(37)ドSの裏にある、愛と憎しみと支配欲
エレノアは変身を解き、普段の姿に戻った。彼女は湖のほとりの石に腰掛け、しばしの間、湖面を見つめていた。
「武流」突然、彼女が名前を呼んだ。「あなたに感謝しているわ」
俺は驚きを隠せなかった。この一ヶ月、エレノアが俺に対して感謝の言葉を口にしたことは一度もなかった。いつも高慢で、反抗的で、憎しみを隠そうともしなかった彼女が、初めて素直に感謝の言葉を――。
「おや?」俺は慎重に言った。「珍しいな。お前が俺に感謝するなんて」
「でも」彼女はすぐに続けた。「あなたへの憎しみは消えていないわ」
彼女の青い瞳には、燃えるような感情が渦巻いていた。感謝と憎悪、恐れと欲望、そして何か別の……複雑な感情が入り乱れている。
「村中の人々の前で辱めを受け、屈辱を味わった一ヶ月前のことを、忘れていないわ」彼女の声は静かだが、剣のように鋭かった。「むしろ、あなたを跪かせてみせるという気持ちは、消えるどころか強くなっているの」
「ほう?」俺は警戒心を高めながら、平静を装った。
「夢の中で、何度もあなたをねじ伏せて、跪かせたわ」エレノアの目が妖しく光った。「あなたが泥水の地面に這いつくばって、私に許しを乞う姿を想像すると……ゾクゾクするの」
彼女の言葉に、俺の背筋に冷たいものが走った。エレノアの瞳には、明らかな殺気が宿っている。彼女は今にも俺に襲いかかってくるのではないか――そんな恐怖すら感じた。
エレノアは完全なドSだな。俺を苦しめることに興奮を覚えるタイプだ。
「それに」彼女は続けた。「男に対する本能的な嫌悪感もある。あの事件以来ずっと……」
三年前、王宮を襲撃した魔獣が男性の姿に化けていたこと。それが彼女の心に深い傷を残し、男性への不信感を植え付けたのだ。
「それでも」エレノアは自分の手のひらを見つめながら言った。「ここまで男性を信じることができたのは、あなたが初めてよ」
「エレノア……」
「矛盾してるでしょう?」彼女は笑みを浮かべた。「あなたを憎みながら、同時にあなたの強さを認め、信頼している。そして……いつかあなたを支配したいという欲求も持っている」
支配……。
彼女の瞳に宿る複雑な感情に、俺は魅入られていた。あまりに強大な憎しみと、同時に湧き上がる別の感情。その矛盾が、彼女をより一層魅力的に、そして危険に見せていた。
「構わないさ」俺は慎重に言葉を選んだ。「憎んでいても、信頼してくれているなら、それでいい」
「……そう言うと思ったわ」彼女は不気味に笑った。「あなたはおかしな人ね。自分を憎んでいる相手を、平気で受け入れるなんて」
「お前に言われたくないよ」
俺たちの間に、張り詰めた緊張感が流れた。風が二人の間を通り過ぎ、湖面を揺らす。
「本当に強くなりたいの」エレノアが静かに言った。「リリアを魔法姫に戻してあげたい。王宮に戻りたい。そして、両親の命を奪った、あの魔獣を……」
彼女の声には痛切な思いが込められていた。過去の悔恨と、未来への強い願い。その思いは真摯なものだった。
「必ず叶えてみせる」俺は断言した。「俺がついてる。お前たちを最強の魔法少女にしてみせる」
エレノアの表情が一瞬柔らかくなった。しかし、すぐに鋭い眼差しに変わり、俺の瞳を射抜くように見つめた。
「……武流、聞きたいことがあるわ」
「何だ?」
「王都での『この世界の支配者になる』という宣言」彼女の声が硬くなった。「あれは、あなたの本心?」
俺は彼女の問いに驚いた。確かに王都での戦いの時、挑発として口にした言葉だが……。
「あの野望は、今も変わっていないんじゃない?」エレノアは俺の目を探るように、いや、睨みつけるように見つめた。「この一ヶ月、あなたの指導を受けてきて、徐々に感じ始めたの。あなたは……この世界を思い通りにしたいという本性を隠している」
「なぜそう思う?」
「あなたの私たちに対する態度……表情、言葉、そして何より、その目」彼女は俺を分析するように言った。「本能的に感じるの。あなたは、この世界を自分の思うままに変えたがっている。そして、その力も持っている」
エレノアの洞察力に、俺は内心感嘆した。彼女は俺の本質を見抜きつつある。
「恐ろしいと同時に」彼女の声が震えた。「その野望に……惹かれている自分がいるの」
彼女の告白に、俺は驚いた。そして同時に、彼女の内なる闇に、俺もまた魅入られていることに気づいた。
「あなたへの恐れと憎しみと尊敬。そして、あなたという謎を解きたいという思い」エレノアは立ち上がり、俺に向き直った。「それら全てをひっくるめて、私は……」
彼女の言葉がそこで途切れた。風が強くなり、彼女の銀青色の髪を激しく揺らした。
「変な感情よね」彼女は凄絶な笑みを浮かべた。「敵のような、味方のような、そんなあなたに――」
「お姉様~!」
「エレノア様~!」
森の向こうから、二つの声が響いてきた。リリアとミュウが走ってくる姿が見えた。
「もう!」リリアが息を切らして言った。「師匠とお姉様、二人きりでこそこそと!」
「わたくしたちを置いて、こっそり特訓するなんて、ずるいのです!」ミュウの猫耳が不満そうに動いた。
エレノアの表情が一変した。さっきまでの複雑な感情が消え、代わりに冷たい微笑みが浮かぶ。
「うるさいわね、二人とも」
「お姉様!」リリアが不満げに言った。「もしかして、師匠を独り占めしようとしてるの?」
「違うわ」エレノアは俺に向かって、明らかに挑発的な視線を送った。「ただ、この男をどうやって跪かせようかと考えていただけよ」
「え?」リリアとミュウが同時に声を上げた。
「この男、調子に乗りすぎなの」エレノアは冷たく言い放った。「いつか必ず、私の足元に這いつくばらせてみせるわ」
俺は彼女の変貌に少し驚いた。さっきまでの素直な感情はどこへ行ったのか。
「エレノア様、武流様はわたくしのものなのです!」ミュウも負けじと言った。「叱られて嬉しくなるのは、わたくしだけなのです!」
「なっ」エレノアは目を見開いた。「ミュウ、あなた……そういう趣味が?」
「あっ!?」うっかり性癖を明かしてしまったミュウは、顔を真っ赤にした。「あ、あの……にゃー……」
「ふーん」エレノアの目が怪しく光った。「なら、私があなたの代わりに武流をたっぷり罰してあげようかしら」
「えぇ!? エレノア様、それは……」
「あのさ」俺は三人に向かって言った。「俺のことを、まるでモノみたいに奪い合うのはやめてくれないか?」
三人の少女たちは、一瞬互いの顔を見合わせ、クスクスと笑い出した。
「師匠、怒っちゃった?」リリアがからかうように言った。
「武流様、顔が赤いのです」ミュウも楽しそうに言った。
「も、もう!」エレノアは不敵に笑った。「でも、いつかこの男を本当に跪かせる日が来るわ。その時を楽しみにしているのよ」
俺は無言で頭を抱えた。この三人の魔法少女たちは、本当に手に負えない。だが、その明るさは、闇を抱えたこの世界に、確かに光をもたらしていた。
「さあ、もうすぐ正午よ」エレノアが立ち上がった。「午後からの演武会の準備をしましょう」
「うん!」リリアが元気よく言った。「今日は村人たちをびっくりさせるぞ!」
「わたくしも、名乗りとポーズを完璧に決めるのです!」
三人の少女たちが意気込みを語る様子を見て、俺は微笑んだ。
「行くぞ。皆が待っている」