(129)不可解な目覚め
俺は勢いよく目を覚ました。
心臓が激しく鼓動している。全身が汗でびっしょりと濡れており、まるで激しい運動をした後のような状態だった。手は震え、呼吸は荒く、体の奥底から湧き上がる恐怖が俺を支配していた。
ここは――。
俺は慌てて周囲を見回した。そこは見覚えのある部屋だった。豪華な装飾が施された天井、上質なカーテンが掛けられた窓、そして柔らかなベッド――ルルの温泉宿の客室だった。
窓から昇る朝陽が差し込んでいる。今は早朝のようだ。
確かに、俺は死んだはずだった。
クラリーチェの深淵魔法による黒い炎が俺の胸を貫き、激痛と共に意識を失った。あの痛みは、今でも鮮明に覚えている。肉が焼ける匂い、視界を覆う白い光、そして薄れゆく意識――すべてが現実のものだった。
なのに、なぜ俺はここにいるのか。
俺は自分の胸に手を当てた。傷はない。痛みもない。しかし、あの時の感覚は確実に残っていた。死の瞬間の恐怖、絶望、そして最後に思い浮かんだリリアの笑顔――すべてが記憶の中に刻み込まれている。
助かったのか? それとも――。
俺の頭の中は混乱していた。死んだという確信があるのに、生きているという現実。この矛盾をどう理解すればいいのか。
夢だったのか?
俺はこれまでも、朝倉明日香が登場する謎の夢を何度も見てきた。彼女とのやり取り、戦闘、そして時には親密な会話――すべてが夢の中の出来事だった。
しかし、先ほどまでの夢には、明日香は登場しなかった。クラリーチェによる処刑、魔法少女たちの悲鳴、町民たちの驚愕――すべてが明日香とは無関係だった。
それに、あの夢はあまりにもリアルすぎた。殺される瞬間の痛み、肉が焼ける匂い、視界を覆う白い光――五感のすべてを鮮明に覚えている。あんなリアルな夢があるだろうか?
夢と現実の境界が曖昧になっている。俺の頭は混乱していた。
その時、ドアをノックする音が聞こえた。
俺は身構えた。まさか、クラリーチェが――。
警戒しながら、「どうぞ」と俺は声を掛けた。
ドアが開いた瞬間――
「うわああああ!」
俺は飛び上がった。
扉から現れたのは、魔獣だった。黒い毛に覆われた人間大の怪物が、のっそりと部屋に入ってくる。鋭い爪、牙をむき出しにした口、赤く光る目――まさに俺たちが戦ってきた魔獣そのものだった。
俺は咄嗟に戦闘態勢を取った。変身ブレイサーに手を伸ばそうとしたが――。
「あははは! 師匠、驚いた?」
魔獣の頭部が外れ、その下からリリアの笑顔が現れた。
「え?」
俺は呆然とした。目の前にいるのは魔獣ではなく、魔獣の着ぐるみを着たリリアだった。
「これ、歌劇で使う魔獣のスーツなんだ」リリアがイタズラっぽく笑いながら説明した。「リュウカ先生が着る予定なんだけど、試しに着てみたの。出来をチェックして欲しくてさ。どう? 良くできてるでしょ?」
リリアが着ぐるみの説明を続けるが、俺の頭は混乱していた。
確かに、その着ぐるみは驚くほど精巧にできていた。本物の魔獣と見間違えるほどの出来栄えで、一瞬本当に魔獣が現れたのかと錯覚してしまった。
「師匠の驚いた顔、すごく面白かった!」リリアが着ぐるみを着たまま手を叩いて笑っている。
俺は胸を撫で下ろした。まさかこんなドッキリを仕掛けられるとは思わなかった。
「おい、リリア。心臓が止まるかと思ったぞ」
「ごめんごめん。でも、明日の本番でお客さんも同じように驚いてくれると思わない?」
明日の本番――?
俺の脳裏に、あの処刑の記憶が蘇ってきた。野外劇場での最終確認、クラリーチェの襲撃、そして深淵魔法による処刑――すべてが昨夜のことのように感じられる。
「ちょっと待て。明日は歌劇の初日か?」
「そうだよ。いよいよ明日から『星の守護者たち 〜失われし光の物語〜』の開幕でしょう? 今日は朝から大忙しだよ」
「朝……?」
「……師匠、大丈夫?」
どういうことだ? 俺が処刑されたのも、歌劇の初日の前日だった。その日の朝に戻っている――? いや、まさか……。
その時、廊下から足音が聞こえてきた。
「武流様〜♪ 朝食をお持ちしたのです〜♪」
ミュウの声が響く。彼女は盆に載せたスープを運んでいるようだった。朝早くから俺のために朝食を準備してくれたのだろう。
「あ、ミュウが来る」リリアが慌てて着ぐるみを脱ぎ始めた。
リリアが魔獣の着ぐるみを部屋の入り口付近に脱ぎ捨てた時――。
「武流様、朝食をお持ちしたの――きゃああああ!」
ミュウが部屋に入ってきた瞬間、足下の着ぐるみにつまずいた。
ドンッ!
盆が宙に舞い、スープが部屋中に飛び散る。
「わわわわ〜!」
ミュウが転倒し、猫耳をピクピクと震わせながら床に倒れ込んだ。
「あ〜! ミュウちゃん、ごめん!」リリアが慌てて駆け寄る。
「わたくし、せっかく作ったスープが〜!」ミュウが泣きそうになっている。
床は一瞬でスープまみれになり、甘い香りが漂っていた。
「大丈夫か、ミュウ?」俺も彼女に手を差し伸べた。
「はい〜、わたくしは平気なのですが〜、お部屋が〜」
その時、廊下から威厳のある足音が響いてきた。
「一体何の騒ぎ? 朝からこんなに騒がしくて――」
エレノアが部屋に入ってきた瞬間、目の前の光景に絶句した。床に転がる魔獣の着ぐるみ、スープまみれの部屋、そして申し訳なさそうに立っているリリアとミュウ。
「あなたたち......朝から一体何をやってるの......」
エレノアの眉間に青筋が立った。
「お姉様、これは――」リリアが弁解しようとしたが、エレノアは聞く耳を持たなかった。
「もう我慢できないわ! 明日は本番だというのに、こんな騒ぎを起こして!」
エレノアが氷の杖を構えた。
「少し頭を冷やしなさい! アイス・フィールド!」
瞬間、部屋全体が氷に覆われた。壁、床、天井――すべてが美しい氷の結晶で装飾され、室温が急激に下がる。
「わあ〜、きれい〜」リリアが感嘆の声を上げた。
「でも寒いのです〜」ミュウが震えている。
しかし、エレノアの魔法は自分自身にも影響を与えていた。床が完全に凍りついているため、歩くのが困難になっている。
「ほら、少しは静かに――きゃあ!」
エレノアが振り返ろうとした瞬間、自分が作った氷の床で足を滑らせた。
ズルッ!
王族としての威厳もなく、エレノアが派手に転倒した。
「お姉様!」
「エレノア様!」
リリアとミュウが慌てて駆け寄ろうとしたが、二人も氷の床で足を滑らせてしまう。
「きゃー!」
「わわわ〜!」
三人が部屋の中で滑りながら、まるでスケートリンクのような状況になっていた。
「あははは! お姉様、自分の魔法で滑っちゃった!」リリアが氷の上に座り込みながら笑っている。
「エレノア様、お尻から転んだのです〜♪」ミュウも猫のように四つん這いになりながら笑っていた。
「笑わないで!」エレノアが顔を真っ赤にして抗議したが、氷の上で立ち上がれずにいる。
俺はこのドタバタを見ながら、奇妙な感覚に襲われていた。
この光景――まるで既に見たことがあるような気がする。リリアの魔獣の着ぐるみ、ミュウの転倒、エレノアの滑り、そして三人の笑い声――すべてが記憶の中にある。
デジャブ。既視感。
そして、この混乱の中で、俺の心に先ほどの記憶が蘇ってきた。クラリーチェによる処刑、深淵魔法の黒い炎、そして死の瞬間――。
あれは夢だったのか?
しかし、あまりにもリアルだった。痛みも恐怖も、すべてが現実のものとして記憶に刻まれている。
そして、このデジャブ。まるで同じ場面を再び体験しているかのような感覚……。何がどうなっている?
「師匠〜♪ 助けて〜♪」
リリアの声が俺を現実に引き戻した。三人はまだ氷の上で四苦八苦している。
俺は混乱した心を落ち着かせて、魔法少女たちを助けることにした。とりあえず、この状況を何とかしなければならない。