(2)
「いや、そうじゃない。分からん、なにも分からんことが、分かった。おれは誰なんだ。すまない。おれのほうが悪かったんだ。ふと、いた、存在していた。
頭の上が、じりじり、熱かった。それが最初の感覚で、じりじり、じわじわ、そのうずきが広がって、手足があるのを知った。
蝉の声が聞こえたということは、耳があるじゃないか。赤土の坂道だ、こっちのつばきは生垣で、むこうにパンジーの花壇、それが、緑に赤の水玉、赤茶色、黄色と黒のモザイクで、イタリアだか、フランスだか、架空のふしぎな国の国旗のように、おれの視界でななめにみっつの領土が、見えない光のつぶに打たれて、いちいちかがやき、なびき、ゆれているのかと思った、ひるがえっていた。
よく手入れされてやわらかそうな地べたに、きれいに葉っぱを、全部、おれのほうに、頭の上の太陽の光を一滴もこぼすまいと、まったく、無邪気にひろげていたものだ。その一輪、ほんの一瞬だけ、つばきのあわれなおろかな赤い点に目をうばわれて、そのひだひだのミルフィーユ、八分咲きの咲きあぐねている姿の陰影が、あんまりくっきりしていると思ったら、そうだ、一輪、パンジーのモザイクは除去されて、今度はきれいな、行儀よくならんだ千鳥模様のじゅうたんをつくっていたなかで、たった一輪のパンジー、おれのほうを見て、目が合った。
熱帯魚かビタミンそのもののような黄色で、セピアの斑点はたれた両目と、にゅっと笑った猫の口、
「なんか、用ですか」
とでも言いたそうに、ひらべったくて、輪郭もあいまいなくせに、かわいらしい顔と首をかしげて、じっと見ていた。
しかたないから、おれも目をそらすわけにはいかない。だんだん、ひらべったいといっても、ちゃんと存在していて、縦、横、ななめ、背すじをのばして、高さもあることが分かる」
「おっさんは、こぼしたシチューの水たまりよりひらべったいけどね。だって」
「うるさいな」
「だって」
「影だから」
「別に、立ってるほうがえらいとは言ってないよ。だって」
「そうだよ。おれだって、存在しているんだから」
「そうだよ」
「いつのまにか花壇も、もともとのかたち、あるべき、本来の凹凸を思い出したのか、おれのほうが、ずっとそれまで目が眠っていたのか、とにかく、土手のようになっていて、三角にもりあがったピザのふちが、なにを、赤土の峠道にあふれていかないように堰きとめているのか、と思ったら」
「なんだったの」
「カルガモ」
「へえ。カルガモか」
「カルガモの家族、お母さんが、八羽の子供をつれて、よちよち、つんつんしたビニールみたいな緑の芝生を歩いていた。なんだか分からないが、こっちに、赤土のほうへ行きたいのに、行けない。のぼろうとしてはひっくりかえって、また別の登山口を探して尻をふる」
「行けたの」
「分からん」
「かわいそう」
「そうだな」
「助けなかったの。そのあと、ほっといたの」
「聞いてくれ」
「うん。言って」
「たぶん、おれでも、なにかの力になれると思ったから、いや、思っていなかった、つまり、思わず、この木の上から飛びおりようとしたら、おまえが、来た」
「ああ」
「おまえを、やっつけないといけない気がしたから、そうしようとした」
「分からないな」
「おれもだ。帽子もかぶらず、暑そうに、まぶしくて目の上、かざした手、腕、指までストーブの近くのガラス窓みたいに汗が」
「暑かったけど、そんなに汗かいてたかな」
「手のひらの影で、目、鼻、口、あご、首すじ、胸、ずっと、ずっと下まで、爪先まで、電信柱のような影が落ちていたから、頭もつやつやしたまっ黒のどんぐりだし、おまえはほとんど、影だった」
「おっさんみたいにね」
「それなのに、おまえが誰なのか、ぜんぜん分からなかったのに、おまえだ、と思った」
「なんでだろうね」