(8)
「できないほうがいいんだよ。ちいさいときって、風邪ひくとうれしかったりしない。三十七度くらいの中途はんぱな熱だとさ、なんか興奮しちゃうよね。ただでさえ、ちいさいときって、時間の流れが遅くて、それで一日まるまる時間があまってさ、永遠に終わらないくらい一日が長い。まだ昼か、とか、まだ三時か、とか、もうだいたいなおってるし、寝てられなくて、でも、なにもすることがないよね。結局、NHKの教育テレビ見たりしてる。ほかに子供が見ておもしろい番組ってないから。それで、半分くらいずる休みしてることの言い訳にしてみたり。いまは、もう、風邪とかうっとうしくてしょうがないけど。早くなおらないと、人生がみじかくなる、とか考える。変わんないのに。つまんないね。わたしが風邪ひいたときって、いつもおばあちゃんの家に行かされたの。すぐ近所でさ。お父さん、先生やってて、お母さんも先生やってて、で、わたしのこと、かまってるわけにはいかないからね。道をはさんで、百メートルくらい行ったところ。ちょっと坂になってて、アパートが多かったな、いま思えば。幼稚園のときなんて、ふつうの家もアパートも分かんないけど、そのなかで、一軒だけ、おばけやしきみたいな古い家があるの。黒くて、茶色くて、なんかうすよごれてて。でも、いやじゃなかったし、こわくもなかった。よく玄関と門のあいだの、なんて言うの、ちいさな庭で草むしりしてて、お母さんにつれてこられるときもあったし、熱でぼんやりしながら、ひとりで行ったときもあった。だいたいそうだった、おばあちゃん、外に出てて、わたしの顔見て、よく来たね、とか言うの。たぶん、親が先に電話で知らせてたんだろうね。年じゅう、あじさいをいじってた。なんでか知らない。ほっとくと、すぐのびるのかな。ごついハサミ持って、枝を切ってた。かわいそうなくらい刈りこまれて、ぼろぼろなんだけど、ふしぎと五月くらいにはちゃんと葉っぱも花もつけてる。生命力っていうか。ちゃんと、玄関の横でね。分かるんだ、気持ち悪い、親がなんか変で、きっとこれは浮気ってやつをしてるな、って、分かる。ドラマで見た、まんがでそんなの読んだ、妄想かもしれないとも思うけど、でも、たぶんまちがいない。それぞれ、別々にやってた。なんだろ。変にやさしい。それで、わたしを通訳にして会話することが多いような気がして、さすがに違和感がある。ティッシュ買っといてって言っといて、ってお母さんに言われて、ティッシュ買っといてって言ってたよ、ってお父さんに伝える、とか、変だった。けど、なんにも起きない。なんにも起きずに、それはそれで平和だったけど、妙に気をつかう子供になってしまった、小さな音にびくびくしてる、足音が聞こえると、かならず振り返って、その音を正面から受けとめて、なに、って聞く。だいたい通りかかっただけのことで。好きとか、きらいとかより先に、結婚っていうことをまずは知ってる。お父さんとお母さんがそれで、結婚で、それから浮気ってのがあるらしいと分かる。浮気ってなんとなく名づけた、あのときの空気の全部が、浮気とむすびついてる。風邪で休んだときね。わたし、暗い子だったから、あんまり友達とかいなかったのね。休み時間、ひとりで、図書館でシャーロックホームズ読んでたりね。意味も分かんないのに。今日、遊ぼう、とか言われても、ごめん、いそがしいから、ってことわる。で、なにをするかというと、おばあちゃんちの畑でアリの巣を見つけて、溺死させて遊んでる。ひとりで。想像力ゆたかな子供だったから、そういうのを見て、すごくどきどきするのね、アリの視点で見えるから、映画みたいなんだ、洪水がおそってきて、流されて、おぼれそうになってるつもり。アリは大変だっただろうけど。そうやって、遊びはひとりで完全に満足してた。基本、いまもそうだな、正直、ほかの人間がさあ、馬鹿に見える。わたし、別にかしこいわけでもないのに、そういうことを思ってるわたしのほうが、よっぽどつまんない人間かもしれないけど。でも、いいじゃん。かわいいもんでしょ。誰にも迷惑かけずに、虫みたいに、ひとりでひっそりこっそり生きてる。ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ。宮沢賢治。それでいいんだ、たぶん。でも、ひとりじゃどうしようもないことも、あって」
って、その変なお姉さん、お姉さんだと思うけど、あって、で、なんだよと思ったら、もういなかった。
ちょっと前より暗くなった気がして、それは、月がかたむいたんだか、お姉さんがいなくなったからだか分からないけど、ちょっとこわくなった。ベンチの上、でこぼこで、がさがさで、ペンキがはげてる、くさってる、虫が食べてる、手さぐりして、つめたいものにさわった。トカゲかなんかだって、びっくりして、うおっ、とか声が出た。でも、それ、水だった」
「水って」
「なんか、水、って感じだった。まるくて」
「あ、地球」
「馬鹿じゃないの」
「水の惑星とか、言うから」
「ビニールぶくろに、金魚が入ってたの、一匹だけ。ぜんぜん見えないけど、ひもが指にひっかかって、目の前に持ってきて、星にすかして、うろこにぼやぼやした光がうつって、宇宙船みたい、まっ赤な金魚の尾びれが鼻先をなでて泳いでいった。ひねくれた白雪姫の鏡みたいに、ビニールがわたしの顔を変にしてみせるけど、なんか、泣いてるみたいだった。
じっと見てると、目のなかで金魚が燃えるじゃない。あんなの、ゆらゆらして、かたちも色も、火だし、でも、線香花火よりたよりなくて、じっとしてればいいのに、早く消えてなくなりたそうに、ふらふら、動きまわるのをやめない。
自分以外のなにかを光って照らすなんてできなくて、置き去りにされて、消えていくだけ。それがかなしくて、わたし、わたしの泣いてる顔をものまねするみたいに、泣きそうになって、金魚を目に焼きつけてやった。だから、いまも、うつむいたら赤土のなかでじたばたしてるし、空を見あげたら入道雲でひとりでかくれんぼしてる。あんたの顔を見たら、鼻をしっぽで、ぺしぺし、たたいてる。くすぐったくないの」
「ぜんぜん」
「そう」
「なんだっけ」
「知らん」
「同じだ」
「なにが」
「ぼくも、おばあちゃんの家にいる」
「ああ、そう」
「あと、ひとりで遊ぶし」
「そうだね」
「だから、同じだね」
「馬鹿だな」
「誰が」
「あんたが」
「なんで」
「なんか、よく分かってないもん、聞いてないもん」
「なにが」
「もういい」
「優子ちゃん、神社で金魚を泳がせて遊ぶの」
「もういいって言ってるでしょ」