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たつきの選択

作者: 鳥宮船

 たつきは自分の考えがこれほど毎日変わる状況に戸惑いを隠せなかった。


「昨日と全く反対のことを考えてるじゃない」


 呆れるとともに思い返せばもう半年も同じことを繰り返している自分に気付いてゾッとした。

 たつきが不妊治療を始めたのはもう三年前のことになる。三十代半ばの結婚は遅かったが、それでも周りにはまだまだ独身を謳歌している人たちも多かったから、いい時期に夫と巡り合えたと思っていた。婚前には自ら民間の健康診断を受け、すべてに優良のハンコを押してもらっての門出だったので、妊娠という自然な流れにすぐに乗れるだろうと思っていた。だから数年子供のできない期間があっても夫婦二人だけの時間がとれたと喜んで焦りはなかった。


「子供ができたら二人でゆっくりするときなんて老後になっちゃうんだから。それにその時には関係性だって変わっていて、今みたいな気持ちじゃなくなっているはず。少しでも長くこの時間を楽しみたいわ」


 そのゆとりが霧散していったのはやはり年齢のゆえでであった。出産した友達にお祝いを渡しながら「妊娠、出産のときのことちゃんと覚えておいてよ! 私に助言してほしいんだから」と言う回数がやけに多く感じ始め、ふと気づいたら自分がすでに四十歳を目前にしていることに気付いた。


 乗り気でない夫を説き伏せ、夫婦共に医療機関での不妊チェックを受けることにした。検査結果が出たとき、たつきは何か改善すべき答えが見つかるのだと期待した。しかしいくつかに平均より低い数値はあるものの、異常というものはひとつもなかった。強いて言うなら、彼女の卵子の減少と年齢による質の悪化だけは避けられないものだと自覚した。


 夫は自分の精子の活発さも低めの数値で出たためか彼女のせいとは一言も言わなかった。幸いだったのは、結果が後押しとなって科学の力を借りることに夫も前向きになったことぐらいであった。


 体外受精を試みたのは合計六回に及ぶ。採卵のための自己注射も、おっかなびっくりだった初めに比べて、流れるように打つことができるようになった。痛みに耐え、初めは恥ずかしさで顔を赤らめた婦人科特有の診察台に平気で上れるようになり、採卵を繰り返し、卵子、その後の受精卵の生き死にに一喜一憂する。湯水の如くお金を使うということを中流家庭でひっそり慎ましやかに育ってきたたつきは初めて経験した。そして合計の金額が控除額を差し引いても夫の二年分の収入を超えたときに、これ以上の負担を先の見えない治療には費やせないと判断した。


 四十半ばが視野に見え始めた今、自分の前には三本の道があるとたつきは思っている。

 きっぱりと子供を持つことを諦めるか、里子を引き取るか――卵子の提供を受けるか。彼女が見つけた病院では、もし卵子提供を受けて子供が授からなければその治療費の返還が約束されていた。それを聞いた夫や夫の家族は大きな光明を見つけたように喜んだ。だが、たつきの父母は眉をしかめた。当然である。遺伝子としてたつきの家系のものは残らないのだ。


「わざわざあんたの体を使ってリスクを冒して、それで産んだ子が似てないなんておかしな話じゃない」


 たつきが夫側の両親が喜んだ話をすると、たつきの母はそれまで堪えていた冷静さに穴を開けた。たつき自身もはじめは卵子提供など「母親になりたい」という人間のエゴを現実化したものと思いこんで反発心を抱いていた。しかし、自分が産むという選択肢のためにはそれしかないとわかると、自分の中で七転八倒を繰り返して、ありえない選択肢ではなくなってきていた。


「その子がお墓参りしたときに、こっちのお墓のご先祖様ってどう思うんだろうね」


 いつもずけずけいうのは妹だ。同じ女なのだから、少しは気持ちを考えてほしいものだが、三十五を過ぎて結婚どころか恋人の気配すら全くないキャリアウーマンだから、結婚というものが自分の人生にはないと見越した達観があるのかもしれない。

 それは、子持ちの義姉が「卵子提供だったら、自分で産む体験もできるしよかったわね」とあっけらかんに言ったような考えなしの無遠慮とは違う、たつきの定まらないうずうずとした奥底の思いを先んじて言うような、鋭い指摘であった。


「でも卵子は別の人のものでも、産みの母の遺伝子を少しは引き継ぐんだってよ。だからご先祖様も……」


「少しってどれくらいよ」


「さあ……」


「さあって、あんたね。遺伝子情報の中のなんなのか、何パーセントなのかまったくわからないの?」


「一応調べたんだけどね、そこまでは載ってなくて」


 付け焼刃の情報もそれが限界だ。自分でも納得したくて、唯一卵子提供に前向きになれる情報がそれだけだったのだが、具体的な数値が出てこないのはそれが限りなく小さな範囲に留まるのだとたつきにもわかっていた。


「まだ決めたわけじゃないのよ、卵子提供を受けるって。でもあとは養子縁組か、二人でただ生きていくかっていうもので時間の制約がないんだよね。卵子提供だけはやっぱり産むわけだから若い方がいいみたいで」


「嫌だなあ。結婚してもしなくても、女はいつも時間に脅されるのね」


「男だって三十代に入った奴らは”まだ結婚してないのか”、とか専務に言われとるぞ」


 チラシを読むふりをしていた父がもそっと妹に反抗する。


「それ言う人って女性社員にはその倍以上なんか言ってるでしょ。いまだにいるのよね、そういう化石みたいな言い草の人って。まさかお父さんも同調したりしてないでしょうね?」


 妹の一睨みに父は慌てて頭を振った。娘二人を持った父親だから、女性社員にはことのほか優しいらしいが、壮年以上の男性の「昔の当たりまえ」と「今の当たりまえ」はあまりに急激に変わってしまった。父がちゃんと今良しとされる考えに切り替えられているのかはたつきにはわからない。


「……ありがとね。とにかく、一人だと冷静に考えられないし、こっちの家族の話を聞いてみたかったんだけど、なんとなく感触はわかったわ。持ち帰って、もうちょっとヨシ君と話して決めるね」


 長引かせて議論しても結論の出ないことだった。やるかやらないか、という選択をするのは結局たつき自身なのだ。でも最悪の事態を想像すると、母体が亡くなったり子供に障害があったり、その決定は何十年先にも家族を巻き込んで禍根を残す可能性があったから、一言悩みをもらさないわけにはいかなかった。


 暖かくて懐かしい炬燵から体を引き出して、たつきは鞄を手にした。たつきの頭に、自分の子宮がこんなに心地よい炬燵みたいだったら、赤ちゃんはきっとすぐに居ついてすくすく育ってくれるはずなのに、という思いがよぎる。不妊治療をしている女性は町中で子供や妊婦を見るのも辛いと聞くが、たつきは居心地よい場所を見ると自分の子宮の不甲斐なさを毎回想像した。きっと自分の子宮は検査では悪くないように見えるけど、戻された受精卵が着床を拒みたくなるほどイガイガしていたりうそ寒かったりするのだろう。カサ・ミラみたいなすべすべした壁や椅子を持っていたらいいのに。


「たつき、あんたが選んだことならお父さんとお母さんは受け入れるからね」


 立ち上がって玄関に向かうたつきに、母の声が追いついた。振り返ると何も言っていなかった父が急に代弁されてびっくりした顔で母を見ていたのが面白かったので、たつきはつい笑ってしまった。


「ありがとう。じゃあまた連絡するね」


 マフラーを巻き付けて、極穏やかに扉を閉められたのは奇跡だった。外へ出て、門を抜けるまでは唇をかみしめて我慢したが、車に乗り込む前にはもう涙が頬を伝っていた。


 なんで、なんで私はこんなに優しい両親に本当の孫を見せてあげられないのだろう。子どもは隔世遺伝することが多いという。両親と血の繋がった、似た面影の子供がいれば、私だって将来父母が亡くなった後でも彼らを思い返すことができる。でも、私がどうあがいても今残された三つの道には、一番欲しかった、そして当然手に入ると思っていたものが手に入る道はないのだ。


 どう言い逃れても自然妊娠できなかった悲しさは後から後からたつきに覆いかぶさってきた。

 しばらくそうして泣いていて、ふと寒さに気付いて顔を上げると雪がふわふわとフロントガラスに舞い落ちていた。

 冷たい車内はまるで私の子宮のようだとたつきは思った。


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