった。
丘から塔を見上げると、そこにはたくさんの鳥が止まっていた。
周囲の木々にも鳥の姿がある。
風はなく、木々は揺れもしていない。
リネットは、その絵画のような風景をじっとみつめていた。
どれくらいそうしていたか、しばらくすると塔の鐘が鳴った。
同時に絵のようだった鳥たちが一斉に羽ばたいた。
夕陽の空の中を、鳥たちが無秩序に自由に飛び交っている。
鐘の音の余韻が消える頃、一羽、また一羽と鳥が戻って来る。
(ねえクレイグ、本当に鳥は戻って来たわ……。追い立てられたのに、どうして戻って来たのかしらね……)
リネットは空がオレンジ色から藍色に塗り替えられるまで、また絵画の中に戻った鳥たちを見ていた。
そして丘を下りて、リネットはその先にある教会に向かった。
***
教会に身を置くことを許されてから二年近くになり、いろいろな雑用をこなしているうちリネットの髪は伸びていった。
リネットは髪を以前のようにぎゅうぎゅうとまとめることはやめた。
誰も見たくなかった赤髪の巻き毛を、ここでは嫌う人も嘲る人もいない。
リネットはもう、髪を切りたいという気持ちに駆られることはなくなっていた。
洗濯物を取り込んで畳み、シスターたちの服や子供たちの服、それからタオルやテーブルクロスなどに分けて片づけ終えると、リネットはいつもの丘の上へ走った。
もうすぐ日暮れの鐘が鳴る。
一日の仕事終わりのこの時間に、リネットはこの丘に来ることを日課にしていた。
リネットの仕事はまだ続くが、多くの農夫や職人の仕事は日暮れまでだ。
鳥たちのシルエットが夕日の中でたくさん黒く見える。
そして胸を衝くような鐘の音が鳴り、鳥たちが一斉に夕日へ飛び込むように羽ばたいていった。
たくさんの鳥が一斉に飛び立つ音とそこに響く鐘の音が、今のリネットには一番好きな音になっていた。
髪を耳元で切る、ジョキジョキという音よりも。
リネットの髪は今、幼い日にクレイグが言ってくれた夕焼け雲のようだろうか。
この巻き毛を夕日が染め上げてくれるこの時間が、リネットにとって何より好きなひと時だった。
しばらくすると、飛び立っていった鳥たちが、ぽつぽつと戻り始めた。
(どうして鐘の音に追い立てられたのに、また戻ってきたの? また鳴るかもしれないのに、どうしてそれでも戻って来るの?)
もっと静かな場所があるかもしれず、鳥ならばどこへでも飛んで行けるはずなのに。
あれから二年になるのに、リネットはまだ答えが分からないままだった。
自分も戻るのだろうか。
祖父や祖母や、そして母のいるところへ……。
また傷つけられると、分かっているのに?
鳥たちは塔や近くの木にとまると、夕日の中で絵のように動かない。
どんどん鳥が戻って来て、木も塔の屋根も鳥でいっぱいになる。
それを見ながら、リネットは両手を高く頭の上で組んで背筋を伸ばした。
スープを作らなくてはならないことを思い出して、来た道を戻ろうとしたら、懐かしい声で名を呼ばれた。
「……リネット? まさか……リネットなのか?」
クレイグがそこに立っていた。
サラサラで肩まであったクレイグの金色の髪が、九歳だったリネットが初めて自分で切ってしまった時と同じくらい短くなっていた。
前髪に見え隠れしていた青い瞳が剥き出しになって、リネットをみつめている。
そんなきれいな青を見たくなかった。
「クレイグ……」
リネットは走ってクレイグの横を通り過ぎ、丘を駆け下りていった。
するとリネットの足音に驚いたのか再び塔に集まっていた鳥たちが、一斉に飛んでいった。
「待って、リネット!」
リネットはすぐにクレイグに追いつかれて、腕を掴まれた。
「もう間違えたくなくて、手紙を書いて君のおじい様のところへ送ったんだ。でも……。手紙はリネットに届いていた?」
「……あれから、わりとすぐに祖父母の家を出てしまったの。だから手紙は受け取っていないわ、ごめんなさい……」
リネットは、クレイグが自分に手紙を書いてくれたことに驚いた。
伝えたいことを書こうとして、いざペンを持っても言葉が紙になかなか降りていかないことを、リネットはよく知っている。
それを乗り越えてクレイグが書いてくれた手紙を、受け取れずにいたことに申し訳ない思いでいっぱいになった。
「……ずっと謝りたかったんだ、あの子供だった日のことを。リネットに謝りたかったのに俺はいつだって勇気がなかった。酷い言葉を聞かせてごめん。卑怯で自分だけが楽になるための謝罪でしかないけれど、どうしても謝りたかった。それを手紙に書いたのだけど、こうしてリネットに直接言うことができて良かった」
リネットはクレイグの謝罪を静かに聞いた。
自分だけが傷ついたわけではなくて、クレイグもまた傷ついていたことを分かっていた。
「最初から、許すとか許さないとかそういうふうに思っていなかった。クレイグにもご友人にも、何のわだかまりも持っていないの。でも、クレイグの謝罪は受け取るわ」
クレイグはあの時の酷い言葉が、リネットの中で本人も気づかないうちに取り込まれてしまい、身体の一部になってしまったのではないかと申し訳ない思いに押しつぶされそうになる。
でもさらなる謝罪の言葉を口にするのは、その何かをナイフで傷つけて取り出そうとするようなものだから、言えるはずもない。
新たな傷を負うのは、いつでも傷つけた者であるべきなのだ。
クレイグは、リネットをこれ以上傷つけないように口を開く。
「……そう言ってもらえて、救われた気持ちになったよ。リネット、本当にありがとう」
クレイグの救われたという嘘に、リネットはふわりと微笑んだ。
その微笑みは、夕陽の温かさに似ている。
だが夕陽のぬくもりは、冷たい藍色に追いやられるようにすぐに稜線に消えてしまうものだ。
クレイグは、リネットの夕焼雲のような巻き毛が消えずにそこにいてくれることに、泣きたいような気持ちと静かに戦っていた。
***
「もうそろそろ陽が落ちるけれど、今日はどこかに宿を取っているの?」
「いや、適当に探すつもりだった」
「このあたりで貴族が泊まれるような宿は、もう門を閉めてしまう時間よ。教会の子供たちと同じ部屋の、狭いベッドでいいなら来る? 私、これからスープを作るために戻るところなの」
教会で暮らす児童たちの部屋は男女に分かれていて、兄妹であっても特別な事情が無い限り別々に眠ることになっている。
男児は社会に出て行くのが早く、またリネットのように教会が庇護する子どもは女児のほうが多いこともあって、男児の部屋にはいつも少し空きがあった。
一晩だけならクレイグを受け入れることはできるだろう。
「……すまないが世話になりたい」
「わかったわ。シスターに聞いてみるから」
「無理なら、礼拝堂の長椅子を借りられるか聞いてほしい」
「神様の前で横になろうなんて、勇気があるのね」
しばらくクレイグと黙って並んで歩き、教会近くのベンチで待ってもらう。
訪ねてきた同じ年の幼馴染を、男子室のベッドに一晩置いてもらえるかとリネットはシスターに尋ねた。
「十八歳という大人になる年を目前に控えた子供が一番、人生の分かれ道に迷うものです。迷える子供のためにいつもベッドは空いていますよ」
シスターの言葉を伝えると、クレイグは鼻の頭にぎゅっと皺を寄せた。
泣くのをこらえている時のクレイグの癖を覚えていた自分に少し驚きながら、リネットはクレイグを教会の中に案内する。
「この壁際のベッドを使っていいそうよ。自分に与えられているベッド以外の荷物に決して触れてはいけないと、どんな幼い子供でも理解しているから安心して置いておいて大丈夫。ここでは小さなベッドの上だけが一人ずつの聖域なの。もちろんクレイグもそうしてね」
「ああ、分かった」
クレイグはゆっくりと部屋に並んだベッドを見回した。
そこにあるのは、クレイグが横になったら足が出てしまうくらいに小さなベッドだ。
古いぬいぐるみやタオルケット、女性物のくたびれた毛糸の帽子が置かれたベッドもある。
クレイグはしばらく黙ってそれらをみつめると、ベッドの掛け物をめくって自分の布袋をパンパンとたたいて置いた。
「私はシスターと夕食の準備をするから、クレイグは外から戻ってくる男の子たちの手足を拭いてもらえる? 女の子はシスターが拭くから」
リネットはそれだけ言うと、炊事場でスープを作り始めた。
野菜スープと大きめのパン、今夜は茹でた卵を半分ずつとチーズの切れ端が皿に載っている夕食だ。
シスターたちや子供たちにクレイグを紹介して、一緒に食事をした。
パンを四つに切って入れてあるカゴから大きい子たちがお替わりを取ると、ここで一番大きい十歳の男の子がクレイグにパンのカゴを勧めた。
「お替わりは一人一つまでですが、クレイグさんはもうすぐ大人だから二つどうぞ」
嬉しそうに笑ったクレイグは、
「ありがとう。でも俺はこれ以上大きくならないので大丈夫。これから大きくなる君たちが食べたほうがいいな」
そう言いながらクレイグがシスターを見ると、シスターが優しくうなずく。
カゴを差し出した子が恥ずかしそうに二つ取って自分の皿に載せ、それらをさらに二つに割って大きい子順に皿に載せていくとみんな笑顔になった。
リネットには部屋の灯りがひときわ温かく感じられた。
片づけまで終えると、リネットは子供たちに囲まれていたクレイグを談話室に案内した。
ここは小さなテーブルを挟んで椅子が二つあるだけの狭い部屋で、入口に扉がない。
リネットが初めてここを訪れた日も、この部屋でシスターに話を聞いてもらったのだ。
「それでクレイグは、どうしてここに辿り着いたの? 私、祖父や母にこの教会のことは何も言ってなかったのだけれど……ううん、そんなことよりも、クレイグのこれまでのことを聞いてもいい?」
そう言うとクレイグは、テーブルの上で組んだ手を何度か組み替え、それからゆっくりと話し始めた。
***
「リネットが領地に発ってしばらくは、俺も忙しかったんだ。ボルトン伯爵は、俺の新たな婿入り先を探さなかった。伯爵は俺にそれなりの金を寄こし──まあ、手切れ金だ──母の実家である子爵家に送り返した。その時点で王都の学園は中途退学になった。母の兄である伯父上が俺を迎え入れてくれ、寄宿舎のある学園へ編入させてくれた。母はボルトン伯爵夫人のままでいることを望み、伯父上は行き場を失った俺を養子にと言ってくれたが、それはありがたく遠慮した」
「……もうじき卒業になると思うけど、その後はどうする予定なの?」
「ボルトン伯爵家の婿となるために受けていた知識を生かして、母方の祖母の出身地で働こうと考えている。ベサント子爵家に嫁いだ祖母の生家が治める領地が──ここアトウッドなんだ……」
「えっ……」
それは思いもよらないことだった。
リネットが母のいる祖父母の家を出たのは、このアトウッド領にある一番高い塔と大きな鐘の話を……ジョディーとクレイグがよく話しているのを聞いて興味を持っていたからだった。
それは、学園に通えず同世代との交流がほとんどなかったリネットにとって、数少ない心が動かされた記憶だった。
あの頃のリネットは、隣家のジョディーとクレイグとしか親しくしておらず、祖父の家でもメイドのように祖母の世話に明け暮れ、外部との交流はほとんどなかった。
「祖母の家に向かう途中、幼い頃に母が話していた『高い塔の鐘の音で一斉に飛び立つ鳥の話』を思い出し、少しだけ遠回りになるが、寄ってみたんだ。まさか……リネットに会うという奇跡が起こるなんて、まったく予想もしていなかった」
「奇跡……。それは素敵な表現だわ」
「ずっとリネットに謝りたかったから、俺にとっては素敵な奇跡だよ」
「そうね、私にとっても本当に素敵な奇跡よ。あれからジョディーはどうしているのかしら」
クレイグは言葉に詰まってしまった。
クレイグとリネットの婚約騒動から一年後に、ジョディーはユーインと結婚した。
ボルトン伯爵は一人娘のジョディーが母を亡くしてから、クレイグの母と再婚しても、ジョディーを甘やかすだけだった。
母から伯父経由でクレイグに届いた手紙には、最初こそジョディーとユーインはうまくいっていたものの、伯爵家の仕事を覚えるどころかジョディーは『ボルトン伯爵家の娘』のままで、ユーインだけがボルトン伯爵のもとで忙しく仕事をしていることなどが書かれていた。
ユーインがジョディーに仕事の一部をさせようとしても、体調が悪いと言い張って何もせず、クレイグの母がやんわりと窘めれば『意地悪ばかり言われる』と伯爵に泣きついた。
ユーインは侯爵家の三男でその頃嫡男が継ごうとしていた侯爵家に戻ることはできず、ひっそりと外で愛人を作り、仕事だけはそれなりにやっているそうだった。
入り婿の立場で愛人を持てたのは、一門をまとめるコートネイ侯爵家の力もあったのだろう。
ユーインは本来ジョディーがやるべき仕事をクレイグの母に押しつけて、ボルトン伯爵とジョディーの目を盗んで愛人と逢瀬を続けていて困っている、母からクレイグの元にそのような愚痴を綴った手紙が届いていたのだ。
そんなことを、ジョディーを大切な友人だと言っていたリネットに伝えていいと、クレイグには思えなかった。
「……姉上は相変わらずの、ようだ」
「そう。変わらず元気でいるのね、それならよかったわ」
リネットはほっとしたような、優しい表情でそう言った。
クレイグは、いたたまれなくなって俯いた。
***
ジョディーはリネットが祖父の領地にいた七年間、リネットのことをあまり話題に出さなかった。
それはリネットと手紙のやりとりをしているからだと思っていたが、リネットは手紙のやりとりは最初だけで、あとはリネットから手紙を書いても、ジョディーからは新年の短い挨拶の手紙しか届かなくなったと言っていた。
クレイグがジョディーの本当の姿に気づいたのは、リネットがいなくなってからだった。
婚約の件で集められた時の『汚いおじいさんの犬みたいと言われたことを、今も引きずっているの?』というジョディーの言葉が、それまでどこかおかしいと感じていたジョディーを疑う直接的なきっかけとなった。
ボルトン伯爵家から出て行く前に、あの発言をした友人にクレイグは確かめた。
リネットの巻き毛を『汚れてモジャモジャの年老いた犬そっくり』と言った出所は、やはりジョディーだった。
友人は数多くの言い訳と一緒にジョディーの悪口を並べたてた。
『君の姉はリネット嬢を馬鹿にしていた』
『汚い毛のおじいさんの犬にそっくりよね? あなたがそう言いたそうだったから代わりに言ってあげたわなんて言ったんだ』
当時のクレイグだったら、信じなかったかもしれない。
でも、七年経ってリネットという存在がクレイグとジョディーの間に入らなくなった日々を過ごしたクレイグには、ジョディーなら言いそうだと思えた。
ジョディーはリネットを影のようにして、自分を明るく美しく見せていたのだ。
初めてリネットをジョディーが紹介してくれた時、可愛い子だねとジョディーに言った。
濃い碧色の丸い瞳が小鳥のようで、リネットはとても可愛らしかった。
明るく振る舞いながら、心をどこかに置いてきたような目をすることがよくあった。
リネットのそのアンバランスさに、クレイグは惹かれていたのかもしれないと思った。
ただ、クレイグがリネットを褒めたことが、ジョディーにとって面白くなかったと思うとしっくりくる。
ジョディーの従姉妹のピアノの腕を褒めた時も、ジョディーは不機嫌になったのだから。
通りそうもない我がままを言ったり泣きわめいたりすることはないが、ジョディーは常に自分の周囲の人間にとって『一番』の存在になりたがっていた。
ジョディー自身は誰のことも大事に思っていないのに、自分は大事にされるのが当然と思い、そのために他の者を貶めて傷つけてもジョディーは平気だった。
単に動物が好きではないというだけで、犬や猫を飼っている人の前では大袈裟に咳き込んでみせる。
弱者を装って相手に心の負担をかけ、謝らせる形で自分の好きではないものを遠ざけるのだ。
クレイグもすっかり騙されていた。
ジョディーは人の心の機微に敏く、クレイグがリネットへ好意を向ければその分だけリネットにささやかな仕返しがあった。
昔の茶会でリネットが大好きなブルーベリーのタルトを半分あげたら、それ以降二度とブルーベリータルトが茶会に出されることはなくなった。
夕食後のプチ菓子として出されるだけになって、そのたびにジョディーは『リネットがいたら喜んだのに』と言った。
ジョディーのリネットへの嫌がらせは実に小さく細かく、誰も気づかないようなものだった。
クレイグだって後になって、あれはもしかしたらと、やっと思うに至ったくらいだ。
そういうことに気づいても、リネットに何をどう謝ればいいのかまるで分からず、クレイグは螺旋階段をひたすら降りているような日々を過ごしていた。
「クレイグ? どうかした?」
「……いや、リネットはこれからずっと、ここに居るつもりなのかと思って」
「私ももうすぐ十八歳だから、教会を出て行くことになるわ。成人したらどこかの商会で働こうと思っているの。この土地で二年くらい過ごすうち、こんな私にも声を掛けてくれる人がいるのよ。この街がとても好きになったの。ここを出ても、この街のどこかで働きたいわ」
「声を……。それって、婚約とか……そういう……?」
「そんなのではないわ。自分の商会で働かないかと声を掛けてくれたのは、祖父くらいの年の人よ」
「……そうか、なるほど……。なんか焦った……」
クレイグは目を見開いたかと思えば瞬きを何度もする、そんな様子を見たリネットの胸の音が速くなった。
「それだとまるで、私が誰かと婚約してしまうと焦ったみたいだわ」
リネットはこの空気を変えようと、平民のように口に手も当てずに笑ってみせた。
クレイグも自分の勘違いを笑い飛ばすかと思ったのに、クレイグは手で自分の口元を隠して目を逸らした。
「……ごめん、ここでリネットに会うなんて予想もしていなかったから、いろいろ調子が狂っている。不愉快な思いをさせたなら申し訳ない」
「……不愉快なんて、そんなことはないわ……」
クレイグだけではなく、リネットの心臓も誤作動を起こしている。
今の逞しくなったクレイグに慣れないだけではなく、二年前のクレイグでさえリネットが知っているクレイグとは違っていたのだ。
初恋は氷漬けにしたはずなのに、少しずつ溶け出してリネットこそが焦っていた。
「……それで、まあどうでもいい話だと思うけど、明日アトウッド子爵家の館に行こうと思ってる。祖母の実家にあたるアトウッド家の養子になることが決まったんだ。手続きと挨拶を済ませたら学園の寄宿舎に戻り、卒業と同時にまたここアトウッドに来ることになる」
そうしたらまた君に会えるだろうか──それをクレイグは口にすることができなかった。
幼い日にリネットを傷つけたクレイグには、そんなことを言える資格もない気がした。
リネットは幼い日のままのようでありながら、見知らぬ女の子のようでもあった。
あの頃と変わらない丸い瞳とふわふわの巻き毛のまま、クレイグの知らない時間がリネットを大人っぽく変えて、それがクレイグを揺さぶっている。
ずっと謝りたいとそればかり思っていたのは、その先を失いたくなかったからだとクレイグは気づいてしまっていた。
リネットに二度と会わないつもりなら、ただ忘れればいい話だ。
たとえリネットの中のクレイグが、イヤな人間のままでいようとも。
どうにかして謝りたかったのは、クレイグの中であの日に止まったままの時計の針を動かしたかったからだ。
針を動かさなければ、何も始まらない。
でもそれを、リネットが望んでいるかは分からない。
むしろ望んでいないと思ったほうがいい……。
「朝は早いの?」
「……うん。夜が明けたら出発する。朝早いし見送りは要らないから、ゆっくりいつもの時間まで眠ってよ」
別に急いで行く必要もなかったが、朝が来てまたリネットと食事をしたり話をしたりすれば、リネットの存在がクレイグの中でさらに大きくなってしまう気がした。
「そうね、私の特技は朝寝坊だから今のうちに言うわ。クレイグ、気をつけてね。奇跡の出会いに感謝しているわ」
「うん。ありがとう。謝罪も受け取ってくれてありがとう。リネットも……元気で」
クレイグは先に談話室を出て行った。
***
それから談話室を出て、リネットは何もする気持ちにならず女子室の自分のベッドに服のまま横になる。
あの塔の下でクレイグと思わぬ再会をしてから、妙に足元がふわふわしていて現実味がなかった。
クレイグはサラサラで長かった髪を、昔のリネットのようにバッサリ短くしていた。
あの頃、ジョディー越しにチラと見るのが精一杯だったクレイグの春の空のような青い瞳に、ついさっきまでみつめられていたのだ。
速すぎる鼓動は、そのまま暴走して壊れてしまうのではないかと思うほどだった。
クレイグはここの子供たちにも優しくて、涙が出そうになって困った。
(私はまだ、クレイグのことを思い出にできていなかったのね……)
リネットはそのまま朝まで一睡もできなかった。
クレイグはボルトン伯爵家の婿養子になるために、幼い日々のほとんどを学ぶことに費やしていた。
その夢が潰えても、学んだものはクレイグの中に残っているだろう。
学園に通ったこともなく、九歳からはずっと祖母の世話だけに明け暮れた空っぽのリネットとは違う。
これからクレイグは大人たちから踏みにじられたものを取り戻し、しっかり前を向いて生きていくのだ。
当たり前だけれど、クレイグはリネットに何の約束もしなかった。
クレイグが向いている方向に、リネットがいないことが悲しかった。
悲しく思う立場にないのに、未だ捨てきれない想いをどうしたらいいのか途方に暮れる。
リネットは身体を清めることも、着替えることさえできずにただ小さなベッドに横たわって天井をみつめていた。
高い窓から見える空が、少し明るくなり始めている。
リネットは起き上がって、そっと男子部屋を覗いた。
クレイグが居るはずのベッドは掛け物がきれいに畳まれて、クレイグも荷物も消えていた。
リネットはあの塔のある丘の上へ走った。
丘からは、どの方向への道もよく見える。
いつもの行き方ではなく、建物がひしめき合って建っている路地裏を、まるで猫のように駆け抜けていく。
明るい時間とは違って街は知らない顔をしていて少し怖かったが、リネットは全力で走った。
丘の上の塔の周りには、たくさんの鳥たちのシルエットが暗い絵のようにそこにあった。
丘から見下ろすと、バッグを肩に掛けて西への道を歩いていくクレイグの後ろ姿が見えた。
リネットは静けさに包まれていた。
何の音も聞こえない。
リネットの髪を揺らしている風の音もなく、塔の周りの木や建物に止まっている鳥たちも飛び立たない。
無音の中、クレイグの姿が小さくなっていく。
「クレイグは音もなく……飛び立っていったのね……」
今度こそ、リネットの人生と交差することはない。
リネットは、ぺたんとその場に崩れるようにしゃがみこんだ。
涙が次から次と落ちて、リネットは肩を揺らす。
クレイグとの奇跡のような出会いは、リネットの思い出の小箱を壊しただけだった。
悲しみばかりでもなく、そこには温かい記憶も入っていた。
いつからか、リネットは自分にだけ都合のいい夢を見るようになっていた。
目覚めると寂しさだけが残る夢を。
その偽りの温かさに慰められて生きてきた。
リネットが悲しい時や寂しい時、誰かの手がリネットを撫でてくれることはなかった。
誰かの言葉が支えてくれることもなかった。
都合のいい夢だけが、リネットに寄り添っていたのだ。
でも、奇跡は現実を連れてきた。
クレイグはいつだってリネットのところに戻ってこなかったのだから、今日もこのままクレイグの背中がどんどん小さくなって消えていくのだ。
空が少しずつ明るくなっても、涙は止まらなかった。
しばらくすると、急に鳥たちが一斉に飛び立った。
リネットはその音に驚いて、顔を上げる。
鳥たちを追い立てた低い足音が聞こえた。
「リネット!」
「……クレイグ……」
「リネット、待っていてくれないか。仕事を始めて信頼と安定を得たら、迎えに来たいんだ、リネット……リネット、どうして泣いて……?」
クレイグがリネットの肩におそるおそる触れた。
「リネット、大丈夫?」
「……分から、ないの。私、自分の心が……分からない……。クレイグのことも……何も分からない。私が待っていて、いいのかも……全部分からないの……」
「待っていてほしいというのは、俺の希望なんだ。リネットの負担にはなりたくないけど、あれからずっとリネットのことばかり考えていた。いなくなってしまったのに、会えなくなったリネットのことをずっと考えていた。こんなふうに思いがけない形で再会できたことは、何かに導かれたように思えたんだ」
クレイグはリネットを支え、ゆっくりと立たせた。
塔より高いところで鳥たちが飛び交い、一羽、また一羽と木や塔の屋根に止まっていく。
「鳥たちが……戻ってきたわ」
「俺がリネットのところに戻ってくることを……待っていてくれないか。君と一緒に、生きていきたいんだ」
リネットは夢の中のように、クレイグの言葉を聞いていた。
初恋を忘れようとしても、たびたび夢に出てきたクレイグ。
それも自分だけに都合のいい夢だった。
塔の大きな鐘の音が、リネットの頭の中だけで鳴り響く。
リネットの心は驚いて飛び立ってしまうけれど、すぐに戻って来た。
目の前のクレイグは、夢の中のようにおぼろげではない。
青い瞳がしっかりとリネットを捉えている。
夢ではいつも、クレイグの言葉にリネットが答える場面がなかった。
答える前にいつも目覚めてしまっていた。
だからこの続きは、リネットにとって初めてのことだった。
クレイグと、一緒に生きていく……。
リネットもクレイグも、これまでたくさん間違ってきたのかもしれない。
言葉にして確かめることを恐れて。
二人がそれぞれ見ていたこと、真実だと思っていたことの答え合わせはできるだろうか。
誰かの都合で婚約させられるのではなく、一緒に生きていきたいからクレイグを待ちたい。
リネットはその思いを見つけて、そっと掴まった。
鳥が枝を掴むように、音もなく。
「……私もこの街のどこかで、きちんと仕事を見つけて頑張って一人で生活していく。そしてクレイグのことを、待っているわ。でもそれを一番にして生きていくことはしたくないの。すごく待ちわびながら、朝も夜もずっと待ちながら、でもそれを忘れるくらいに軽やかに生活していたいわ。それでもいい?」
クレイグの頬がパッと上気する。
見慣れない夢の続きにリネットは戸惑った。
「リネット……ありがとう。きっと迎えに来るから」
「……うん。でも無理はしないで」
「いや、無理はするよ。早く迎えに来たいから。全部俺の都合だけど……」
クレイグはリネットをそっと抱きしめ、リネットはぎゅっと目を瞑った。
あの日開け放した窓から、夜空に消えていったチッチ。
塔にとまっている鳥の中に、チッチがいてくれたらと黒いシルエットをみつめていた。
父だった人がくれた金色の鳥籠から、ついにリネットも本当に飛び立っていく。
空はあんなにも広く高く、リネットは先に行ったチッチを探して飛び続ける。
リネットはそうして飛びながら、クレイグを待つのだ。
これは見たことがなかった夢の続き。
目を開けたら、夢から覚めたところだったなんてことがないように、リネットは恐る恐るクレイグの背中に腕を回す。
するとクレイグが、リネットが夢でさえ望むことができなかった言葉をささやいた。
戻ってきた鳥たちが飛び立つ気配はなく、一つになった二人をそっと見守っているようだった。
おわり




