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PL - escape to the moon -  作者: siz
LITHOS Meets ORB
8/13

オーブ

 ————歌が、聞こえる。


 聞いたことのない歌だった。言語も判らない。

 意味は判らないのに、それでも不思議と心に染み渡る歌だ。

 ————身体が動かない。動かそうとするも激痛が走る。自分が生きていると判る。

 

「————っは」

 

 息をするだけでもすごく痛い。恐る恐る呼吸するしかない。虫の息とはこのことだろうか。

 

 ————歌が、止まった。


「無理をしないでください。蘇生処置を終えたばかりです。傷は全て塞ぎましたが、身体に障ります」

 

 それは機械的な物言いだった。だけど、凛とした声音。まるで宝石が意志を持ったかのよう。

 その美しい声に惹かれて、閉じていた瞼を開いた。

 

「——————」

 

 運命に出会ったと思った。


 きっと、私はこのときのために生きていたのだと、確信した。


「——————きれい」

 

 きっと、死んでしまっても。

 

 たとえ、死神に魂を砕かれてしまったとしても。

 

 この出会いだけは、離すことを許さず、抱きしめ続けるだろう。


 これが、私に与えられた運命。


 痛みを忘れて、息を呑む。

 今まで様々な美術品を見てきたが、これを上回るものはこの世に存在しないだろう。

 整った顔はそれ自体が芸術で、凛とした佇まいの中に僅かなあどけなさを残した黄金比を描いている。

 肌は白雪のように研がれている。それなのに確かな熱を持っており、瑞々しい。

 その深紅の瞳は、人ならざる(いろ)でありながら人の意志を秘め、神秘を謳っている。

 透き通る長いブロンドの髪は、金砂と見間違えるほどサラサラだ。まるでおとぎ話みたい。

 

「——————美少女だ」

 

 至極間抜けな感想が口から漏れた。間抜けにもなる。見惚れるほど美しい。

 人の理想の結晶が目の前にいる。信じられない。本当は私死んでしまっているのではないか。

 

「?」

 

 美少女は僅かに首を傾げた。間抜けな声を漏らしてしまったことが恥ずかしくなった。

 恥ずかしさが私に冷静を取り戻させた。

 

 今、私はどうなっている…………?

 

 身体は横になっている。力を入れると痛みが走るため、だらんとしている。

 それなのに頭は持ち上がっている。————なんでだ?

 美少女の顔を見る。————なんでこんなに顔が近いんだ? いや、良いものが近くで拝めてとても良いけど。

 私が横になっていて、彼女がこんなに近いというのはどんな体勢を取っているんだ? 私が床についているということは、彼女は座っているのか?

 

「まさか」

 

 後頭部には柔らかな感触。ほんのり温かい。

 

 これ。


 まさか。


 もしかして——————膝枕では?

 

 急激に顔が熱くなるの感じた。

 それはさっき覚えた恥ずかしさを遥かに上回るもの熱量だった。

 

 なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。

 どうして、こんな恥ずかしい状況に陥っている⁉

 

 彼女もなんでこんなことしてくれてんの————⁉

 

 世界を守るためです(キリッ)

 待てハラルド! 何のことだ⁉ まるで意味がわからんぞ⁉

 

 こちらの心情なぞ知らぬといった様子で彼女は口火を切った。

 

「初めまして、マスター。ガンエデンNo.03再起動を完了しました。これよりマスターの指示に従います」

 

「————はい?」


 なにを言っている。まるで理解できない。

 だが、額面通り受け止めると。

 

 私が————なんで?

 

 この美少女の————それにしても綺麗だな。

 

 主人(マスター)————どうしてそうなった。


「はあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ————ゲフっ、ゴボォ、ぐふぅぅぅ⁉」

 

 断りもなく大声を上げるという蛮行に対して、身体は痛みをもって私を悶絶させた。

 


 

「じょうきょうはりかいした。かんぜんにりかいした」

 

 嘘です。完全に苦し紛れです。まるで状況は解明できていません。

 今は美少女の彼女に頼んで身体を起こしてもらい、壁に寄りかかっている。

 部屋は白の空間。中心には開かれた大型カプセルが鎮座している。

 右手の指を動かしてみる。痛みは走るが我慢できないほどではない。普通に動く。足もつま先まで感覚がある。まだ言うことを聞かないが時間の問題だろう。

 そこで違和感に気がついた。

 右手を見る。

 

「なんだこれ」

 

 綺麗な右手だ。はめていたグローブはなくなっているがそこには傷一つない手の平があった。甲も同様だ。

 そんなはずはない。これはどういうことなのか。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 さっきの彼女の言葉を思い出す。


 ————傷は全て塞ぎましたが————


 それは、一体どうやって?

 右手だけじゃない。弾けたはずの眼球も、挽き肉を飛び散らせた左肩も、砕けたはずの全身の骨も綺麗になっている。

 普通じゃない。間違いなく、この身は異常なことが起こっている。

 

「マスター」

 

 呼ばれて、びくりとしてしまう。振り向くと私のリュックを持った彼女が立っていた。

 

「言われた通り、荷物は隣の通路に残っていました。こちらはどうすればいいでしょうか」

 

「あ、うん。ありがと。とりあえず私の隣に置いてもらっていいかな」

 

「はい。判りました」

 

 改めて彼女を観察する。やはり信じられないくらいの美貌だが、その姿は正直見る目に困る格好をしていた。

 ひと目見て、ものすごくスタイルが良いのが判る。

 身長一六〇センチの私より高い背丈でありながら華奢。無駄な贅肉はなく、すらりとしている。それでいて女としての豊満さを兼ね備えた美しく完璧な肢体。女の私でも生唾を呑んでしまう魅力がある。

 なんでそんなことが判るかというと、ずばり彼女の服装に問題がある。その美しい肢体のラインがくっきりと判る黒地のウェットスーツに似た見慣れぬ装いなのだ。豊満な胸の形がしっかりと見て取れる。とても目に毒だ。劇薬だ。

 正直に言えば————スケベすぎる。今ここに男がいなくて本当によかった。

 

「…………」

 

「あ」

 

 膝を下ろした彼女と視線が合う。無遠慮に肢体を舐め回していたことが恥ずかしくなった。

 

「え、えっと。その、名前なんだっけ?」

 

 上手い言い訳が見つからず、そんな間抜けな言葉を口走ってしまった。

 彼女はそんな様子を気にする気配もない。

 

「私の名称はガンエデンです」

 

「…………。変わったお名前だね」

 

「そうでしょうか」

 

 彼女は小さく首を傾げた。そんな仕草ですら様に見えた。

 

「マスターはホモサピエンスですよね」

 

「ああ、うん。…………ちょっと待った。なに言ってるの君」

 

「マスターの名称です。間違っていますか」

 

「広義すぎない⁉」

 

 どうしよう。この娘、どうもおかしい。

 彼女は無表情のまま、こちらの様子を窺っている。

 ————いや、これは。もしかして。喋ることを探っている…………?

 

「もしかしてマスターが言っているのは個体名のことでしょうか」

 

「個体名って…………まぁ、間違ってないか。遅くなったけど、私はリトス。リトス・アルギュロス。よろしくね」

 

 痛みを喰い縛り、彼女へ向けて右手を伸ばした。

 それを彼女は不思議そうに見た————と思う。無表情で読み取りづらいが深紅の瞳がそう語っているように見えたからだ。

 

「…………握手は嫌かな?」

 

「いえ。申し訳ありません。判断が遅れました」

 

 そっと手を伸ばしてきた。それには見覚えがあった。大事なものが壊れないように怯える手だ。

 手と手が優しく触れる。慎重にこちらの手を取った。

 ————まるで、なにも知らない子供みたいだ。

 

「こちらこそよろしくお願いします、マスター」

 

「…………」

 

 まぁ、良いか。

 

「それで君の名前は?」

 

「No.03です」

 

 突っ伏したくなった。

 でも判る。この娘、巫山戯てるわけじゃない。本気で言ってるんだ。

 

「その名前、気に入ってる?」

 

「名前は好き好みがあるものなのですか」

 

「うん、普通はね」

 

「そうですか」

 

 まただ。深紅の瞳の奥が揺れている。不思議そうにこちらの様子を窺っている。なにを喋るべきか考えている。

 

「私にはよく判りません」

 

「…………そうみたいだね」

 

 どんなに瞳の奥が揺れていても、その無表情自体は崩れない。

 その美貌が判りやすく捉えられるとはいえ、なんだか勿体ない。

 

 ふと、好奇心が生まれた。そのまま思いつきを口にしてみる。

 

「よく判らないならさ、新しい名前つけてみない?」

 

 深紅の瞳に光が宿るのを捉えた。

 喰いついた。今、確かに興味を持った。

 なんだか可愛く見えてきたぞ、この娘。

 

「名前とは新しく名乗っても良いものなのですか」

 

「うん、よくある話さ。私なんてなんか変な通り名が二つもあるし」

 

「では、お願いします」

 

「ん?」

 

 今度はこちらが首を傾げてしまう。純真な声が私を襲う。

 

「新しい名前をつけてください、マスター」

 

「…………そっかぁ。私がつけるのかぁ」

 

 確かに自分で考えてつけろとは言っていない。

 なかなかどうしてこの娘、無茶をおっしゃる。

 でも、ホモサピエンスだとか言い出す娘だ。放っておけばろくな名前にならない確信があった。

 

「名前、ね」

 

 どんな名前が良いだろうか。

 名前をつける機会はよくあるが、それは集めたガラクタに対してだ。

 こんな美人に名前をつける機会なんてお目にかかったことがない。いや、普通はありえないか。

 美人と言えば、最近出会った窓口のお姉さんが思い浮かぶ。確かエミリーと言ったか。

 エミリーは、アメリアという名前の変形だ。確か古い言葉を語源としている。

 彼女を改めて観察する。どう見ても、美しい。

 そのまま体を現す美しいという名前でもおかしくないが、ビューティーなんて響きはなんか間抜けに聞こえる。

 視線が合う。深紅の瞳。人ならざる神話の輝き。まるで磨き上げられた秘宝のようだ。

 

「秘宝か…………」

 

 ————エミリー、アメリア。

 ————深紅、秘宝。

 

 じゃあ、こんなのはどうだろうか。

 

 深紅の瞳がじっとこちらを窺っている。

 うん、判るよ。判っているよ。楽しみなんだね。期待してるんだ。


「————オーブ」


 口に出して、確信する。この名前が良い。これしかない。

 

「君は、今日これからオーブって名前だ」

 

「オーブ」

 

 彼女は、確かめるように呟いた。少なくとも嫌がっている反応ではなさそうだ。

 

「私のリトスって名前はね。宝石って意味なんだ。お揃いで良いでしょ?」

 

 宝珠(オーブ)————磨かれた宝石。深紅の秘宝。神秘を宿した形。

 こんな美人とお揃いの名前を名乗るなんておこがましいかもしれないが、名付けの約得だ。

 まるでこの美貌の独占宣言をしたみたいで優越感がある。

 一方、彼女————オーブは目をぱちくりとさせている。

 なんだこいつ、可愛いなおい。美人で可愛いなんて反則じゃないか。ずるくない?

 

「どうかな。これでいい?」

 

「はい。ありがとうございます。今これから私はオーブと名乗らせていただきます」

 

 喜びを伝える感想はなかった。まぁ、今までの態度から予想できていたことだ。

 でも、無表情でも伝わってくるぞ。君、今浮かれてるだろう?

 

 ————短い間が空いた。理由はよく判らないが気まずさを覚えた。別に悪いことなんてしていないのに。

 ええい。いいや、このまま疑問を解決していこう。

 

「オーブ。聞きたいことがあるんだけど、いいかな」

 

「はい。なんなりと」

 

 まずは、当たり前の疑問を解決しよう。

 

「オーブは何者なの? もしかしなくても古代人?」

 

 部屋の状況から察するにあの大型カプセルの中身はオーブだったことがわかる。

 あのカプセルは冷凍睡眠装置だったのではないだろうか。

 

「マスター、古代というのが判りません。今は西暦一三六二四年ではないのでしょうか」

 

「え、西暦? なにそれ。今は再生暦二一二四年だけど」

 

 聞いたことのない年号で確信する。オーブは、古代文明の人間だ。


「再生歴————それに聞き覚えはありません。私は西暦三〇一八年に封印処置を受けたため、その間の情報を有していません。ログから察するに一〇六〇六年の間に政変があったのでしょうか」

 

「いちまっ————⁉」

 

 なにそれ。嘘でしょ。一万年前といえば古代文明が繁栄していた時代とされる初期の初期だ。

 そんな大昔からこんな地下深くで眠りについていたというのか。

 一体どうしてそんなことに? それに、封印とはどういうことなのか————

 

「マスター、私はおかしなことを言ったのでしょうか」

 

「あ、ああ、いや。ごめん。驚いただけ」

 

「驚くことなのでしょうか」

 

「驚くよ。驚いたよ。すごく驚いた」

 

「そうですか」

 

 えぇ…………。もしかして古代文明では当たり前ことなのかな。そんな馬鹿なことあるか。

 次の疑問を聞くことにする。個人的にこれが一番重要だ。

 

「…………その、さ。なんで私が、その…………マスターなの? 私、そんなのになった記憶ないんだけど」

 

 そう言っていただけるのは大変光栄(?)だが、美少女を侍らせる趣味は持ち合わせていない。

 オーブは小さく首を傾げた。

 私がそれを知らないことがおかしいと言っているみたいだった。

 

「再起動実行の際、生体登録をされたはずですが」

 

「はい?」

 

 そんな記憶はまるでない。

 再起動? あのカプセルのことだよね?

 大型カプセルの方を見る。不気味な白の空間に鎮座するそれは、やはり白。

 眠りにつく寝床にはとても見えない。その中身を出してはいけない禁断の箱ようだ。

 まぁ、実際には絶世の美少女だったわけだが。

 まぁ、外に出すのは抵抗を覚えることは同意する。

 美人すぎるし————その、なんだ…………スケベな格好だし。

 ふと、カプセルの側に備えつけられた操作端末が目に入る。

 その操作パネルの表面はべっとりと赤く塗りつけられている。

 まさか。

 

「もしかして…………あれ?」

 

「はい。血液から遺伝子パターンをスキャンしています」

 

「そっかぁ」

 

 なるほど。ダイレクトな生体情報の登録方法だ。いや、馬鹿じゃないの。古代人のセキュリティ感覚は本気で理解に苦しむ。

 

「それじゃあ、マスターってどういったことなの? 君、私の召使いなの?」

 

「広義的な意味ではその認識で相違ありません。マスターには私を無制限に使用する権限があります」

 

「使用って、なにそれ」

 

 不穏な意味で聞こえた。

 まるでオーブが人ではないみたいだ。こんなにも美しい人を古代文明ではもののように扱っていたというのか。

 そんなこと、許されるのか。

 今、はっきりと頭に血が登る感覚を覚えた。

 オーブの無表情は崩れない。彼女は己の境遇を呪う様子もない。

 淡々と事実を語っていく。

 

「私にはこの惑星上に存在するテトラグラマトンが残したあらゆる施設の最上位権限があります。マスターは私を介すことでこれらの施設を使用することができることになります」

 

「…………は?」

 

 今、恐ろしい事実を聞いた気がした。

 

「えっ。施設って、古代文明が残した遺跡のことだよね? 例えばこの施設とか」

 

「はい。この施設は大半のデータは消失しているようですが、電源は生きています。現在、機能は停止していますがインフラストラクチャーの復旧はすぐにも可能です」

 

「…………マジで言ってるの?」

 

「はい。マスターに嘘はつきません」

 

「…………なんでもできるの?」

 

「はい。施設の機能範囲内でしたら」

 

 遺跡の施設を思い通りにできる。制限なしに。

 それじゃあ、まるで、マスターキーだ。

 彼女さえいれば古代文明のどんな神秘も難なく紐解くことができるということだ。

 好奇心が駆け出すのを感じた。胸がばくんと高鳴る。

 かつて父が語った空中要塞や故郷の海に眠る海底都市の謎も解明できるかもしれない。

 私の知らない場所へ行くことができる。夢が広がっていくのが判る。

 

「————って、この馬鹿」

 

 すぐにこの思いを恥じた。さっき覚えた怒りはなんだったんだ。彼女はものなんかじゃない。

 冷静になった頭で改めて考える。それでも衝撃の事実には変わりないのだ。

 

 ————この事実は、あまりにも危険だ。

 

 率直に言って、オーブの存在は現代文明にとって()()()()()()()

 遺跡を掌握できると言うことは、例えばこのジオフロントの工業プラントも当然復旧できるだろう。

 本来ならば長い時間をかけて管理システムのコアユニットを制圧、それからやはり長い時間をかけて施設の解析研究を行うことで初めてプラントの生産ラインの恩恵を預かれる。

 でも、オーブが最上位権限なるものを持っているのなら、管理システムやセキュリティは掌握できることになるし、施設の研究なんていらない。資材さえあればそのまま生産ラインを稼働できてしまう。

 手中に収まった古代からの遺産は、そのままその国の国力に直結する。特にこのジオフロントは恩恵が大きいだろう。都市機能が生きている居住区に大規模の工業プラント。生産できるものにもよるだろうが軍事拠点になる可能性もある。

 それが苦労もせず、今すぐ手に入ってしまうのなら一体どういうことになるのか。

 国家間で遺跡の発掘を躍起になり、紛争をしてまで奪い合うこの時代。古代文明の遺産を思うがままにできる彼女を手に入れた者がこの大陸の————いや、世界の覇者になる。

 

「そんなのもったいない」

 

 現代の発展方法の一端を担っている自分がこんなことを言うのはおかしな話だ。

 それでもそう思ってしまった。それは、あまりにももったいない。

 この叡智はそんなことに使われるべきではないはずだ。少なくとも陣取り合戦の火種になる必要はまったくない。

 彼女の存在は、秘匿されるべきだ。しばらくは自分の手で匿うことにしよう。

 遺跡で見つかったものを勝手に扱うのは協定違反だが、彼女は遺物なんかじゃない。人なんだ。

 師匠も許してくれるだろう。っていうか、むしろそうしないときっと怒るよあの人。最悪それこそ師匠の力を借りればいい。

 誓うように、右手を握りしめた。


 ————右手。

 

 最初に覚えた違和感が帰ってくる。

 そういえば、この身は異常な状態だったのだ。

 

「ねぇ、オーブ。君が私の手当をしてくれたんだよね。それはどうやって…………?」

 

「ラハトスキルによる復元です。マスターは瀕死状態にあったため私の判断で実行しました」

 

 ————これが、ラハトスキルだって?

 そんな馬鹿な。馬鹿なことがあるか。死に体を回復する術なんて聞いたことがない。

 普通、ラハトでできることなんて簡単な止血ぐらいだ。ほんの一握りの医者が血流操作できるとかどうとか聞いたことはあるが、そんなもんじゃない。

 それが。こんな。

 

 失くなったはずの右手が。

 

 挽き肉になったはずの肩が。

 

 砕けたはずの骨が。

 

 なくなるはずがない。

 ありえない。おとぎ話じゃないんだぞ。

 

 おとぎ話。

 

 もしかして、そうなのか?

 

 ラハトスキルで引き起こされる奇跡の規模は、使用者のラハト保持量に比例する。

 オーブには、人智の及ばないほどの————


 ————くらり。


 強い目眩がした。汗が吹き出す。身体が悲鳴を上げている。

 原因は判っている。傷がなくなっても本調子ではない。全身を走る痛みに、明らかに血が足りていない。

 扉の向こうから操作端末までの道のりが赤く染まっている。あれだけ血を失ったのだ。平気なはずがない。

 今は、少しでも食事を摂って休むしかない。

 リュックへ手を伸ばす。全身を走る痛みに耐えながら食事の支度をする。

 クッキー生地のブロックレーションと…………そうだな。虎の子の缶詰スープも出そう。美味しいものが食べたい。

 携帯電気コンロの上に缶詰を置く。

 このメーカーの缶詰は特製でなんと鍋の機能を有している。手に持つことも考慮されており、上部は熱くならないようになっている。軍人から冒険家までこよなく愛されている食料品だ。

 温まるまでしばらく待ってから満を持してプルタブを開放した。

 クリームの芳醇な香り。具沢山で野菜と肉がごろごろと見える。これで黒胡椒でもあると最高なんだけど。

 

 ごくり。

 

 こんなにひどい体調でも、食欲が沸き立ってきた。でも、まだ我慢だ。二つ目の缶詰をコンロの上に置く。

 

「オーブ、先に食べていいよ。私はレーション齧って待つから気にしないで」

 

 オーブは不思議そうに缶詰を見つめた。匙を取る気配はない。

 もしかして、古代人から見てこれらは食べものではないと思われているのだろうか。

 うーん、一体なに食べてたのだろう古代文明。

 

「その、ごめん。簡素なものしかなくて」

 

「いえ。そうではありません。私は本来食事を必要としないのです」

 

 驚くことを言う。

 すごいな古代文明。どうやって生きてんの。

 

「でも、食べられるんでしょ?」

 

「はい」

 

「じゃあ、食べてよ。私一人だけ食べるなんて居心地悪いんだ」

 

 ブロックレーションを開封して押しつける。

 オーブは受け取ったそれをしずしずと口にした。

 もぐもぐ、もぐもぐ。頬が少し膨らむ。

 小さな口で食べる様はまるでリスのよう。深紅の瞳が輝いた。

 このブロックレーションも結構いける品だ。激しい持ち運びを考えて焼き締められているが口に含めるとほろりと崩れる。今回はバターのフレーバーだがフルーツやチョコレートのフレーバーも人気だ。

 次にオーブは缶詰に手を伸ばした。困ったことに手持ちのスプーンは一本しかない。彼女が食べ終えてくれなければ次に私が食べられない。

 白濁のスープをすくう。スプーンの上には具の野菜が乗っている。それを深紅の瞳でまじまじと観察してから口に含んだ。

 

「あ」

 

 止められなかった。オーブは綺麗な顔をわずかにしかめた。そりゃあ、そうだ。熱いに決まっている。

 

「熱いです」

 

「馬鹿、火傷するでしょ。ほら水飲んで」

 

 水筒を渡す。小さな口で水を含み、こくこくと喉が動いた。

 

「ありがとうございます。ですが、これはどうやって食べればいいのでしょうか」

 

「そりゃあ、冷ましてから食べるんだよ」

 

「?」

 

 判んないのかい。

 

「ああ、もう。ほらそれ貸して」

 

 缶詰とスプーンを受け取ってスープをすくう。

 ふー、ふー。

 これくらいでいいだろう。

 

「ほら、口を開けて。あーん」

 

 スプーンをオーブの口へ運ぶ。

 

「あむ」

 

 あむ。

 あむって、なんだ。可愛いかよ。

 オーブはスプーンについたスープを一滴たりとも逃すことなく舐め取る。

 その仕草がすごく艶めかしく見えた。

 そこで気がついた。

 いや。なにが、あーん、だ。なんでこんな恥ずかしいことやってるんだ私は。

 顔が熱くなるのを感じた。

 

「ほ、ほら、判ったでしょ? この調子でちゃっちゃと食べちゃって」

 

「はい。いただきます」

 

 味が良いといっても所詮温めただけの缶詰だ。ものすごい美味ではない。

 それでも。オーブは黙々と食べ進めていく。

 無表情は崩れない。しかし、深紅の瞳はさっきより輝いていることが判る。知らないものと出会った。そういう目だ。

 小さな口で精一杯頬張る姿は、好物を独り占めする子供のそれ。

 安心してほしい。取り上げたりなんかしないよ。

 

 …………しかし、だな。

 

 小さな口へ運ばれるスプーンを見る。

 使い慣れていないのだろう。相変わらず艶めかしい。実はわざとやってない?

 

 ————あれ。この後、私が使うのか。

 

 今までで覚えたことのない、妙な罪悪感に駆られた。

 これって私が悪いのだろうか。




 食事を終えて、無機質な白の床へ横たわる。

 未だ身体には痛みが縦横無尽に走り回っている。それでも横になるだけで随分と楽だ。

 

「はぁ…………」


 漏れたため息の理由は一体どれに対してなのか。

 地の底で人知れず死に絶えるかと思いきや、絶世の美少女に介抱されて、古代の遺産を好き勝手できると来た。

 馬鹿も休み休みにしろ。昨今のB級映画でももう少し設定をひねるぞ。


「でも、B級映画にはもったいないヒロインだよなぁ。ここで絶対予算使い潰してる」


「それはどういった意味なのでしょうか、マスター」


「戯言だから気にしないで」


 彼女の存在は劇薬だ。取り扱いを間違えるだけで世界は滅ぶかもしれない。

 …………劇薬だとか、取り扱いだとか、例えをしたのは私だが、人間らしい扱いができないことに情けなくて怒りを覚えてしまう。

 オーブは、人だ。人として振る舞う権利があるはずだ。都合の良い道具であっていいはずがない。


「私がなんとかしなくちゃ」

 

 オーブを探し出したのは、間違いなく私だ。責任は私にある。

 世界平和なんていった綺麗事のためではない。一人の少女の運命を預かっている。その責任だ。

 私が見つけ出したせいで不幸せになるなんて、そんなこと許してたまるものか。

 少なくとも世間に怯えず暮らしていける環境を用意してあげられればいいのだけど。…………えっと、戸籍の偽造ってどうやればいいんだろう。

 いや、一箇所に留まっているのは危険かもしれない。となると、私の旅路に付き合ってもらう…………? 待て待て、彼女を連れて遺跡探索なんてしたら真っ先にバレるじゃないか。

 おかしい。ここには月への手かがりを求めてやってきたはずなのに、話はそれどころではない。夢は遠くかけ離れてしまっていないか?

 この状況で月へ行くだなんて絶対に無理だ。頭が痛くなる。実際、身体中は痛くてたまらない。

 

「オーブ、私は一寝入りするよ。君も楽にしていて」

 

 私のその言葉を聞いて、彼女は近づいてきた。そして私の頭上に座った。

 なんだろう。

 すごく。嫌な。予感がする。

 

「マスター、どうぞお使いください」


 両手を広げる仕草。

 はい、どうぞ。

 そう言うジェスチャーだった。それはオーブの膝の上を指し示している。

 

「…………マジで言ってる?」

 

「おかしいでしょうか」

 

 おかしい。すごくおかしい。

 

「参考までに聞くけど、なんでそうしようと思ったの?」

 

「教育プログラムから、マスターが眠るためにはこうするものだと聞いています」

 

「どんな教育してんの古代文明⁉ 邪じゃない⁉」

 

 しかし、オーブはそんなツッコミを気にも留めない。

 はい、どうぞ。

 その姿勢は崩れることがない。

 深紅の瞳は揺るがない。有無を言わせぬ視線。自分の行いに間違いはないと確信している。

 どうして。そんな。教えを。したの。

 

「…………」

 

 判った。判ったよ。だからそんな無垢な瞳で見つめないで。私が悪いみたいじゃんか。

 恥ずかしさを押し殺して膝枕に甘んじる。

 

「————やわらかい」

 

 冒険一筋の自分にはない女らしいやわらかさ。温もりを感じる。

 いや、私だって最低限おしゃれには気を使っているつもりだ。だって師匠が怒るんだもん。散髪は一ヶ月に一回必ず行っているし、『うるふかっと』のためにヘアアイロンの使い方も覚えた。

 馬鹿なことを考えていたら睡魔が襲ってきた。こんなに心地がいいんだ。よく眠れることだろう。

 意識が離れていく。瞼が落ちていく。

 視界からあの瞳が外れることが怖いと思った。子供みたいだ。


 こうして命知らずの冒険者とミステリアスな少女の邂逅は、ここに果たされたのであった。


 

   +   +   +   +   +   +   +   +   +


 

「まさか遺跡の中で熱いシャワーを浴びられるとは思わなんだ…………」

 

 新品のタオルで濡れた髪を拭く。身体はタオルを羽織っているだけ。服は洗濯中だ。開き直って下着まで洗っている。

 数日の間、当たり前のように遺跡に潜るレリックハンターは正直、臭う。らしくないとはいえ私も女だ。汗の匂いくらい気にはなる。せっかくの機会だ。逃す理由にはならない。


「オーブはまだ探しものかな…………」

 

 ぺたぺたと素足でシャワールームを出た。

 ここは一九階層にある工業プラントの居住スペースだ。

 オーブとの出会いから三日が経った。痛みは落ち着き、身体は少し動かせるようになったが全快とは程遠い。

 しばらく遺跡の中で過ごすしかなかったが、とてもじゃないが食料が足りなかった。

 頭を悩ませているとオーブがここへ来ることを提案したのだ。

 

 ————恐らく食料も快適な寝床もあります。この固い床は身体に障ると思います————

 

 最初は賛成できなった。

 わざわざセキュリティの生きている施設へ赴くなんて自殺行為だからだ。

 でも、確かめなければならないことがあった。

 ————オーブの能力を。

 彼女の言葉を信じるのならセキュリティを無効化できる。

 そして、それはあっさりと叶った。呆気なかった。

 あの銀のロボットが数体姿を現したときは死を覚悟したが、ロボットはオーブにかしずき、ここを案内してくれた。

 オーブの能力は本物だった。


 ぺたぺたと無人のプラントの中を進んでいると、噂のロボットと出会した。

 どうやら哨戒中だったらしい。頭部のセンサーがこちらをじっと見つめてきた。

 

「…………なんだよ」


 ロボットは応えを返さない。恐らく外部に音声を発する機能はあるはずだが沈黙を貫いている。

 遺跡を保全する管理システムは、高性能AIを搭載したコアユニットを中心に構成されており、このロボットもその手足の一つだ。つまり、今この瞬間、管理システムはロボットのセンサーを通してこちらを覗いているはずだ。

 一部の例外を除いて、彼らAIは現代人に友好的ではない。現代人は遺跡に無断で侵入する外敵…………下手するとネズミと同じだと思われているかもしれない。レリックハンターにとってはたまったものじゃないが、これも貴重な過去の遺産に違いはない。彼らのコアユニットは制圧次第、書き換えられて現代文明に貢献することになる。このジオフロントみたく一つの街の運行はできるし、無人兵器の統率も当たり前にこなす高性能AIだ。需要はいくらでもある。コアユニット制圧を専門にするレリックハンターグループもいるくらいだ。


『————————』

 

 睨み合いの果て、ロボットの方から視線を外した。その巨体に似つかわしくない静音で歩み出し、私の隣を通り過ぎていった。


「?」


 なんだったんだろう。なにもなかったのならさっさと立ち去ったはずだ。管理システムは私になにか用があったのではないか。


「まぁ、いいか」


 なにも言わなかったのなら、やはりなんでもないのだろう。

 気を取り直して、プラントの中を進む。

 

「オーブ、食料あったー?」

 

 目的地————プラントの食堂スペースに顔を出す。

 何百席以上もの椅子が並んでいることからここで働いていた人の数が知れる。

 しばらくして奥の調理場からオーブが姿を現した。

 

「はい。食料パックが保存されていました。真空処理されているので問題なく摂取できるはずです」

 

「やった。オーブ、ありがと!」

 

 ぺたぺたと近づき、食料パックとやらを覗きこむ。とても種類が豊富だ。

 

「おおー。色々あるなぁ。牛に豚に鶏。羊なんかもあるんだ。魚もあるし。野菜どころか果物まで。…………え、マジ? アイスクリームあるの?」

 

 調味料も残っている。数千年前の食材とはいえ、これは数日ぶりに美味しい食事が楽しめそうだ。わくわくしてきた。

 

「ちょうど風呂上がりだし、アイス食べちゃおーっと」

 

「マスター」

 

 深紅の眼差しが突き刺さる。なにかを訴える瞳。

 

「なぜ、裸なのですか?」


 至極真っ当な質問を投げかけられた。

 

「…………えっと。オーブしかいないから、いいかなって」

 

「…………」

 

 無言が心に突き刺さる。判る。今、おかしな生きものだと思われてる。

 いいじゃんか! そっちだって裸みたいなもんじゃないか! ずるいって!

 ————あっ! もしかしてさっき管理システムが黙りこんでいたのってこれか⁉ AIにも変なヤツだと思われたのか私⁉

 

「オ、オーブもシャワー浴びてきたら?」

 

「食事はどうされるのですか」

 

「流石にこのままじゃ食べられないでしょ。私が料理するからその間にシャワー浴びておいで」

 

 オーブが私と食料パックを見比べる。なんだろう。変なこと言ったかな。

 もしかして、料理ができないと思われてるのかな。

 失礼な。確かに私は女らしくないが、食には並々ならぬこだわりを持っている。

 よし、決めた。この娘が驚くようなメニューにしてやる。その無表情、崩してくれる。

 

「裸で調理されるのですか?」

 

「…………」

 

 エプロンくらい探してからやろうか。うん。


 

   +   +   +   +   +   +   +   +   +

 

 

 マスターに促されて、シャワールームへ来た。

 脱衣所に立つ。

 シャワー。身体を清潔に保つ行為。こんなことをしなくともラハトを使えば清潔になることができる。

 それにセラフスーツを脱ぐことには抵抗を覚えた。セラフスーツは私の能力を補助してくれている。仮になかったとしても性能が著しく低下するわけではないが、いざという時、マスターを守ることに支障をきたすかもしれない。

 ————しかし、マスターの指示だ。従おう。

 首元に隠されていたスイッチに指を置く。生体コードを読み取って、ロックが解除された。

 セラフスーツを脱いだ。素肌に冷たい空気が触れる。あとはシャワーを浴びるだけだ。

 パネルを操作する。温水が頭へ降りかかる。

 

「————あ」

 

 温かい。温もりが肌を打つ初めての感覚。水が身体中を伝っていく。知らない感覚たち。

 この感覚はなんと言うのだろう。嫌なものではない。心地が良い、と思う。

 

 ————ああ。そうか。

 

 これが、気持ちが良いというものなのか。なるほど。これは悪くない。

 教育プログラムの教えだけでは得られない感覚だ。現実世界は新鮮だ。私の知らないことは多いようだ。

 肌を打ち、伝っていく様子だけでもとても新鮮だ。頭では当たり前の事象だと理解しているのに、思わず目を見張ってしまう。

 

「…………」

 

 新鮮と言えば、マスターのことだ。テトラグラマトン以外の人間とは初めて出会うことになった。

 再起動を終えた私の目の前には瀕死のマスターがいた。そのこと自体にも驚いたが、目を覚ましたマスターは率直に言っておかしな人だと思った。教育プログラムを通してでしか他人を知らない私がこんなことを言うのはおかしな話かもしれないが、素直な感想だと思う。

 私は、ガンエデンという端末にすぎない。テトラグラマトンに許可された権限こそ持ち合わせているが、生体登録をしたマスターに隷属するための存在。私とマスターは明確に立場が違う。

 それなのに、どうやらマスターは私を対等に扱おうとしている節がある。そんなことをする必要はないはずなのに。


 ————変わった、お名前だね————

 

 ————私はリトス。リトス・アルギュロス。よろしくね————

 

 ————よく判らないならさ、新しい名前つけてみない?————

 

 ————君は、今日これからオーブって名前だ————


「————オーブ」


 自然と口に出たその名前。

 私の名前。新しい名前。初めての名前。お揃いの名前。

 

 これも教育プログラムからは教わっていない。新しく覚えた感覚。この沸き立つ感覚の名はなんと言うのだろう。

 胸の奥が熱くなるような。足の裏がむず痒くなるような。この落ち着かない気持ち。正体は判らないが、不思議と不快ではない。

 ただただ、理解することができない。感情の種類については学習が済んでいるのにも関わらず、該当するものには心当たりがない。

 正面の鏡に、私の姿が映っていることに気がついた。

 水滴が伝う曇った鏡面を手で拭うと、初めて自分の顔を見ることになった。


「?」


 不思議な顔、現実世界で初めて目にした顔の感想はそれだった。

 どうしてこんな顔をしているのだろう。この落ち着かない気持ちに関係があるのだろうか。

 やはり、今の私には判らなかった。

 

 

   +   +   +   +   +   +   +   +   +

 

 

「オーブ、遅いな。長風呂なんだな」

 

 オーブがここを離れて一時間半近く経過していた。まぁ、三日間も身体を洗えなかったのだ。時間もかかるだろう。

 私の方は無事コックコートが見つかったのでそれを纏って料理に取りかかり先ほど無事に完成した。

 慣れないキッチンで少し不安だったが、なかなかの自信作だ。母直伝の味を喰らわせてやる。

 

「マスター、ただいま戻りました」

 

「ああ、おか…………え、り」

 

 髪をびちゃびちゃに濡らしたオーブがそこに立っていた。ぽたぽたと水が滴り落ちる。

 

「なにやってるの⁉ ちゃんと髪拭きなよ!」

 

「?」

 

「ああ、もう。ほらタオル貸して。そこに座って」

 

 オーブを席に座らせて丁寧に髪を拭く。ああ、もう。せっかくの綺麗な髪なのに。

 拭いていて違和感に気づく。どうも様子がおかしい。

 

「オーブ、髪洗った?」

 

 シャンプーの香りがしない。確か備えつきのものがあったはずだ。

 

「髪とは洗うものなのですか?」

 

「…………嘘でしょ」

 

 お風呂に入れるなら私だってしっかり洗うのに、この娘恐ろしいことを言う。

 

「まさか、洗い方が判らないとか言わないよね?」

 

「髪とは洗い方があるものなのですか?」

 

 おおぅ。これは重症だ。

 

「マスター」

 

「なに」

 

「もしかして身体も洗うものなのですか?」

 

「マジで言ってる?」

 

 思わず語気が強くなってしまった。

 なにをしにシャワーへ行ったんだ、君は。

 はぁ、仕方がない。

 

「食事が終わったらもう一回シャワーね。一緒に入って教えてあげるよ」

 

「判りました。お願いします」



 

 居住スペースのベッドの下に辿り着いた。

 結果から言うと、完全に私の敗北で終わった。

 

 まずは食事だ。

 オーブは明らかに食事という行為に不慣れだ。ならば強烈な印象を受ける料理が良いと思った。

 ハーブとスパイスが効いた料理————ずばりカレーだ。ラム肉のカレーを作った。ナンまで焼いた。

 会心の自信作だった。この料理は、店で出せるレベルだと師匠からも褒められた絶品だ。

 でも、ダメだった。

 いや、反応が悪かったわけではない。むしろ美味しく召し上がっていた。

 でも、明らかに反応が違った。あの缶詰の方が目を輝かせていた気がする。缶詰に負けるなんて思わなかった。

 

 次にお風呂だ。

 なんで最初に気づかなかったのか自分を責めた。

 一緒に入るということは、裸を見るということだ。

 あのウェットスーツ姿ですらどうかと思っていたのに、自ら地雷を踏みに行った。爆散した。

 本当に馬鹿だった。————すごく、綺麗だった。

 洗うのも地獄だった。いや、天国だった。

 あの背中まである金砂の髪を洗うのは楽しかった。

 あの確かな熱を持った白雪の肌をこの手で泡だらけにしたのは————すごく、興奮した。

 浴室から出た後、死にたいと思った。

 でも、風呂上がりのアイスクリームを頬張る姿を見て、生きていて良かったと思った。

 本当に馬鹿じゃないの。

 

「…………私、死にかけておかしくなっちゃったのかな」

 

「どうかしましたか」

 

「気にしないで…………オーブは何も悪くないから。私が全部悪いんだ」

 

 もう寝よう。寝て全てを忘れよう。

 ベッドへ潜りこむ。クリーニングした上で真空保存されていた毛布は思っていた以上にふかふかだ。推定数千年前のものとは思えない。

 オーブが隣へ潜りこんでくる。特別広いベッドではない。流石に窮屈だと思った。

 ちょっと待て。

 

「なんでやねん」

 

「どうかしましたか」

 

 間近には深紅の瞳。近い近い。顔が近い。

 

「なんで同じベッドなの⁉ そっちにもベッドあるじゃない⁉」

 

「マスターとは近くで過ごすものだと教わりました。私はマスターのそばで眠ります」

 

「そばすぎない⁉」

 

「おかしいでしょうか。昨日までマスターは私の膝の上で眠っていましたが」

 

「いやいやいやいや」

 

「いけないでしょうか」

 

 うっ。その目はずるい。その無垢な目は反則だ。

 そんな目をされたらダメだなんて言えないじゃないか。

 

「…………判ったよ。好きにして」

 

「ありがとうございます」

 

 でも、正直狭い。

 

 …………。

 

 ————ええいっ! どうせ寝て忘れるならとことんまでやってやらぁ!

 

「オーブ、ちょっと起きて」

 

 一度起き上がってから改めて横になり、片腕を横へ伸ばした。

 オーブはそれを不思議そうに見ている。

 

「オーブ、ここにおいで」

 

 伸ばした腕を叩いて促す。腕枕だ。これなら狭くない。

 

「私が枕でなくて良いのでしょうか」

 

「その手もあったか。————いや、良いよ。おいで」

 

 オーブが恐る恐る頭を委ねてくる。

 うっ、これはなかなか…………。

 

「マスター、辛いようでしたら代わります」

 

 すぐにバレた。情けない。人の頭とはこうも重たいものなのか。知らなかった。

 

「いや、平気だよ。ああ、でも、もうちょっとこっちに寄れる? そう、その位置」

 

 頭の位置は腕の上というより最早肩の上。

 肩枕だ。いや、胸枕か? 頭は、ちょうど鎖骨の下辺りに収まった。これなら平気だ。

 良い匂いがする。同じシャンプーを使ったはずなのに私と違う匂いがする。

 オーブの温もりが伝わってくる。とても心地が良い。

 オーブの鼓動が伝わってくる。彼女にも私の鼓動が聞こえているのだろうか。

 ひどく落ち着く。こんなこと初めてなはずなのに。今までずっとこうしてきたみたい。

 あるべきものが、今、ここにある。

 

「オーブ、おやすみ」

 

「はい。マスター、おやすみなさい」


 追伸。

 確かに寝れば忘れるが、起きた時に思い出す状況なら意味がないぞ。

 本当に馬鹿じゃないの。

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