夏を夢見る
ミーンミーン、ジワジワとうるさい大合唱が耳をつんざく。こっちから聞こえなくなったと思えばあっちから聞こえて、そして再びこっちも鳴き始め、いつまで経っても鳴り止まない。
それ以上に辟易するのがじりじりと肌を焦がす日差しと湿気を孕んだ熱で、あまりの暑さに小さく唸った。不快感に顔をしかめながら汗を拭っても、滝のように流れてキリがない。少しは涼しくなるかとシャツの首元を煽ってもみたが、熱風が攪拌されるだけで何の効果もなかった。
「あーもーあっつい!!」
「言うなバカ、余計に暑くなる」
少し離れて隣を歩く一花に振り向く気力すらなく、蝉の声に負けないぎりぎりの声量で返す。
こうして2人並んで歩くのはいつ振りだろう。ずいぶんと久し振りのような気がする。
億劫ながらも隣を見遣れば、食べかけのアイスを持った一花が目を瞑って上を向いていた。「あつい〜……」と唇を歪めて額にかかる前髪を手で払い、緩慢に細い脚を動かす。太陽を睨むように半目を開けた彼女は残りのアイスを口に含むと、視線を感じたのか俺の方を振り向き、ぱちりと目が合った。
「アイス」
「……なんだよ」
「溶けてるよ」
「うわ、」
一花の指摘に慌てて手元を見れば、どろどろに溶けたアイスが指を越えて手首まで伝っていた。
慌ててべろりと舐め、残りのアイスも口を大きく開けて食べる。途端に冷え込んだ口内に少し眉をひそめると、一連の様子を見ていた一花はけらけらと笑った。
「はー、あっちぃ」
「さっきは自分で言うなって言ったのに!」
「うるせぇ」
アイスは一時の涼しさはもたらしても、茹だるような暑さも流れる汗も止めてはくれない。それどころか手に伝った跡はべたべたと不快感が残って、暑さと蝉の声に歪んでいた顔をさらに歪めることになった。
何の跡もない手を見るのをやめ、指に掴んだアイスの棒を揺らしながらとろとろと歩む。この暑さから逃れるためにも早く帰りたいが、これ以上急いで体を動かす体力もない。それは隣を歩く一花も同じようで、同じ速度で同じ景色を見ながら帰路を辿る。
空は夏らしく真っ青で、遠くに見える入道雲がやけに大きく見えた。
「直斗、宿題どこまでやったー?」
「……あ? 宿題?」
「夏休みの宿題! まさか全くやってないの!? もー、8月になったんだからそろそろやり始めた方がいいって、この前帰る時も言ったのに!」
一花の言葉に少し考えて、あぁと思い出す。
そうだ、そんなものがあった。確か終わらせたはず──いや、毎年夏休み最終日どころか2学期が始まってからもやっていたのだから、終わってるはずがない。
「また見せてくれよ」
ひとりでやるなんて、もう懲り懲りだ。夏休みの終わりに2人で向かい合って座って、文句を言いながら何だかんだ教えてくれればいい。
「自分でやりなよ! そんな言い方する人に見せるものはありませーん」
少し駆けた一花が、つんと澄ました顔をする。俺の方を見向きもしない様子にはぁと溜め息を1つ零すと、少し考えて口を開いた。
「神サマ仏サマ一花サマ、どうかか弱いワタクシメをお助けください」
「……何それ」
笑いを堪えようとして堪えきれず、ぷっと吹き出した一花が声を上げて笑う。
「棒読みだし、心こもってないじゃん! 普段神様信じてないくせに、こういう時だけ調子いいんだから」
「一花サマだけは信じてますんでー」
「もー」
完全に棒読みで、何のお願いも感謝もしてないのに、体ごと振り返った一花は仕方ないなぁ! と笑う。
青い空に、入道雲を背景にして、1枚の絵のように笑っている。いちか、と唇から零れ落ちた声は蝉の声に掻き消されて、何か言ったかと首を傾げた一花にいや、と返す。
「なつ、うざいなって」
「嫌い?」
「大っ嫌い」
「何で?」
「あちぃだろーが。セミもうっせぇし、宿題だりぃし。それに──」
「それに?」
何だっけか。あともう1つ、何かあったはずなのに。考えようとして、でも暑さに溶けた頭は回らずまぁいいかと思考が霧散する。
「でも、私は夏好きだけどなぁ!」
俺が考えるのをやめたと気づいたのか、前を向いた一花が嬉しそうに言った。知ってる、と舌の上だけで転がして、眩しさに目を細める。
たぶん、お前が好きだから俺は嫌いなんだよ。と、思い出せなかったものとは別にもう1つ見つかった理由は、言わなかった。
夏は大嫌いだ。
宿題はやりたくないし、蝉は煩いし、何より暑くて暑くて仕方がない。でも──
「夏、終わらなきゃいいのにな」
「えっ何で? 嫌いじゃなかったの?」
嫌いだ。大っ嫌いだ。
茹だるような暑さも、蝉の声も、何もかも。でも、夏が終わらなければ。そうすれば──
「でも、いつか終わるんだよ」
静かな声が、水を打ったように響き渡る。
優しく微笑んだ一花は真っ直ぐ俺を見ていて。
やめろ、やめろよ。
「夏が終わって、秋が来て。その次に冬が来て春が来て、また夏が来るの」
言うな。知ってる、そんなことは知ってるんだよ。言われなくたってわかってる。
それでも、それでも俺は──
「いつまでも立ち止まってちゃいけないんだよ」
目を瞑って、顔を歪めて、両の拳を握り締めた。
「うるせぇ!!」
びりびりと大気を震わせるほどの叫び声に、けれど人目も一花も気にする余裕はなかった。
ゆっくりと開いた目蓋の先では、俺の叫び声に恐れた様子など微塵もない一花が困ったように微笑んでいる。
蝉の声がどこか遠くに聞こえる。汗が流れるほど暑いはずなのに、頬を撫でた風の冷たさに肌が粟立った。
「お前が! お前だけは言うなよ!! 何も、何も知らねぇくせに……!」
置いていった側が、置いていかれた側の気持ちなどわかるはずがない。
お前だけが夏に取り残されて、俺たちは変わらない毎日を、1人だけいない日々を過ごし続ける。
神様でも仏様でも何でもいいから、一花を返して欲しかった。それが無理なら、終わらない夏の夢に浸らせて欲しかった。
それだけでよかった。それなのに。
「……ごめんね」
「言うな。うるせぇ、聞きたくねぇ」
そんな言葉が聞きたいんじゃない。
「ありがとう」
「やめろ」
「大好きだよ」
うるせぇ、そんなことは知ってるんだよ。そんなことはどうでもいいんだよ。
「……もういないんだったら、俺の好きにさせろよ」
「もういないけど、そんな訳にはいかないよ」
何でそんなに笑っていられるのだろう。何で俺の好きにさせてはくれないのだろう。俺の作り出した幻だというには一花は鮮明で、俺の願った言動をしてはくれなかった。
いっそ、泣いて、叫んで、怯えて、縋りついてくれればよかったのに。そうすれば、このどうしようもない思いはぶつかり合って、あるいは受け止めるためになくなったかもしれないのに。
泣いて、怒って、叫び出したかったのに、喉の奥でぐるぐると渦巻くものがうまく吐き出せなくて、歯を食いしばる。
そんな俺に眉を下げて近づいてきた一花は、きつく握り締めた手を握って笑った。
「だいじょーぶ」
何の根拠もないそれに、何度呆れただろうか。いつもいつも嫌な顔をして見せても能天気に笑って、何だかんだ、ほら大丈夫だったでしょと得意げになって見せる。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃねぇ」
「だいじょーぶだって。私が言ってるんだから。いつも大丈夫だったでしょ?」
「本当に大丈夫じゃなかったこともあった」
うっ、と言葉を詰まらせた一花に、込み上げる苦いものとともに鼻で笑った。
こんなやり取りすら懐かしい。ほんの少しだけ、本当に少しだけ、彼女の言う通り息がしやすくなったことも。
──もう2度と、一花のバカみたいに明るくて優しい「大丈夫だよ」なんて言葉が聞けなくなることを、信じたくなかった。
「……何で、死んだんだよ」
「……うん」
「何でお前が、巻き込まれなきゃなんなかったんだよ」
「うん」
幻なら、夢なら、体温なんてなくてよかったのに、俺の拳を握る手が温かい。込み上げる衝動のままに振り払ってしまいたかったけれど、身体は動かなかった。
「お前だけが、いないんだ。今までと全部変わらないのに、お前だけ」
夏休みが終わって、学校が始まった。蝉の声が聞こえなくなって、肌寒い風が吹くようになって。
なのに、一花だけは、あの暑いあつい夏に取り残されたまま。
あぁ、と嘆息した声が、唸るような嗚咽になって溢れる。目の奥が熱くなって、喉が震えて、縋りつくように目の前の小さな身体に手を伸ばす。
「一花、」
「うん」
「いちか」
抱き締めた身体は温かくて、密着した身体から呼吸する度に振動が伝わってくる。こんなにも鮮明なのにこれはどうしようもなく夢で、この夢から醒めればもうどこにもいないのだ。
嫌だ、とかぶりを振って、どれだけ強く抱き締めたとしても、いつか必ず夢から醒める。わかっていて、受け入れたくなくて、ただ一花の肩口に額を押しつけて声にならない嗚咽を漏らした。
「私のために泣いてくれてありがとう」
聞きたくないと抱き締める腕を強めても、一花の言葉は止まらない。
「一緒にいてくれてありがとう」
それはこっちの台詞だ。そう言おうとして、喉が引きつって動かなかった。
分かってる。永遠の夏を夢見たってどうにもならないことも、俺がこうやっていつまでも前に進まないから一花が逢いに来たことも。
俺が大切に思われていて、俺も一花の全部ひっくるめて大切に思っていることも。
「直斗なら大丈夫。ずっと、私が見守ってるから」
「……あぁ、」
大好きだよ、またね。
優しい声に、重い目蓋を押し上げ震える喉を叱咤する。離れた腕にもう力は入っていない。
目の前で優しく笑う一花を見つめる。不格好で、情けなくても、同じように応えたかった。
「俺も、大好きだよ。またな」
初めて言った言葉は照れ臭くて、でもらしくもなく爽快な気分だった。ぽろりと溢れた涙を拭うことなく、互いに笑う。
蝉の声も蒸し暑さも遠くなって、一花の体も視界もぼやけていく。
夢から醒めていく。嫌だったはずなのに、まだ痛む胸はそれでも満たされていた。
きっと、もう夏の夢を願うことはない。