命を育てるということ(一年目の夏①)
リィンリィンと、澄んだ鈴の音が室内に響いた。
必要最低限の物しか置かれていないこの宿屋の部屋。
そんな部屋には珍しい"ある一つの物"が音の正体らしい。
硝子で作成されたその透明な機械式懐中時計は、歯車や機械に刻まれた刻印の装飾・受け石がはっきりと見えており、精巧に作られている。
目を引く懐中時計の起床音が鳴り響く中、黒い手袋……否、手がそれを止めた。
「ふわぁ……」
大きく欠伸をしながら、ウトウトと、寝ぼけ眼で。
フラフラと、動き始めた。
枯葉を混ぜた黄昏と新緑の様な色鮮やかな……花緑青の方が近いかもしれない……そんな独特なグラデーションが特徴的な長髪の青年——リヒトハインは、身支度を整え始めた。
食事は簡易に、髪は手櫛で適当だ。
リヒトハインは自身の事には無頓着であったが、宿屋の備え付けである銀色に光り輝く鏡の目の前に立つと、顔を引き攣らせた……いや、違う。口角を上げているらしい。
……これは、笑顔の練習だ。
(彼女は笑ってくる、笑いかけてくれる……どうして俺は上手く笑う事ができないんだ……?
…………これは仕事の一環だ…そう、一環……)
誰に言い訳をしているのかそんな事を考えてまで、どうやら彼は彼女に対して、自然に笑える様になりたいらしい。
万能に近い天賦の才を持っていても、残念ながら感情や表情の制御には全く意味をなさないのは、あまりに皮肉だ。
——笑顔の練習は、身支度以上に時間をかけたが、残念ながら失敗に終わった。
✿❀
守人であるリヒトハインは神葉樹の花嫁である咲初がいるレインボークリスタルで作られたガラス製の鳥籠のような形の建物——植物園に辿り着いた。
太陽は、きらきらと真っ直ぐに鳥籠……植物庭園に降り注ぎ、若葉の香りを漂わせて吹く風は、全体に吹き渡る。
虹に輝くガラス水晶もまたそれらを一身に受け、揺らめいて反射しながら、周りを魔法の様に美しく照らしている。
木々は、サァッと楽しそうにその枝を陽気に動かす。
ガラスの煌めきと光を通した葉の透ける様な翠が美しい。
木々に囲まれているからだろう。
ここ"楽園の花園"は、まさに楽園と呼ぶに相応しい涼しさであった。
が、薫風が運ぶのは若葉の香りだけではなかった。
お砂糖のようにきらきらと真っ白なその花も、ふわりふわりと優しく、ほのかに甘く香りを運んでいった。
——少女の頭の梔子がついに花開いたのだ。
「おはようございます、リヒトハインさん」
「お早う御座います。咲初様、お早いですね」
「そ、そんなこと、ないです…いつもは、もっとお寝坊さんですから……!」
「では、今日は俺の方がお寝坊さんでしたね」
「も、も〜! そういう事じゃなくて…リヒトハインさんは気にしなくて大丈夫って……話をですね……!」
ツインテールをいじりながら、顔を真っ赤にする少女に、少しだけ表情が緩んでいる事に青年は気付いていない。
笑顔の練習などしなくても、きっと問題ないだろう。花の娘との時間が彼を徐々に変えていっているのだから。
その事を本人が理解していないのは、少し可笑しい。
「梔子、綺麗に咲きましたね」
「は、はい……リヒトハインさんのおかげです。お花のお世話…手伝ってくれましたから……」
「それは」
「おしごとだから、ですよね? 前も言った通り、それでもやってくださった行為が、私は嬉しいんです、ありがとうございますっ!」
いつも、いつも。
嬉しそうに微笑む少女を、直視できない。
罪悪感か、それとも。
(仕事には不要な感情な筈だ……)
混乱している青年に気付いていない少女は、あっ!と鈴を振るような可愛らしい声を小さく上げた。
声に驚いた青年は、にこにこと嬉しそうに微笑む少女と目が合った。
何か企んでいるのは、その表情ですぐに分かる。
「ふふふっ、じゃあ、おしごと、しましょうか♪」