サイアクの出会い
「ニャ太郎?お〜い、ニャ太郎ー!」
うっそうと生い茂るヤブの中をかき分けながら、私は飼いネコの名前を呼んでいた。
この森、昼間なのに薄暗くってなにやら居そうで超怖い……
もうニャ太郎ったら、早く出てきてよ〜っ。
私、牧野 紬。高校二年の17歳。
母とネコ一匹とともに今日この海辺の街に引っ越してきたばかりだ。
この街は母が育った街だ。母の実家は海とは離れた山の中にポツンとあるのだが、もう三年も人が住んでいなかったせいで庭は雑草だらけで部屋の中もホコリまみれになっていた。
業者に頼んで最低限のライフラインだけは整えて貰ったものの、ハウスクリーニングまでしてもらう余裕はなかった。
綺麗好きの母は少しゲンナリとした様子だったのだけれど、これから住む家を初めて見た私はというと……
「日当たり抜群だし庭もめっちゃ広い!すっごく気に入っちゃった!」
「紬ってそういうとこホントお気楽よねえ。誰に似たんだか。」
「お母さんでしょ?」
「そうだっけ?」
顔を見合せて二人して吹き出した。
突っ立っていても片付かない。車から荷物を下しますかと荷台のドアを開けたとたん、後部座席で寝ていたニャ太郎が飛び出してきた。
初めて見る景色に興奮したのか、裏庭から続く森へと一目散に走っていった。
わわ、大変だっ!
「あらあら、ニャ太郎ったらまだこの土地に慣れてないのに脱走して。」
母はそう言ってからふと考えると、まあ私も似たようなものかと小さく呟いた。
母は二十歳の時に私を身ごもった。
当時父が一回り以上も年上でバツイチだったこともあり両親からは猛反対されたのだが、母は父と二人で育てていく決意をした。
だが産む直前になって父は事故でこの世を去ってしまった。
悲しみにくれながらも母は産まれたばかりの赤ん坊を抱えて故郷を離れ、女手ひとつで私のことを育ててくれた。
母の父、つまり私の祖父は私が六歳の時に亡くなっており、祖母も三年前に他界している。
私は祖父と祖母には一度もあったことがない。結局母は、両親とは仲違いをしたままだった。
「紬はニャ太郎を探してらっしゃい。お母さんは荷物を運んどくから。」
「一人で大丈夫?身の回りのものだけだけど、結構な量だよ?」
任せなさいと腕をブンブン振り回した母は、一番大きな段ボール箱をひょいと持ち上げた。
母は看護師なのだが長年勤めていた診療所の院長が病気のため閉院することとなり、それならばと故郷へと帰ってきたのだ。
母がどんな思いでこの地に戻ってこようと思ったのかは私には分からない。
でもなにも聞かずにいいよとだけ答えた。
急な引越しで大変だったけれど、どんな時でも母は強くて頼もしい。それに美人なところも、私の自慢の母親だ。
「痛っ…!」
ギザギザとした鋭い葉っぱにふくらはぎを引っ掻いてしまった。こんなヤブの中を歩き回ると分かっていたら、生足丸出しのミニスカートなんか履かなかったのに。
それにしても五月になったばかりだというのにうだるような暑さだ。
早く見つけないと倒れてしまいそうなんだけれど、こっちで合っているのだろうか……
キョロキョロしながら歩いていると顔になにかが張り付いた。
「やだクモの巣!気持ち悪っ!」
粘つく糸を振り払っていると地面に隆起した根っこに足を取られ尻もちをついてしまった。
……………み〜つけた……………
「いっ……た〜い。もう、サイアク……」
痛さと情けなさで涙が滲んでしまう。私は母と違ってヘタレの泣き虫だ。
……て、あれ?
今、何か聞こえなかった……?
シーンと静まり返る薄暗いヤブの中。
寒気のようなものを感じながらも気にしない気にしないと唱えつつ急ぎ足で奥に進むと、眩しい日差しとともに開けた場所が見えてきた。
「これって、日本庭園?」
竹で編まれた垣根の向こうには真っ白な小石が敷き詰められ、苔の生えた大きな石や枝ぶりの見事な植栽などが曲線を描くようにして配置されていた。
中央にある池ではししおどしが心地よい音を響かせており、色鮮やかな錦鯉が優雅に泳いでいるのが垣間見えた。
見渡す限り、目を見張るほどの立派なお庭である。
俗世とは切り離された静寂と神秘的な香り漂うその空間は、なんとも近寄り難い雰囲気だった。
余程のお金持ちが住んでいるのだろう……
庶民には無縁な場所だと引き返そうとしたら、池の縁に植えられた松の木に黒とオレンジの入り交じったまだら模様のネコが乗っかっているのが見えた。
あれってまさか……ニャ太郎?
ニャ太郎は三毛猫では非常に珍しいとされているオスの個体だ。とても頭の良いネコなのだがイタズラ好きなところがある。
そんなニャ太郎が尻尾をユラユラさせながら錦鯉を見つめていた。体制を低く保ち、今にも食いつきそうな臨戦態勢である。
錦鯉って確か……高いのだとウン千万もするんじゃなかったっけ??
「駄目ニャ太郎!それエサじゃないっ!!」
不法侵入になってしまうがそれはあとで事情を話して誠心誠意謝るしかない。
庭を囲む竹垣の隙間を潜り抜けてニャ太郎のいる松の木へと猛ダッシュした。
木の下からおいでと呼んでみたのだか、ニャ太郎は飛び掛かるタイミングを計っているのか聞こえていないようだった。
これはヤバいと思い私も松の木によじ登った。ニャ太郎のいる枝まできて四つん這いになったのだが、手を伸ばしたとたん足が滑って宙ぶらりん状態になってしまった。
どどど、ど〜しよーっ!!
これじゃあまるで丸焼きの豚だ。
遠くでガラッと引き戸を開ける音がした。
「他人の家の庭でなにをやっているんだ?」
広い庭に響き渡ったのは、清明で透き通った男性の声だった。
どうやらここの住人に見つかってしまったようだ。
最悪の状況に恥ずかしすぎて顔見せできないっ。
「ち、違うんです!これにはちゃんと事情があってっ……」
「だから、なにをしているかと聞いているんだ。」
二度同じことを言わせてしまい苛立たせてしまったようだ。未遂とはいえニャ太郎の犯行を素直に自供して謝り倒すしかない。
「実はこちらの錦鯉を食べようとしていたんで捕まえようかと庭に……」
って、ニャ太郎がいない!さっきまで目の前にいたのにどこいったの?!
男から呆れたようなため息が聞こえてきた。
「つまり、おまえは錦鯉を焼き魚にして食おうと思って盗みに入ったってことか?」
とんでもない誤解だっ!!
食べようとしていたのはネコだと言おうとしたのだが、その前に腕が痺れてきた。このままでは池に落ちてしまう……
図々しいだろうけれども、先ずは助けを求めなければならない。
意を決してその声の主の方に振り向いた瞬間、ゆっくりと時が流れていくような不思議な感覚がした。
縁側の柱に気だるそうに体をもたせかけたその人は、木漏れ日の中でキラキラと輝いて見えた。
スラリとした長身、艶やかな黒髪に端正な顔立ち……
切れ長の漆黒の瞳で真っ直ぐに私のことを見つめていた。
この美しい日本庭園と見事なまでに調和した、凛とした美青年だった。
しばし惚けて見とれてしまったのだが、私はあることに気付いてしまった。
この角度からだったらスカートの中があの人に丸見えになってるんじゃない……?
たぶん……いや、今日私……
オーバーパンツ履いてない!!!
激しい水しぶきの音を最後に、私の記憶は途切れてしまった。
「真人もやるねえ。こんな可愛らしい子を家に連れ込むだなんて。隅に置けないねえ。」
「うるさい。くだらないこと言ってんならとっとと消えろ。」
話し声に目が覚めてうっすら目を開けると、天井板の美しい木目が飛び込んできた。
ぼんやりとした頭で辺りを見回すと百畳はあろうかというだだっ広い和室……どうやら私は畳に敷かれた布団の上で寝かされているようだった。
枕元には今日着ていた服が濡れた状態のまま袋に入れられている。
そうだ私……池の中に落ちたんだった。
思い出したら一気に頭が冴えてきて布団から飛び起きた。
服はちゃんと着ている、スウェットの上下だ。でもどうやって着替えたのっ……?!
さきほどの黒髪の青年と目が合った。
まさかと思い、顔がみるみるうちに真っ赤になった。
「言っておくが、着替えさせたのは女の使用人だ。なに勘違いしてんだ泥棒ふぜいが。」
呆れたように言い放たれてしまった。
変な風に勘違いした私が悪いのだが、泥棒呼ばわりは聞き捨てならない。
「違います!食べようとしてたのはうちで飼ってたネコで、私はそれを止めようとしただけなんです!勝手にお庭に入ったのはごめんなさいっ。でもっ……」
青年は私の話を遮るようにシッシッと手を振った。
なにそれっ……人が心を込めて謝ってるのにちょっと酷くないっ?
「真人は相変わらず冷たいねえ。本当は心配してずっと起きるのを待ってたくせに。」
真人と呼ばれたその青年はギロリと縁側に座る人物を睨みつけた。
そこには大輪の華々が描かれた鮮やかな着物に身を包んだ男性が煙管を吹かせながら腰掛けていた。
白銀の長い髪を無造作に結び、こちらを見つめるお顔は女性のように甘く麗らかだった。
緩んだ着物の隙間からは白い肌がみぞおちの辺りまで見えていて、男の人なのになんだかすっごく色っぽい。
この屋敷……顔面偏差値高すぎるでしょ。
「おや?真人。もしやこの子……」
着物の男性はふわりと立ち上がると、氷の上を滑るかのように音もなく近付いてきた。
いきなり距離を詰められてオドオドとしていたら、真人も私のことを探るように覗き込んできた。
「おまえ、珀が見えるのか?」
「ほぇ?」
質問の意味が分からず変な声が出てしまった。
すると突然、庭から猛スピードで現れたニャ太郎が私の前を陣取った。
珀に向かって毛を逆立て、激しく威嚇している。
ニャ太郎のこの反応って……
まさかこの人────────
私は物心がついた時から他の人には見えない恐ろしいものが見えていた。
なるべく見ないように気付かれないようにして過ごしていたけれど、それでもそばに寄って来るものがいて……
そんな時、必ずニャ太郎が助けてくれた。
今みたいに小さな体で必死になって私を守ってくれたのだ。
「とても賢いネコだ。大丈夫、私は君のご主人様に危害を加える気はさらさらないさ。」
珀はそう言うと、再び縁側までスっと下がって腰を下ろした。
「あのっ……もしかして珀さんて……?」
「ああ。あいつは幽霊だ。」
嘘でしょ?!驚きすぎて声も出せずにいる私に、珀はニッコリと微笑みながら煙管を吹かしてみせた。
今まで幾度となく幽霊に遭遇してきたけれど、こんなに普通に人間と変わらない霊に会ったのは初めてだ。
「珀はこの家に取り憑いている迷惑な地縛霊だ。」
「ありがたいご先祖様だと紹介してくれるかい?全く、真人には愛嬌ってもんが足りてない。」
本当に……幽霊なんだ─────────
背筋がゾクッとしてそばにいたニャ太郎を抱き寄せた。
「ゴメンなさい私…幽霊が苦手で……」
今まで幽霊が見えることで散々な目に合ってきた。
誰も信じてくれなくて嘘つき呼ばわりをされたし、友達が気味悪がって離れていったのも一度や二度じゃない。
母は受け止めてくれたけれど、心配させるのが辛くなってきて言うのを止めた。
ニャ太郎だけがいつも分かってくれた。
初めて会った同じ境遇の人が平気そうに幽霊と話しているのを見て、とても羨ましく思えた。
「随分と怖い思いをしてきたのだね。次からはなにかあったら真人に頼ればいいさ。だって真人は……」
「────────珀っ!!」
珀の言葉を真人が激しい口調で制した。
「俺はもう辞めるって言っただろ。余計なことを言うな!」
二人の間に一気に不穏な空気が流れた。
珀は困ったような表情を浮かべてなにか言いたげに真人の横顔を見つめていたが、そのままスウっとどこかに消えてしまった。
「おまえももう家に帰れ。誰かいないか!客人がお帰りだ!!」
色々聞きたいことがあったのに追い出されるみたいに家から出されてしまった。
立派な門構え……この門だけで前に住んでたアパートの部屋より大きいかも。
門から続く真っ白な土壁にそって五分ほど歩いていくと、母が待つ家が見えてきた。
一応これはお隣さんというやつなのだろうか。
にしても……
「あんなに邪険にしなくったっていいのに、やな奴っ……」
腕に抱いていたニャ太郎がニャ〜と鳴きながらザラついた舌で私の頬を舐めた。
励ましてくれているつもりなのだうか。元を辿ればニャ太郎のせいなんだけども。
「いい?隣の庭にはもう入っちゃダメだからね。」
私ももう行くことはないだろう。
せっかく知り合えた同じ境遇を持つ人だったのだけれど、全然住む世界が違うしそれになんだか……
自分のことには一切触れてほしくないって感じがした。