船幽霊
『なあ、文月。船幽霊って知ってるか?』
数年ぶりに会うことになった友人が、挨拶もそこそこにこんなことを言い出した。
友人はいつも唐突だ。今日だっていきなり連絡してきて呼び出しするし。お陰でニュース番組を見るという1日の楽しみが潰されてしまった。海難事故のニュースが少し気になっていたのだが、お陰で視れなくなってしまった。
「船幽霊ってあれでしょ。濃霧だったり、満月とか新月の夜みたいに特定の条件下で現れる幽霊。
全国各地に伝承があるけど、割と有名なのは福島から千葉辺りの沿岸部に出てくる、柄杓を要求するやつ。後は瀬戸内、特に壇ノ浦近辺の平家の亡霊が柄杓を要求するのも有名かな。
他にも舟に乗って出てくるのとか、船の進路を塞ぐのとかいるけど、オカルトに詳しくない君が聞いてくるのならこっちじゃ無いでしょ?」
『あ、ああ。予想以上に詳しく返ってきたけど、その柄杓を要求するやつ。この前遭遇したんだよ』
現代社会に於いてそんなものに遭遇するのは運がいいのか悪いのか。
詳しく教えて貰おうと催促をする前に友人が語り出す。
『俺って今、海洋資源の調査会社で働いてるんだよ…』
◆
専門学校時代の友人である鷹基は今、海洋資源の調査会社で働いてるらしい。彼は主に沿岸部の水産資源の調査担当。
ウニとか増えすぎて磯焼けが発生してないかとか、磯焼けした環境を改善させたりとかが主な業務内容だそうだ。
で、事が起こったのが一昨日のこと。半年前から手を付けてた藻場の状況確認のために海に潜っていたらしい。
潜るときは二人一組。船の操作や緊急時のために二組で回るんだそうだ。
朝から晩まで一日かけて数ヶ所を交代しながら回って、増えすぎたウニを処理したり、海底の様子を記録したりしていたとのこと。
すべての作業を終了させた彼らは、茜と群青に染まる薄暮の空の下を港に針路をとっていたらしい。
船を走らせて数分、気がつくと霧が発生していた。
かなりの濃霧で10m先が辛うじて見えるかどうかといった具合だったそう。日も沈みきり、群青一色となるはずの景色は白い闇と化していたそうだ。
操舵担当者以外の三人はそれぞれ左右後方の監視をしながら話し合いを始めたらしい。
『なあ、高鶴。なんかいきなり霧出始めたよな?』
『ああ、気がつくと濃霧の中って感じだったよな』
『自分も気がついたら霧の中みたいな感じっすね』
『それにしてもついてない。帰りが遅くなるなこりゃ』
『そうだな。仕方ないとはいえ…おい、鴫原、遅くなってもいいから絶対事故起こすなよ?』
操舵席に声を掛けるも返事がない。再度呼びかけるも返事はやはりない。
背中越しとはいえ1mもない距離なんだから聞こえてないはずがないそう思いながら振り返り鴫原を見ると、彼は必死な顔をしながらGPSや計器を見ていたそうだ。
鴫原の肩を叩きながら大声で呼びかける鷹基。ハッとした表情で振り返る鴫原。
何かあったのかと問いかける前に鴫原が泣きそうな表情に変わる。
『さっきから移動してないんです』そんなことを言った鴫原に代わって操舵席に座る高鶴。GPSを見ると画面の下端ギリギリに最後に回ったポイントのチェック。移動したのは距離にして約300m。横で見ていた鷹基がスマホを取り出して位置を調べるとどうやら同じだったらしい。視線を上げると高鶴も同じ事をしていたようでスマホを覗き込んでいたそうだ。鴫原を見ると彼も同じ事をしていたようで、震える声で『動いてません』と呟いたそう。
放心状態の三人を包む波音とエンジン音。ふと、先程から会話に入ってこない一人を思い出した彼らは船尾を見遣ると、船尾を見つつ座り込んで居る烏丸がいた。
何かあったのかと船尾の方を見ると、水面から白い腕が生えていたらしい。
なんだアレ?そう思っていると、何処からともなく『柄杓を貸せぇ。柄杓を貸せぇ』と声が響いてきたらしい。
彼等があまりのことに呆然としていると、水面に生える腕がどんどんと増えて来たらしい。
『柄杓を貸せぇ』という声も腕が増えるに併せて増えていく。
老若男女問わず、様々な声で響いてくる。『柄杓を貸せぇ』と…
『ふ、船幽霊だ』誰が呟きかわからない声が船上に広まったそう。四方八方から絶え間無く『柄杓を貸せぇ』と聞こえてくるのに、その声だけは不思議とはっきり聞こえたんだそう。
ふらふらと鴫原が道具入れに向かい柄杓を取ってくる。
鷹基がそれを見送っていると、高鶴の怒声が響く。『馬鹿、止めろ!』そう言いながら鴫原を止める高鶴が強い口調で説明する。
『柄杓を貸したら船に水を入れられて沈められるんだよ!柄杓を貸すなら底を抜いて貸すんだ!』
鷹基が柄杓を見ると、スチール製の柄杓は底が抜かれていなかったようだった。
全く動かない烏丸を後目に、なんとかして柄杓の底を抜こうとする三人。その間も腕は増え続け、聞こえてくる声も量を増していたそうだ。
苦心しつつも、それでもなんとか底を抜くことのできた柄杓を海に投げ入れる事に成功した彼等が目にしたのは、一瞬のうちに船に水を入れようとする無数の手。
船を取り囲む白い腕全てに底の抜けた柄杓。
船に水を入れようとして叶わないその光景に安心していた鷹基の目が何か違和感を捉えたそう。
何だと思いつつ、周囲の光景を見回して気が付く。
無数の底の無い柄杓。その中に木製の物や、プラスチック製の物が混ざってる事に。
嫌な予感がした途端、柄杓で水を入れようとしていた白い腕の動きが変わった。船の縁に手を掛け揺らし始めたんだそうな。
激しく揺らされる船、身体を支えることも出来ずに前後左右に転がる四人。やがて船縁が水面下に到達して転覆しそうになる。
振り落とされそうになる中なんとか船に残っていた鷹基だが、気がつくと船には自分一人。同僚達が海に飲まれたのか腕の餌食になってしまったのかはわからなかったそう。
転覆しそうな船の中、近くにレギュレーターとタンクがあるのに気がついたらしい。必死に手繰り寄せ装着するのと船の転覆はほぼ同時だったそう。
◆
『まあ、そんなわけで船幽霊ってのに遭遇したって話なんだよ。いやー、大変だったよ』
そんな風に話を締める友人。僕はずっと気になってる事がある。最初はどうしたものかと思っていたのだけど、話を聞いたからには質問したほうがいいのだろう。
「なんていうか、お疲れ様、でいいのかな。ところで幾つか聞きたいことがあるんだが聞いてもいいかな?」
無言で頷く友人
「そうか、じゃあ質問するけど、回答は質問全部聞いてからにしてくれるかい。」
「まず1つ目、なんで待ち合わせ場所が河川敷?2つ目、どうやって川しかないボクの後ろから来たんだ?3つ目どうして全身びしょ濡れなんだい?4つ目、全身びしょ濡れなのにどうして足元が濡れていないんだい?5つ目、ついさっきニュースで船が転覆して乗船していた四名中三名は発見されたらしいんだけど、一人が行方不明らしいんだよね。で、見つかった三人の名前、君の話に出てきた人物と同じ名前なのはどうして?」
「後、最後に6つ目。結局君は誰なんだい?」
捲し立てる様に質問したボクを睨む両の眼。次の瞬間、友人は足元に小さな水溜りを残して消えた。
数週間後、縁あって高鶴氏に会って話をする機会に恵まれた。
私に起こったことを話し、実際に何があったのか聞いてみた。
彼は渋々ながら口を開いた。
実際には鷹基が真っ先に船から逃げ出したらしい。使用可能なタンクを全て抱えて。残った三人は途方に暮れながらも船にしがみついていたが、転覆する瞬間で意識は途絶えていたらしい。
高鶴氏に御礼を言い、ボクは立ち去る。蝉時雨の雑木林を横目に鷹基の実家に向かいながら彼を思う。
数日前に彼の着ていたダイビングスーツが見つかった。傷などはなく、自分で脱いだと考えられているそうだ。
彼はまだ見つかっていない。