巨大妖魔との戦い 前編
雷雲の発生により海水浴場は遊泳禁止となったため、クラスの集まりもお開きとなった。
珀のいる縁側へと着く頃には雨は本降りとなっていた。
「そいつは十中八九、嵐を利用して紬ちゃんを襲いにくるだろうねえ。」
真人が懸念していた通りだった。昔から海坊主が現れると大嵐が来るという言われがあるらしい。
天気予報を確認すると、今夜にかけて大荒れになるという予報に変わっていた。
「今回は真人一人じゃ無理だね。私も戦うよ。」
「戦うって……珀はこの屋敷から出れないのにどうやって?」
「狙いは紬ちゃんだからね。ここで待ち受ければいいさ。」
「正気か?この屋敷には親父も使用人もいるんだぞ?」
珀はなにも言わず、意味ありげにニッコリと微笑んだ。笑顔なのに圧がすごい……
珀が言わんとしていることを悟ったのか、真人は真っ青になって狼狽えた。
「無理だっ…あの親父に物申すなんて!」
「真人。妖狐に紬ちゃんのことは俺に任せろと約束したよね?それに、いつまでもお父さんに遠慮なんかしてちゃいけないよ。」
真人はすっごく嫌そうな顔をしながらも私の方にチラリと視線を移し、観念したようにぐっ…と目を瞑った。
真人の実家はとてつもなくデカい。
周囲の山や湖も入れたらアレが三個分はあるほどだ。
建家だけでも迷子になるほどの広さで、古への高貴なお方が住んでいたような造りをしている。
主殿となる屋敷が中央にあり、その両側に西の対と東の対と呼ばれる建物が配されていて、それぞれの屋敷は渡り廊下で繋がっている。
主殿には弟子達による華道教室が開かれている壱の間や宴会用のお座敷や客間などがあり、西の対には台所や水周りといった使用人達の作業場や就寝部屋などがある。
東の対は家族専用の空間で、真人と珀はここで過ごしていた。
真人の父親は超多忙で日本のみならず世界中を飛び回っており、一年の三分の二以上を留守にしていた。家に居ても仕事場のある主殿で過ごすことがほとんどだ。
真人がまだ幼かった頃でも家族三人での食事は月に一度あるかないかで、二年前に母が亡くなってからは顔を合わすことさえ滅多にないのだという……
「話とはなんだ?」
そんな父のいる主殿の奥の間へと訪れた真人はガッチガチに緊張していた。
身内である父親の前でだけ借りてきた猫状態になる真人なのだが、実の息子だからこそ父の偉大さに畏怖の念を抱かずにはいられないのかも知れない。
正座する真人を見つめる鋭い眼光を、横にいる私にまで向けられヒヤっとした。なんで小娘までいるんだといった感じなんだろう……
私だってこの場に似つかわしくないことくらい分かっている。でも真人がどうしてもと頼んでくるからついてきたのだ。
真人は小さく咳払いをすると、意を決したように畳に付くほど頭を下げた。
「二、三日……いえ、一日だけでよいので、使用人とともに家を空にして頂けないでしょうか?」
海坊主が到着すればここは陰陽師と妖魔との激しい戦いの場となる。
だから珀は、屋敷の者が巻き込まれないように人払いをしろと真人に命じたのだ。
「それは何故だ?」
「理由は言えません。ただ、至急……ここから出ていって欲しいのです。」
いきなりの突拍子もないお願いにも関わらず、真人の父は眉ひとつ動かすことなく真人を見つめていた。
西園寺家の裏稼業が陰陽師であることをこの父は知らない。それは父の華道への至高を邪魔したくないという母親の考えを、真人も受け継いだからだ。
表舞台だけしか知らないはずの真人の父が、ゆっくりと口を開いた。
「おまえは、華夜子と同じことをしているのか?」
ずっと畳に伏せていた真人が驚いた表情で顔を上げた。
見つめ合う二人の間に得も言われぬ緊張感が走る……
真人が明らかに動揺しているのに対し、父の方は落ち着き払っていた。
家族なんだ。いくら一緒に過ごす時間が短くても、真人が秘密裏になにかをしていることくらいとっくに勘づいていたんだ。心配してくれていたのかも知れない……
しかし真人の父は吐き捨てるようにして言い放った。
「くだらん。実にくだらん。」
苛立つように立ち上がると真人の横を足早に通り過ぎて行った。
なにも知らされていないとはいえ、息子を否定するような言葉で切り捨てたのには腹が立った。
呼び止めようとしたら真人に腕を捕まれ静止された。
「今直ぐ鎌倉の別邸へ行く。使用人達にも支度をしろと伝えろ。」
去り際にそう言い残した父に真人はありがとうございますと頭を下げて見送った。
「真人っ、あんな言い方されて平気なの?!」
「いいんだ。あの人はあれで。それでも俺は……」
言いかけた言葉を呑み込むようにして真人は口を噤んだ。
それでも俺は……
その先に続く言葉を、あの眼力親父にぶつけてやればいいのにっ……!
世の中の父と息子の関係とはこんなにもモヤモヤとするものなのだろうか?
私には父親という存在がいなかったせいか、全くもって理解出来なかった。
屋敷の中から人が居なくなると、海坊主を迎える準備に取り掛かった。
真人は一人で結界を張る作業をし始めた。
妖魔の侵入を防ぐ結界ではなく、妖魔をこの敷地から逃がさないための結界を仕掛けるのだという。
珀が自由に移動できる屋敷と庭のみにはなるが、それでも相当な大きさだ。
「イソゲ、ハコベ、テイネイニ」
「アッチダ、コッチダ」
「ウンショ、ウンショ」
式神達の愛らしい掛け声が聞こえてきた。
珀は小さなモチモチの式神なら一度に何十体も出せるらしく、その式神達に雨戸を閉めさせたり貴重な骨董品や池の錦鯉を安全な場所に避難させたりしていた。
私はというと珀の呪符作りのお手伝いをしていた。
和紙は元々水には強いのだが、さらに柿渋と椿油を塗って強化したものを使うようだ。これは番傘にも使われるほどの撥水効果に優れた和紙らしい。
墨汁も水に流しても字が消えない特殊な墨を使用する。
これでどんな嵐が来ても頑丈な、対海坊主用の呪符が完成するのである。
「真人と旦那はねえ、昔っからああなのさ。それでも華夜がいた頃は二人の間を取り持っていたからマシではあったかな。」
珀は文字を連ねながら二人の関係を教えてくれた。
傍から見れば仲が悪そうに見えるけれど、真人は父親を心から尊敬しているし、父の方も真人を一番大切に思っているのだという……
それって、ただお互いに不器用なだけの似たもの同士ってこと?
じゃあなにかきっかけさえあれば、二人の間の壁を壊すことが出来るのかな……
強くなる雨足を見上げながらそんなことを考えていると、珀が筆を持つ手を止めてニマニマとしながらこちらを見ていることに気づいた。
「な、なんですか?顔に墨でもついてますか?」
「いいや。今は自分の方が大変な状況なのに、真人のことを心配してくれてるんだなあと思ってね。愛ってやつだねえ。」
違うという前にカアっと顔が赤くなってしまった。もうなんか、否定するのも恥ずかしい……
「ただ真人はね……父親に対して申し訳ないと思う気持ちが強いのさ。華夜とのことは、陰陽師としては真っ当なことをしたのだと言ってはいるんだけどね。」
それは……やっぱり、真人は妖魔になった母親を自らの手で滅したということなのだろう……
華夜子さんは真人の父、宣仁さんの華道家としての才能に惚れて猛アプローチをした末に結ばれたのだという。親の決めた結婚相手かと思っていたので華夜子さんがベタ惚れだったという話は意外だった。
活躍の場を広げる宣仁さんを影で懸命に支え、邪魔をしたくないという思いから頑なに裏稼業のことは秘密にしていた。
でもそのことで、真人は幼い頃から父親に嘘をつかなければならなくなった。
二人の関係がボタンを掛け違えたかのような他人行儀なものになってしまったのは自分のせいだと、華夜子さんは誰にも言えずにずっと悩んでいたのだという……
真人はなににそんなに心残りがあったのかが分からないと言っていた。
それって……もしかしたら───────
「結界を張る準備は出来た。あとはなにをすればいい?」
庭から雨でびしょ濡れになった真人が現れたので、びくっと体が反応してしまった。
猫の体だと私の家の周りを囲む結界を作るのに一晩かかっていたけれど、本来の体でならばこの広さでも二・三時間もあればこなせる作業のようだった。
式神達が競うようにして真人にタオルを差し出していた。
「準備万端。あとは奴さんがお出ましになるのを待つばかりだ。見張りは私がしとくから、二人はしばらく茶の間で休んどきな。」
真人は出来たばかりの呪符を珀から受け取ると、着替えるから先に行っててくれと言って別の部屋へと移動していった。
珀から聞いたことを真人に告げるべきなのだろうか……
でもそんなことを知ったところで、自分が父親と良好な関係を築けなかったせいだと、余計苦しませてしまうだけかも知れない……
案内された突き当たりの部屋へと行ってみると、数体の式神がせっせとおにぎりを握っていた。食事の用意までしてくれるだなんて、本当に気が利く。
その中の一体に見覚えのある子がいた。
「にぼし?姿が見えないと思ってたらご飯作ってくれてたんだ。」
良い子良い子とプニプニと撫でていたら、着替えを終えた真人がやってきて関心したように呟いた。
「よくそいつらの見分けがつくな。」
「えっ?みんな全然違うよ?」
小柄だったり力持ちだったりニコニコしていたりと、見た目も性格もそれぞれに個性があった。
真人にタオルを競うように渡していたのは全員可愛い女の子達だったし、にぼしは男の子でちょっぴり怖がりな性格で他の子よりモチモチしているのが特徴だ。
コッチコッチとにぼしが奥の部屋を指差すので襖を開けてみると、二組の布団がピッタリとくっついた状態で敷かれていた。
枕元に置かれた行灯の灯りが、絶妙なエロさを醸し出している。
まさかここで真人と休めと……?
悪気は無いのだろうけれど、おいたが過ぎる……
「どうした紬?」
「なんでもない!おにぎり、おにぎり食べよう!」
奥の部屋は襖を閉めて封印し、座卓に真人と向かいあわせで腰を下ろした。
にぼしはデハ、ゴユックリト〜と、老舗旅館の大女将のような挨拶をして他の式神達も引き連れて去っていった。
あの子……どこであんなの覚えてくるの……?
「そういえば、五芒星の形に呪符を投げれるようになったの?」
おにぎりをモグモグしながら真人に聞いてみた。
先ほど珀が作っていた沢山の呪符の中に、縛りの術用の呪符があったからだ。
真人はチラリとこちらを見ると口の中の食べ物を飲み込んでから答えてくれた。
「まあなんとかな。あれが出来ないと今回は話にならん。」
それほど海坊主が手強い妖魔ということなのだろう……
水平線から覗かせていた巨大な顔を思い出した。
なにもかもを陰鬱なものに変えてしまうあの不気味に窪んだ生気の無い目。気味が悪いったらなかった。
私、あんな恐ろしい妖魔から魂を狙われてるんだ……
突然稲光が走ったかと思ったらけたたましい音が鳴り響いた。落雷のあまりの近さにビックリして悲鳴を上げて畳にしゃがみ込んだ。
海坊主が確実に近づいて来ているのが天候の悪化から嫌というほどに伝わってきた。
どうしよう…正気じゃいられなくなってきた……
「紬、大丈夫か?」
真人が心配してそばまで来てくれた。真人がこうやって隣にいてくれるだけで心が落ち着いてくる……
「大丈夫。ごめんね……迷惑ばっかりかけて。」
「迷惑だと思ったことはないって前にも言ったよな?」
そうだった。あの時真人は私に、出会えて良かったと言ってくれたんだ。
その言葉がどれだけ嬉しかったか……
「……真人は、死なないでね。」
真人が驚いたように目を見開いた。その漆黒の瞳の奥が、切なげに揺らいだ。
「自分は死んでもいいとか思ってないよな?」
死にたくない……でも、真人が死ぬのはもっと嫌だ。
私を守ると母に約束してくれた真人の気持ちはすごく嬉しい。でも自分が生き永らえるために真人が犠牲になるのだとしたら、そんなのは本末転倒だ。間違っている。
「紬のことは、俺が命を懸けても守るから安心しろ。」
「だからっ、そういうのがダメなんだって!」
「俺は紬がいたからもう一度陰陽師をやろうと思えたんだ。」
「陰陽師だからって誰かのために死んでいいわけないでしょ?!」
「────────そうじゃない!!」
真人は語尾を荒らげると、私の背中に手を回し自分の元へと引き寄せた。
「なんで、分からないんだ……」
真人……?
なにかを訴えるように、私を抱きしめる真人の腕に力がこもった。
その時は唐突に訪れた。
床の間に生けられた華が小刻みに揺れたかと思ったら、火山が噴火したかのような爆発音がして床が大きく揺れた。
その直後、辺り一面に重苦しいほどの邪悪な気配が充満した。
「来たか……」
真人は腕の力を緩めると行くぞと言って立ち上がった。
いよいよ現れた海坊主の元へと勇む真人の後をついて行ったけれど……
今のは一体なんだったの?
なんで分からないんだって……
真人の力強い腕の感触がまだ残っていて、胸の鼓動が収まりそうになかった。