(65)花畑の絆と青春の記憶
このエピソードは、『番外編●白銀の猫耳と花畑の王女様』をお読みいただくと、より深くお楽しみいただけます。
陽光が村を包み込む心地よい日だった。
「師匠、こっちだよー!」
リリアの明るい声に導かれて、俺は村の外れにある花畑へと足を向けた。今朝、奇妙な夢から目覚めると、リリアがすでに部屋にいて、俺を外に誘ってきたのだ。
「ボク、この花畑が大好きなんだ」
リリアは弾むような足取りで花々の間を歩き回る。色とりどりの花が風に揺れ、その姿は魔法少女である彼女と不思議と調和していた。彼女は純潔を失い、魔法姫としての力はないものの、その明るさは健在だ。
それにしても、妙な夢だった。クラリーチェが明日香に化けて襲ってくるなんて……。それほどまでに、クラリーチェとの戦いが衝撃的だったのだろうか。この世界へ来て初めての強い相手との対戦だった。
「師匠」リリアが俺の方に振り返った。「ものすごくうなされてたね。ボク、何度も腕を掴んで呼びかけたんだけど、なかなか起きなくてさ」
俺は思わず自分の腕を見た。確かに、夢の中で明日香に腕を掴まれていた。いや、クラリーチェの幻影に掴まれていたのか。あの感触がこんなにリアルだった理由が分かった気がする。
「それでね、師匠ってば『明日香』って呼んでたんだよ。誰? 師匠の元カノ?」リリアは茶目っ気たっぷりに俺をからかった。
「違うよ」俺は思わず苦笑した。「ただの……知り合いさ」
元カノどころか、俺のキャリアを崩壊させた張本人だ。だが、ここで彼女のことを詳しく説明するのは避けたい。リリアの純粋な目に映る俺の姿を、今は崩したくなかった。
「へぇー」リリアはニヤニヤ笑いながら「師匠にも秘密があるんだぁ」と言った。
彼女はその後も追及せず、花畑を歩き回りながら、いくつかの花を摘み始めた。その手さばきには慣れた様子が見て取れる。どうやら花冠を作るつもりのようだ。
「師匠! ミュウちゃんだよ!」
リリアが突然手を振った。遠くから白銀色の猫耳が見えてきた。ミュウが俺たちの方へと小走りで近づいてくる。
「武流様、おはようございますなのです!」
挨拶するなり、ミュウは俺に向かって深々と一礼した。彼女の猫耳はピクピクと動き、尻尾も生き生きと揺れていた。
「おはよう、ミュウ。もう稽古を始めていたのか?」
「はいなのです! 風の魔法の精度を上げる練習をしていたのです」ミュウは誇らしげに胸を張った。「次にクラリーチェ様と戦うときは、もっと役に立つのです!」
「すごいぞ、ミュウ。その意気だ」
王宮での敗北は、彼女たちにとって大きな挫折だったはずだ。特にエレノアは、あの屈辱的な敗北から立ち直るのに時間がかかるだろう。リリアもミュウも深刻な打撃を受けたはずなのに、彼女たちはもう前向きになっていた。数日しか経っていないというのに。彼女たちの回復力と精神的な強さに、俺は心から感心する。
「すごいな、お前たち」俺は思わず漏らした。「あれだけの敗北を喫しても、もう立ち直って前を向いているなんて」
「それはね」リリアがくすくすと笑った。「師匠がいるからだよ」
「そうなのです!」ミュウも猫耳を嬉しそうに揺らしながら頷いた。「武流様との特訓は、わたくしたちを強くしてくれたのです。だから、あの程度の失敗でへこたれていられないのです!」
二人の言葉に、胸が温かくなる。俺は彼女たちの師匠として、誇りを感じた。同時に、この二人の絆の深さも感じる。リリアとミュウは、まるで長年の友人のように自然に会話し、互いを理解していた。
「そうだ、師匠に教えてあげようよ」リリアが提案した。「ボクとミュウちゃんがどうやって出会ったかって話」
「あの日のことなのですね」ミュウの猫耳がピクンと動いた。「三年前、この花畑で……」
ミュウがリリアと出会った日の思い出を語り始めた。村に来たばかりで怯えていた自分。猫耳を見て驚くのではなく、「可愛い」と言ってくれたリリア。互いに魔法少女であることを知り、魔法を見せ合った日のこと。
「わたくし、行き場がなくて」ミュウは静かに言った。「フェリス族の集落が魔獣に襲われて、家族と離れ離れになってしまったのです。でも、リリア様がこの村に誘ってくれて……」
「ミュウちゃんが最初に来たとき、すごく怯えてたんだよね」リリアが優しく笑った。「今じゃ想像できないくらい」
「そ、そうなのです」ミュウは恥ずかしそうに頬を赤らめた。「リリア様のおかげで、ロザリンダ様にも会えて、村に住むことができたのです」
「あれから、ますます仲良くなったんだよね」リリアはミュウの方を見て笑顔で言った。
「はいなのです!」ミュウも嬉しそうに頷いた。「毎日魔法の練習をしたり、村中を冒険したり……」
「ロザリンダさんに怒られたこともあったね」二人は顔を見合わせて笑った。
彼女たちの会話を聞きながら、俺は暖かな気持ちになった。二人の絆が、こんなに深く美しいものだったのか。それは俺の世界では、あまり味わうことのできなかった感覚だった。
「リリア様がいなかったら、わたくし、今頃どうなっていたか……」ミュウの言葉には深い感謝の気持ちが込められていた。「でも、今はみんながいるから、寂しくないのです。特に武流様がいてくれて……」
「そうだよね! 師匠がいるから、もう怖くないよね」リリアが俺の方を見上げる。「クラリーチェがどれだけ強くても、必ず勝てる。だって師匠は最強だもん!」
「でも……」俺は少し考え込んだ。「深淵魔法の力は、想像以上に強大だった。まだまだ特訓が必要だな」
王宮での戦いを思い返す。クラリーチェの深淵魔法は尋常ではない。エレノアを完全に打ちのめし、俺さえも苦戦を強いられたほどだ。しかもクラリーチェこそが、三年前の王宮襲撃事件の黒幕だった。つまり、エレノアとリリアの両親を殺害したのはクラリーチェだったのだ。
リリアはまだ変身する力を失ったままだ。エレノアの魔力は強いが、深淵魔法を前にすれば無力だった。エレノアと彼女を慕う三人の男たちは深淵魔法について調査を始めている。それが終わるまでは、俺たちにできることは特訓を続けることだけだ。
「師匠、大丈夫だよ」リリアが断言する。「ボクたち、ちゃんと強くなるから。それに……」
彼女は少し照れたような表情を見せた。
「魔力がなくても、戦える方法を教えてくれた師匠のこと、ボクは信じてるよ」
「わたくしも信じているのです!」ミュウも真剣な表情で言った。「武流様がいれば、わたくしたちは必ず強くなれるのです!」
二人の信頼を感じ、俺は心を打たれた。まるで舞台ではなく、現実の世界で真の主役になったような感覚。それは俺にとって、新鮮で貴重な経験だった。
「ところで、ミュウちゃん」リリアが突然話題を変えた。「お姉様を見なかった?」
「エレノア様は、三人の方々と一緒に、王都の図書館にいらっしゃるのです」ミュウが答えた。「深淵魔法について調べているのです」
「ふーん。お姉様ったら、勉強熱心だね」
「エレノアは真面目だからな」俺も少し笑った。「王族としての誇りもあるだろう」
「そうなのです。エレノア様は、王宮での敗北をとても悔しがっていらっしゃるのです」ミュウの猫耳が少し下がった。「特に、あの屈辱を……」
三人とも黙りこんだ。王宮でのエレノアの敗北は、余りに惨めなものだった。彼女のプライドがどれほど傷ついたか、想像に難くない。
「お姉様、頑張りすぎちゃうんだよね」リリアは少し心配そうに言った。「昔からそう。いつも完璧でいようとして……」
「でも、大丈夫なのです」ミュウが優しく笑った。「今はエレノア様も一人じゃないのです。武流様も、わたくしたちも、ケインさんたちもいるのです」
「そうだね!」リリアも元気を取り戻したように笑顔を見せた。
春の日差しが花々を優しく照らし、風が穏やかに吹き抜けていく。この穏やかな景色が、いつまでも続けばいいのに。だが、クラリーチェの存在が、再び暗い影を落とすのは時間の問題だろう。
「師匠」リリアが俺の手を握った。「何考えてるの?」
「ん? いや、何でもないさ」俺は彼女の頭を優しく撫でた。「さて、そろそろ戻るとするか。午後からの特訓に備えて」
「はーい!」リリアは嬉しそうに花冠を持ち上げた。「今日編んだ花冠、お姉様にあげるんだ」
「エレノア様、きっとお喜びになるのです」ミュウも嬉しそうに言った。
「エレノアが、花冠を?」俺は少し想像しづらかった。あの気難しいエレノアが、花冠をかぶる姿が。
「師匠にはまだ見せてないでしょ?」リリアは意地悪く笑った。「お姉様の意外な一面。ああ見えて、可愛らしいものが好きなんだよ。でも、お姉様が花冠をかぶるのは、ボクが渡したときだけなんだよ」
彼女の表情には、姉への愛情が溢れていた。エレノアとリリアの姉妹愛は、時に厳しく時に優しい関係だったのだろう。
「武流様、急ぎましょうなのです!」ミュウが急かした。「お昼ごはんのお時間ですのです!」
「分かった、分かった」俺は二人に促されるまま、花畑を後にした。
この平和な日々のために、俺は強くならなければならない。エレノアたちのために、そして俺自身のためにも。
この世界の支配者になる――その野望は、まだ俺の中で燃え続けていた。