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雑居ビルの四階に、その専門学校はあった。
ガラス扉の向こうに、赤と黒の派手なロゴが貼られている。「日本eスポーツクリエイティブ専門学院」。
圭太は、その扉の前に立ったまま、少しだけ足がすくんでいた。
高校を卒業して、プロゲーマーを目指すと決めた。家族は呆れた顔をしていたが、オープンキャンパスの時に見せられたカリスマ講師の「年収三千万プロゲーマー養成カリキュラム」という言葉に、未来の自分が重なって見えたのだ。
扉を開くと、冷たい蛍光灯の光と、強いエアコンの風が吹き付けてくる。
ロビーには同じ年代の若者が数人、無言でスマホをいじっていた。みな、どこか目が死んでいた。
受付にいた女性は無表情で名簿を指さし、圭太は自分の名前を書いて教室へ案内された。
教室は、パーティションで区切られた狭い空間に、薄汚れたゲーミングチェアが並べられていた。
PCは一見立派に見えたが、電源を入れると起動が遅く、どれもキーボードのキーが数個外れている。ヘッドセットもベタついていた。
「はい、集まって!」
教室の奥から現れたのは、鬼塚講師だった。坊主頭にジャージ姿で、体格はいいが腹が突き出ている。開口一番、彼は怒鳴った。
「お前ら! プロの世界は厳しいぞ! 甘ったれるな!」
圭太は反射的に背筋を伸ばした。
「まずは一人ずつ、自分のメインキャラと最高ランクを言え!」
圭太は順番が来るまで周囲を見渡した。皆、やる気のない声で「ゴールドです…」「シルバー…」と答えていく。
鬼塚は「そんなレベルで金払うなよなぁ! バカじゃねぇの?」と吐き捨てるように言い、爆笑した。
笑うのは鬼塚だけだった。
圭太の番になった。
「プラチナです……オーバーウォッチのDPSで……」
それを聞いた鬼塚は鼻で笑った。
「プラチナ? ゴミだな! 俺なんてグランドマスターだったんだぞ、なぁ!?」
拍手しろとばかりに両手を広げるが、誰も反応しない。
すると鬼塚は睨みつけ、椅子を蹴った。
「おい、笑えよ! お前ら、ゲームの才能も根性もねえんだよ!」
空気はどんよりと重く、誰も目を合わせようとしなかった。
次の日から授業が始まった。
一限目は「理論講義」と称して、校長が現れた。スーツ姿の痩せた男で、口角だけが笑っている。
「eスポーツは、己のマインドセットが全てだ。大切なのはメンタルマネジメントだ」
ひたすら自己啓発じみた話を二時間。ホワイトボードには「精神力」とだけ書かれたまま、時間が過ぎていった。
午後になると「実技指導」が始まった。
野口講師という小太りの男がPCに座り、ヘッドセットをかけて言った。
「じゃあ今日は……僕とチーム組んでランク行こうか」
彼のプレイは惨憺たるものだった。壁に向かって走り続け、敵の集団に突っ込み、即座にキルされる。
負けが続くと、野口は舌打ちして責任を生徒になすりつけた。
「お前のフォーカスが悪いんだよ。分かるか? ついてこいって言ったろ?」
誰も反論しなかった。反論すると、鬼塚が飛んできて、胸ぐらを掴んで怒鳴るのがわかっているからだ。
一週間が過ぎる頃には、圭太の中の何かが壊れかけていた。
授業はほとんど役に立たず、講師は無能か暴力的かのどちらかだった。
先輩たちは、無言でロビーのソファに座り、窓の外を眺めている。
同期も一人、また一人と消えていく。辞める理由を聞いても、皆ぼそりと「わからない……」とだけ言った。
学校の掲示板には、退学者の名前が赤いマジックで塗りつぶされていた。
入学金と授業料は返金されない。ローンだけが残る。
夜になると圭太は、ベッドの上で天井を見つめながら、頭の中でゲームの起動画面を思い浮かべた。
「リスポーンしますか?」
もちろん、選択肢は出ない。
ある雨の日、教室に来ると、席が半分以上空いていた。
鬼塚はそれでも怒鳴り続け、野口はモニターの前で汗だくになり、校長は廊下の端で電話をしながら笑っていた。
圭太は、その日の帰り道で足を止めた。
街の片隅にある、小さなゲームショップの前だった。ショーウィンドウには最新のパッケージと、バイト募集の貼り紙があった。
「未経験歓迎 ゲームが好きな方」
店の中では、年配の店長が棚を整理していた。
圭太は、ガラスの向こうで自分の顔がぼやけて映るのを見ながら、ドアに手をかけた。
カラン、と鈴が鳴る。
店長は振り返り、軽く頭を下げた。
「いらっしゃい」
圭太は深呼吸して、言った。
「ここで、働かせてもらえませんか」
店長は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「ああ、いいよ。ゲームが好きなら、大歓迎だ」
圭太は、店の奥の棚に並んだゲームソフトの背表紙を見つめた。そこに、リスポーンの光が、ほんの少しだけ差しているように見えた。
ビルの四階の教室は、今日もどこかで鬼塚が怒鳴り、野口が無様に負け、校長が笑っているだろう。
だが、もう圭太はそこにはいない。
彼は、カウンターの中でエプロンを締め直し、小さなゲームショップの空気の中に、ほんのわずかな未来の匂いを感じていた。