05:ドラゴン的ポテンシャル
「うお……!」
重い扉が開いた途端、隙間から外の光が差し込んで来た。
ハルトは咄嗟に目を閉じて、両手で顔を覆う。暗い場所に慣れてしまった彼の目には、その光はあまりに刺激が強過ぎた。
「それではお外へご案内ー! ……あり? どうしました変態さん、大丈夫です?」
「ん、だいじょび。ちょっと目が潰れただけ」
「潰れてしまったのなら好都合なのです! その眼球、今すぐ抉り取ってパーシェの研究室に持ち帰ってもいいですかね!?」
「怖過ぎるわ!」
「まあまあ、そう焦る必要はないのです。知ってるですか? ドラゴンの尻尾は引き千切ってもまた生えてくるのですよ?」
「知らねえよ!」
尻尾と目玉を比べるな。あと人間とドラゴンも比べるな。
魔獣の底知れないポテンシャルを人間に求めないで。
「ドラゴンの尻尾は引き千切ってもまた生えるかどうか知らんけど! 僕の目玉は抉り取っちゃったら何というかもう、何もかもがおしまいだよ!」
「まあまあそうおっしゃらずに。どうです? ここは先々への投資と思ってぜひ」
「先々もクソも文字通りお先真っ暗になるわ!」
とまあ。
そんなやり取りを交わしながら、眼球を毟り取ろうとするマッドサイエンティストを傍らに、ハルトはようやく外の世界へと戻って来たのだった。
目の前に広がる、石畳の世界。
見渡す限りに立ち並ぶ、摩天楼のような建築物の数々。
建築学の心得があるわけじゃないが、これは素人でも見ただけで分かる。石材木材の組み合わせ方、貴重な金属の奮発具合。ここの建物はどれもこれも、間違いなく一級品だった。
ここは本当に学園なのか?
その景観は学び舎というより、小さい『町』を連想させた。
「うーお……」
空に浮かぶ太陽の角度からに察するに、どうやら今は昼間らしい。
それはつまり、自分は牢屋の中で丸一日眠り続けていた事を意味していたが、しかしそんな衝撃的事実が霞んで見えるほどに、目の前の景色は壮観であった。
「というわけで変態さん! パーシェの方からご紹介しますですぅ!」
自慢の豪邸を見せびらかすように、パニシェイラは満面の笑みで、
「ようこそ! 我らが学園、王立シルフィール異能学園へ!」
ゴージャスな町並みを背に、彼女は声高らかに、その名を告げたのだった。
……両手を枷で拘束されたハルトからすれば、少なくとも歓迎感はゼロに等しかったが。
***
「はぁー……すっご」
豪華絢爛―――まさにそんな言葉がぴったりの、国中の職人を集めて造らせた王宮のような建物だった。
実際、ハルトの目には、床も、壁も、天井すらも、すべてが輝いて見えた。
もとの建物だけでも煌びやかなのに、それを彩る装飾品にも余念がない。床の赤い絨毯。壁に掛けられた美麗な絵画。一定間隔で置かれた精巧な石造。全てが圧巻だ。これが『ただの廊下』だと言うのだから、さすがは世界トップクラスの異能学園。侮れない。
「この学園の子達、毎日こんな場所を当たり前みたいに歩いてるのか……」
豚小屋みたいな自宅で日々を過ごす農民のハルトからすれば、もはやここは人間が生活して良い場所ではないような気さえした。
いっそ神様とか天使とかが、下界の愚かしさを会話のネタにしながら渡り歩いている方が、よっぽど『それらしく』見える。
「ここ、本当に学校だよな?」
あまりの規格外っぷりに、思わずハルトは、目の前の『少女』にそう尋ねていた。
問われた『彼女』はハルトの方を振り向きもせず、
「ええ、その通りですよ。変態クソ虫様」
容赦なく、答える。
「こちらは特異技能に覚醒したお嬢様方が、学業を営む『講義棟』でございます。本来であれば、あなたのような社会の底辺が足を踏み入れる事も叶わぬ聖域です。この神聖なる領域を、その腐った豚の亡骸のような節穴に刻み付ける事ができる幸いを、心から感謝すべきかと」
「ぼ、暴言の限りを尽くしてるね……」
「当然です。我らが姫様を辱めた大罪人ともなれば、むしろ口を利く事すら躊躇われます。しかし私は慈悲深いため、あなたのような下衆の吐いた唾にも、真摯に向き合っているのです。その事に関しても、あなたは感謝をするべきです」
「……僕の心が、君の言葉で粉々に切り刻まれている件に関しては」
「おや? 野良犬の糞尿のごとき下等生物にも、我らが主は心という上級概念を賜っていたのですね。申し訳ございません、失念しておりました」
「失念しているのは僕への配慮だ!」
ハルトは両手首を鉄枷で拘束され、そこから伸びる鎖に引っ張られるようにして、豪華な廊下のど真ん中を、家畜の如く連れ回されているのだった。
手綱を引くのはパニシェイラではない。
バトンタッチでハルトの連行を引き受けたのは、綺麗な緑の髪を可愛らしく揺らす、十歳程度の幼い少女だった。
つまり、『幼女』である。
しかもただの幼女じゃない。
何よりも注目すべきは、彼女がその身に纏う衣服だ。
白と黒のシンプルなデザイン。全体的にふんわり柔らかそうな構造。単調にも見えるが、決して誰でも似合うというわけではなく、きちんとその衣装に見合うだけの気品と清潔さが要求される意匠。
まさに洗練された一つの美。豪奢の反対、清貧の美を弁えたその姿。
要するに、メイド服なのだ。
メイド……そう、メイドである。
幼女メイドである!
そう言うと、なんだか変態じみたニュアンスがあって少し興奮―――
「変態覗き魔のクソ野郎様。なにやら身の毛もよだつようなご想像をなさっている気配を感じるのですが」
「ぎく」
まさか言い当てられるとは思ってもみず、ハルトはドキリとする。
そして咄嗟に嘘をつく。
「し、失礼極まりない想像だって? おいおい何を言っているのやら、僕にはまるで見当もつかないよ」
見当しかない奴のセリフである。
「まるで健全を絵に描いたような僕が、そんな事をするわけがないじゃないか。その気配は錯覚だよ。超錯覚」
「素直に真実を吐いていただければ、苦しむ事なく死刑に処してさしあげますが」
「心遣いありがとう。僕も苦しまずに死ねたら本望だけど、しかし事実は偽れないからね。君の姿に失礼な想像をするなんて、全くあり得ない。もしもそんな事をする奴がいるとしたら、僕が懲らしめてやりたいくらいさ」
幼女メイドに興奮していた奴のセリフである。
これで誤魔化せたとは思ってないが、それでも先に一歩引いたのは幼女の方で、
「そうですか、それは大変失礼いたしました。私の勘違いだったようです。……ところで提案なのですがクソカス様。この鉄枷を外して差し上げますので、今すぐ元の独房に戻り、文字通り首を括ってみてはいかがでしょう?」
「そんな軽快に自害を提案しないで」
優しく滑らかな声で、この毒舌である。
思い返せば、この幼女は初めからこの調子だった。
自分を呼び出した姫様の許へと向かうため、パニシェイラに地上へ連れ出されてからだった。
王立シルフィール異能学園の校舎まで案内されると、そこに待ち構えていたのがこの幼女だったのだ。
初めて顔を合わせた時こそ、大人しめの可愛らしい女の子だと思ったのだが、蓋を開けてみると……ではなく口を開けてみると、予想外にこの有様である。
ちなみにパニシェイラは、ハルトをこの幼女に託した後、
『というわけで! これからパーシェは手に入れた実験結果をさらに深めるため、研究室に戻るのですよ! さらばなのです変態さん! あなたから貰った貴重なデータ、決して無駄にはしませんです! この新鮮な記憶が薄れる前に早く論文としてまとめなくては! 神秘への道に終わりはないのでーすよーう!! ひぃぃぃぃぃやっほおおおおおおおおおおおおう!!』
とかなんとか言って、どっかにすっ飛んで行った。
自分の体からどんなデータが取れたのだろう。そして自分は、何を盗られてしまったのだろう。
あまり想像したくない。
「まったく……彼女は僕から、とんでもないものを盗んで行ったみたいだ」
特に意味もなく、格好を付けて呟いてみる。
それに対して幼女は「は?」と。
「何をおっしゃっているのですか? 盗まれたのは私の貴重な時間です。これでも私は学園に仕える身、あなたのようなクズ肉に構う暇もないほど数多の業務を抱えているのです。一分一秒が惜しいのです。にも拘らずこんな下劣な動物の手綱を引くなどと汚れ仕事を押し付けられるなんて……従者の身とは言え、屈辱の一言です。今すぐ舌を噛み千切ってくださいませんか?」
「そんな丁寧に自殺を頼まれたのは初めてだよ」
そして幼女メイドに罵倒されたのも初めてだ。
なんてことだ、今日は初めてばかりじゃないか。ハルトが守り続けた色んな『初めて』が、この数分で一気に失ってしまったではないか。
「恐るべし、シルフィール異能学園……!」
「また寝言でもおっしゃいましたか?」
「あいや、ごめん、なんでもない。気にしないで」
「そうですか。……死んでください」
「僕、なんだか君と話すが楽しくなってきた」
駄々洩れなのだ、心の声が。もっと抑える努力をしろ。
まさかこの子、学園の生徒にも同じ態度なのか?
それでいいのか? 仕えてる身なのに。
「……ねえ、さっきから訊こうと思ってたんだけど―――」
「はい、あなたの処遇ですね? 満場一致で死刑です」
「僕の意見は含まれてないのに満場一致とは?」
「含めてもらえるとお思いですか? 傲慢です、身分を弁えてください。我らが姫様に仇を成した罪、死をもって償う他に道などございません」
――――また姫様か……。
パニシェイラの時もそうだったが、どうやらその姫様という呼び名……単に一国のお姫様だからというだけではない。この学園でも相当な支持を集めている事にも起因しているようだ。
「いや、だからそうじゃなくて……処遇も気にはなるけど……それよりも、僕は今どこに連れて行かれてるんだ? 姫様が僕と会いたがってるらしいってのは、パーシェちゃんから聞いてるけど……」
と、その時だった。
無言のまま、名も知らぬ幼女メイドの足がピタリと止まる。
「ん?」
ハルトも足を止める。
豪勢な廊下のど真ん中で、変態の少年とメイド服の幼女が、無言で静止する。
「……え、なに? どしたの?」
思わず身構えるハルト。
しかし、一方の幼女はやはりなんでもなさそうな調子。無表情のまま、クルリとハルトの方を振り向いた。
そして、二人は真正面から見つめ合うと、
「えい」
直後だった。
ズッッッパァァアアアアアアアアアアアン!!!!!! と。
冗談みたいな大音響と共に、幼女の『平手打ち』が炸裂した。
明らかに異常な威力。どう考えても幼女の筋力を遥かに凌駕していた。
しかし今のハルトには、その現象を事細かに分析している余裕はない。
本当に一瞬、意識が飛ぶ。
意識が戻ってからもしばらく視界に星が瞬いていた。
恐ろしい平手打ちの直撃を受け、ハルトの体はギュルルルルル!! と横に高速回転。二秒の間にざっと三〇回転ぐらいして、
「ぼぶぁぁあああああああ!?」
顔面から思い切り床に叩き付けられた。
何がなんだか、まったくわけが分からなかった。
あまりの威力を頬に喰らい、脳味噌が豪快にシェイクされてしまったらしい。グラグラに揺れる視界の中、ハルトはある種の夢見心地で、
「お、おぉぉぉぉぉぉぉ……。……なに、突然の暴力……」
まさか、メイド服の幼女から平手打ちを貰う日がやって来ようとは。
またしても人生初の体験に、ハルトは全身をビクビクと気色悪く震わせる。
決して、なんてご褒美なんだ! もっと叩いてください! もっとイジメてください! もっと痛めつけてくださいハァハァムラムラ! ……とか考えているわけではない。単に体が痙攣しているだけである。
「何をしているのですか? その汚らしい顔面を床に擦り付けても良いと、私は許可した覚えはございませんが」
「き、君なあ……っ!」
「なんですか? その妙に赤く染まった顔は。まさか、もっと私の平手で打たれたいなどと変態的な欲求を抱いているのですか?」
「これは君の理不尽に驚きを隠せない顔だよ!」
倒れるハルトを上から見下ろす幼女メイド。ただでさえ無表情な顔面に、若干の冷酷さが加わっていく。
いやしかし、この平手打ちには一体何の意味が―――
「パニシェイラ様です」
「……なむ?」
「パ・ニ・シェ・イ・ラ・さ・ま……です」
なんだ、本当に何を言っているんだこの幼女は。
いまいち真意を掴みかね、ひたすら首を傾げるハルトに、幼女は、
「パーシェ、ではなく、パニシェイラ様、です。あなたのような腐れ外道がパニシェイラ様を親し気に呼ぶなど、それこそ極刑ものの罪悪です。そも、この学び舎に籍を置かれるお嬢様方の名を勝手に呼ぶ権利すら、あなたにはございません」
「……な、なるほど……え? さっきの平手打ちってそういう意味?」
「しかし今回は一度目の失態という事で、この寛大な心の持ち主である私は、特別にあなたを無罪放免にいたしますが」
「待て。今しがた僕の顔面に放たれた一撃に関しては」
「なんの事でしょう? あなたが勝手に倒れて勝手に悶え苦しんでいただけでは?」
「狂人め!」
これはもう個性とかそういうレベルじゃない。
思考回路が完全に異常者のそれである。
しかし幼女メイドは変態の戯言に付き合う気もないらしく、倒れたままのハルトを、そのまま凄い力でズルズル引きずりながら廊下を進む。
「ちょっ! た、立てない! 鎖が絡まって! 頼む、止まって! 止まってくれ! 僕これ結構ヤバい体勢いででででででででで!」
「廊下は静かにするものですよ。常識です。常識すら弁えずによくもまあ今まで恥ずかしげもなく生きてこられたものですね。死ぬんですか?」
「そうじゃなくて! 僕は君に引っ張られてでででででで! 痛い痛い痛い痛い!」
「何をしてるのですか、早急にご起立ください。私の貴重な体力を奪わないでください。そしてこの聖域に、あなたの汚らわしい垢を擦り付けないでください。掃除をするのは私です」
「こ、この異常者があ!!」
いくら叫ぼうが嘆こうが、幼女はコチラの言葉を意にも返さない。
次々に降りかかる理不尽の雨に、ハルトはそろそろ悟りを開きかける。
遠い目をして、海岸に打ち上げられた魚みたいに脱力。少年は大人しくズルズルと床を引きずり回される。
「こんだけ狂気濃度が高くて、よくメイドなんてやれてんな……」
絶対に幼女には聞こえない小声でそう呟く。
残念ながら、声高らかに訴える勇気など持ち合わせちゃいない。
しかし……どうだろう。
一見理不尽に思えるこの状況も、捉え方によってはむしろご褒美と思えなくもないような気が……しないでもないような……。
「何かくだらない想像の最中に申し訳ございませんが……到着です」
「え?」
引きずられる感覚が止み、ハルトは幼女の声で顔を上げる。
着いた? どこに?
「こちらの大広間にて、姫様がお待ちです。いいですか? 決して礼儀を失する事のないよう、お気を付け下さい」
「…………」
ハルトの前に立ちはだかっていたのは――――扉だった。
この大きさなら、『門』と言う事もできるかもしれない。
とにかく豪華な、一体どういう素材を使用しているのか全く見当もつかないほど巨大な扉が、そこにそびえ立っていたのだ。
扉の表面には、ドラゴン? だろうか。何か得体の知れない大型魔獣と思しき姿が緻密に彫られている。
扉越しでも伝わって来る得体の知れない気配に、思わずハルトは息を呑んだ。
この奥に、いるのか?
あの少女が。
『テメエ……いま自分が何してんのか、分かってねぇわけじゃねーだろうな』
ラスボス、ついに目前である。