君との約束 後編
どこからかねっとりとした気味の悪い風が吹いてきた。あの蜘蛛からの気配に違いない。
この学校は海岸から少し離れた小高い丘の上に建っている。
意識を集中させると、風は丘を降りた岬の方から吹いてきているようだった。
ゆるやかな下り坂を降りていくと地面はゴツゴツとした岩肌へと変わっていった。
海岸まで辿り着き、海に突き出た岩場を見渡してみたがなにも見えない。気配はするのに、真人もあの巨大な蜘蛛もどこに行ってしまったんだろうか……
まさか、海に落ちて沈んでるんじゃ……
岩場を必死で探し歩いていると遠くから真人の声が聞こえてきた。
「紬こっちだ。こっちに来てくれ。」
声のした岩間を覗いて見ると、真人が蜘蛛の糸で張り付けのようにされていた。
海面すれすれの位置だったので波が来る度に首元まで水が迫ってきている……
大変、早く助けなきゃ真人が溺れちゃう!慌てて真人のいる岩場まで降りていった。
すぐにライターを取り出して糸を焼き切ったら、用意が良いなと真人から驚かれた。今度はちゃんと助けられるようにと、下着の間に挟んで常備しておいたのだ。
真人は海水に濡れた体が不快なのか、何度もブルブル振って乾かしていた。
「あの蜘蛛の子はどこに行ったの?また逃げたの?」
「いや……そこでぶっ倒れてる。」
男の子は岩場に囲まれた砂浜の上に仰向けの状態で横たわっていた。恐ろしい蜘蛛の姿ではなく、元の可愛らしい男の子の姿に戻っていた。
真人が殺られてしまうんじゃないかと気が気じゃなかったのだが、取り越し苦労だったみたいだ。
「何度も言霊を聞かせてやったんだ。威力は小さいが、何百回と聞かせてる内にじわじわと効いてくる。」
言霊とは言葉に宿る力のことだ。
古代から言葉には不思議な力があると信じられており、良い言葉を発すれば良い事が起こり、悪い言葉を発すれば悪い事が起きるのだという。
それを攻撃を交わしながらあんな巨大な妖魔が参って倒れるまで唱え続けたというのだから、真人ってやっぱりすごい。
どんな言霊を使ったのかと尋ねたのだけれど、呪詛なんて安易に聞くものじゃないと叱られてしまった。
砂浜へと移動したのだが、男の子は全く起きる気配がなく眠り続けていた。
最初に見たときよりも体はやせ細っていて、所々に殴られたようなアザもあった。
「気を付けろよ。霊力が切れて見た目はガキの姿に戻ってはいるが中身は妖魔のままだ。」
着ている服も汚れていて、サイズの合わない小さな服を無理やり着せられているような感じだった。
「真人……私、この子知ってる……」
─────────思い出した。
十年前、私が六歳の時に一度だけこの街を訪れたことがあった。
夏の暑い日なのに母も私も真っ黒な服を着ていて、いつも陽気な母がこの日だけは無口だった。
母が昔住んでいたという家の近くまで来た時、少しこの木陰で待っていてねと母から言われた。
今思えばその日は私の祖父、つまり母の父のお葬式の日だったのだ。
故郷を離れていた六年の間にシングルマザーだった母は根も葉もない悪評を流され、それを信じた両親との仲は最悪だった。
母は祖母からの罵詈雑言を私に聞かせまいと思い、先ずは一人で向かったのだと思う。
そんなことなど全く知らなかった当時の私は言われた通り母のことを待っていた。
でもすぐに飽きてしまい、ミンミンと大合唱するセミが気になって森の中へと入って行った。
そこで、男の子と出会ったんだ。
私と同い年くらいのその男の子は、しゃがんでなにかを食い入るように見つめていた。
「ねえ、なにしてるの?」
「………………………………」
返事が返ってこないのでなにを見ているのかと私も覗き見たら、それは大きな蜘蛛の巣だった。
「……蜘蛛はいいな……お家の中がいつも賑やかだ……」
男の子は蜘蛛の巣に捕まってもがいている虫を見つめながら、ボソリとそんなことを言っていたと思う。
変なことを言う子だなあと思ったけれど、それよりも男の子が骨が見えるほど痩せていて服が汚れていることが気になってしまった。
私がいることに気付いていないのか、こっちを見ようともしない……
私は自分のポシェットに手を突っ込んでゴソゴソと探った。
「このアメ食べる?」
ようやく男の子が反応してこちらを振り向いた。
痩せているせいか目だけがとても大きく見えてこぼれ落ちそうだなと思った。
「イチゴとオレンジどっちがいい?」
「僕と……遊んでくれるの?」
「うんっ!私ね、みんなからはつむちゃんて呼ばれてるの。あなたは?」
「僕は………」
母が私を呼ぶ声が聞こえた。待っていてねと言われた場所からだいぶ離れた所まで来ていたのですぐに戻らなきゃと思った。
私は両方のアメを男の子に渡して言った。
「また今度遊ぼうねっ!」
今度は来なかった。
お葬式には出ずにそのまま家に帰ったし、今日に至るまで再び訪れることもなかったからだ。
母はなにも言わなかったけれど、きっと酷い言葉を浴びせられて追い出されたんだと思う……
私も時間が経つにつれてその日の記憶は薄らいでいった。
「こいつの名前は野島 晃太。六歳の時に亡くなっている。」
私の話を聞いて真人が教えてくれた。
「真人もこの子のこと知ってるの?」
「おまえと門の手前で別れたあと、生徒会室にあるパソコンを使ってそれらしい記事を調べたんだ。顔写真も出てたから間違いないだろう。」
───────死因は凍死だった……
母親から虐待を受けていて、冬の寒い日に薄着で一晩中ベランダに出されてそのまま亡くなったのだという。
「こいつが死んだのは20年前だ。つまりおまえが会ったのは成仏出来ずにさ迷っていた幽霊ってことになるな。」
そう……だったんだ……
あの時にはもう死んでいたんだ。なにも、気付いてあげることが出来なかった。
今度遊ぼうと言った約束をあの森の中でずっと待っていたのかな……
私はもう、すっかり忘れていたのに……
「あれ……僕………?」
男の子が目を覚まし、ぼ〜っとした様子で起き上がった。
真人は全身の毛を逆立たせて威嚇するように身構えたのだが、私はそんな真人を後ろからひょいと持ち上げた。
「晃太君おはよっ。」
「おいっ、なにしてんだ離せ!」
「分かる?私つむだよ。このしゃべる猫はニャ人。」
「紬っ!ふざけんじゃねえ!!」
男の子は私達のやり取りをキョトンとした顔で見つめていた。
今この子は霊力を失い攻撃性もなくなっている。こちらの声もちゃんと届いている感じだ。
「晃太君をこのまま成仏させてあげることって出来ないかな?」
「無理だ。妖魔化するような霊はこの世への未練が強すぎる。人間に害を及ぼす前に滅するしかない。」
それは珀も言っていたことだ。陰陽師は妖魔が目の前に現れたら滅しなければならないと。
なにも知らないド素人の私の考えがどれだけ甘いのかも分かっている。
でも………
「だが、前例がないわけじゃない。」
腕に抱いている真人が顔を上げてじっと見つめてきた。真っ直ぐで、それでいて深い温もりのあるグリーンの瞳……
真人も今ならこの子を成仏させれるんじゃないかと考えていたのだ。同じ気持ちなのが嬉しくて、モフモフのお腹をギュッと抱き寄せた。
「ありがとうニャ人!」
「その名前で呼ぶんじゃねえ!!」
ではどうすれば成仏させてあげられるのか。珀は心残りが晴れれば出来ると言っていたけれど……
そもそも自分が死んでいるということは理解しているのだろうか?
男の子にいろいろ聞いて確かめたいけれど、下手に刺激したらまた正気を失ってしまう可能性が高いと真人から忠告された。
「とりあえず遊んでやったらどうだ?約束してたんだろ?」
そうだった。十年前にした約束を、ようやく叶えるチャンスがきたのだ。
ワクワクした気持ちと拒まれたらどうしようという不安もありながら男の子を誘ってみた。
「ねえ晃太君……私と、遊んでくれる?」
男の子は目を丸くして驚きながらも、うんと頷いてくれた。
なんだか小さな弟が出来たみたいですっごく嬉しかった。
「じゃあ先ずは鬼ごっこしよっ。真人が鬼ねっ!」
「は?俺もするのか?!」
男の子の手を取って逃げろーっと駆け出した。
隠れんぼにじゃんけんグリコに水切り遊び、それにケンケンパやダルマさんが転んだ等など……
ヘトヘトになるまでいっぱい遊んだけれど、そのことごとくが全部、私がべったこだった。
「ここまで鈍臭いとは哀れとしか言いようがないな。」
悔しいっ……私だって一個くらいは勝ちたい……
男の子は落ち込む私の背中をさすって励ましてくれた。
それに対して真人は明らかに人を馬鹿にした言い草だ。猫のくせにめっちゃ腹立つ〜!
「言っとくけど、ダルマさんが転んだでは私、動いてなかったからねっ?」
「また蒸し返すのか?どう見ても動いただろ。」
「だから風で髪の毛が揺れただけなんだって!」
「いいや、おまえの頭が動いてた。」
「もう少しでタッチされてたからって言いがかり!」
「はあ?!言いがかりはどっちだ!!」
お互いヒートアップして言い合いなってしまった。
ふと男の子の方を見ると、顔を伏せながら体を震わせていた。
しまった……目の前でこんな大声を出したから過去のトラウマを思い出させてしまったのかも知れない。
私の心配を他所に、男の子は勢いよくブハッと吹き出した。
「もうっ、二人とも大人気ないってっ!」
ケラケラと子供らしい無邪気な笑顔を見せる男の子は、いつしかふっくらと血色の良い体つきになっていた。
毒気がすっかり抜けているように感じた。
「晃太君、次はなにする?」
男の子はううんと首を左右に振ると、赤くなり始めた空を見つめた。
「暗くなる前に帰らないとママに怒られちゃう。」
ママと口に出して、男の子の笑顔が一気に曇った。
真人は警戒するように私と男の子との間に割って入った。
「ママ……まだ僕のこと待っててくれてるかな?もう随分帰ってないや。」
──────この子はちゃんと、分かっている。
自分が死んだことも。長い間さ迷っていたことも……
どう答えてあげればいいのだろう……
「残念だが母親はあの家でおまえを待ってはいない。裁判ではあくまでも躾の一環だったと主張して保護責任者遺棄致死罪の罪で刑務所に入り、服役後は各地を転々としながら過ごしている。」
「真人っなにもそんなことを教えなくてもっ……」
「体のいい慰めで誤魔化す気か?これが現実だ。」
だからって、そんな厳しい現実を突きつけなくてもいいのに……!
今はなんでもネットで調べることが出来る。
故意でなかったにしろ虐待の末に子供を凍死させてしまった母親……罪を償ったあともその後を調べて晒す人がいるのだろう。
真人は黙り込んだ男の子の前へと歩み寄った。
「父親のことは覚えているか?」
その一言で男の子の表情がパッと明るくなった。
「うん!すっごく優しかったよ!ハンバーグが上手でね、ママの大好物だったんだ!」
父親は洋食レストランのオーナーシェフをしていたのだという。
男の子は父親のお店で食べたオムライスやスパゲティの話を楽しそうに話してくれた。
「これならいけるかも知れない。紬、ガキを頼む。」
真人は私に男の子の相手を頼むと、離れた場所でお経のような言葉を唱え始めた。
男の子はとてもおしゃべりで、お店が休みの日は家族三人で海や遊園地に言った話なんかもしてくれた。
とても仲の良い家族だったのだろうなと聞いていて微笑ましく思っていたのだが、急にトーンが暗くなった。
「でも死んじゃったんだ……」
パパが死んでから家が楽しくなくなったと、男の子はボソリと呟いた。
男の子の周りの空気が急激に下がっていく感じがした。
これは……
男の子が再び巨大な蜘蛛の姿で襲ってくる映像が脳裏に浮かんだ。
「────────来たか。」
真人の声とともに天空から柔らかな光が差し込んで来た。
光は私達のいる砂浜へと到達すると天まで続く階段となり、その一番上部にはうっすらとした人影が現れた。
真人が穏やかな口調で男の子に話しかけた。
「あれが誰だか、分かるか?」
「……パパ……パパだ。」
私には逆光で人の輪郭だとかろうじて分かるくらいなのだが、男の子にはハッキリと父親の姿が見えているようだった。
「パパがいればママも喜ぶよ!やったあ!」
この子の母親はなにを思って虐待を繰り返していたのだろうか……男の子のしてくれた話の内容はママ、ママばかりだった。
どんなに傷つけられても母親のことが大好きだったのだ。
きっと男の子が20年もさ迷っていたのは、母親のために父を探していたからなのではないだろうか……
そう思うと、どうしようもなく胸が切なくなってしまった。
男の子は光の階段を勢いよく駆け上がると、上段にいた父親に抱きついた。
こちらに向かって手を振る男の子の消えゆく姿を、真人とともに見送った。
良かった……成仏させることが出来た。
真人が男の子を滅するような結果にならなくて、本当に良かった……!
水平線に沈む夕日を眺め終わると、真人から行くぞと声をかけられた。
どこに?と聞くと、俺の体のとこに決まってんだろと睨まれた。
真人が猫なのがすっかり馴染んでしまっていた。ニャ太郎、ちゃんと上手くやってくれてるかな……
男の子が消えていった空に向かってもう一度大きく手を振った。
「ママがきたらまた三人で仲良くハンバーグを食べるのかな?」
「……さあ、どうだかな。」
てっきりそうだなと返事が返ってくると思っていたので意外だった。
「家族ならあの世で出会えるんじゃないの?」
「殺意はなかったと司法の場では通用したが、あの世では腹ん中まで見透かされる。」
────────それって……
「母親の行き先は……地獄かもな。」
真人の言葉には突き刺さるような冷たさを感じた。
でもその瞳には……
やるせない寂しさを、滲ませていた──────