喜び運ぶ香りに想いを馳せて(一年目の春③)
咲初と別れた深夜。
場所は変わり、中央都市王立図書館では、はぁ、と溜息を漏らすリヒトハインの姿があった。
(……まさか、こんなに種類があるなどとは思いもしなかったな)
目の前に置かれている大量の本は、全て木々や草花に関しての物だ。
咲初の花嫁修行の手伝いをするのなら、花の知識を得た方が良いだろうと考えた青年はわざわざ王立図書館に足を運び、こうして資料を集めたのだ。
(さすがに毎回彼女に聞くわけにもいかない……)
少女は喜んで教えてくれるだろうが、さすがに作業に支障をきたすだろう。
元々、読書は得意ではないが、完璧に仕事をこなす為なら努力は惜しまない。
そしてそれを可能にする才能を彼は与えられていた。
(これらを全て覚えているのか……彼女は)
ぱらりぱらりと時間が許す限り、青年は本を読み続けながら、この何百何千とある花や木々を知識としてだけではなく、大切に愛する咲初の能力を理解しながら
同時に、その思考を理解する事はまだ、難しかった。
✿❀
——少女と過ごして一ヶ月以上が経ったある日、青年はやっと依頼人と会う事ができた。
「やあやあ! 天使様! この度は依頼を受けてくれて有難う!」
身に纏っている黄金で出来た自身の指の太さ以上の厳つい指輪や首飾りと…頭が光り輝いている小柄だが恰幅の良い中年男性は、鼻下のくるんとカールした髭を触りながらニヤニヤと露骨に愛嬌良く笑っている。
天使と言うワードに内心、嫌気を差しながら、表情は変えずに青年は無機質に依頼内容を確認する為に口を開いた。
「お前さんが依頼人だな?」
「そ、そうだがね、チミィ、もうちょっとだね、言い方とか…あるだろう!? チミィ!!」
「……む? 依頼内容には依頼人に対しての口調の記載はなかった筈だが?」
「ま、まあそうだがね……」
「咲初様に対してのみ敬えと記載されていた筈だ」
「さきそめるぅ?」
「……名前を覚えていないのか?」
「ああ! 神子様の事かね…名前なんて良いだろう? 大事なのは神葉樹様の花嫁である事なんだからね!!」
……疑問の一つが解けた。
リヒトハインが咲初に名を聞いた時、驚き、瞳を丸くした理由を。
突然聞かれ緊張したせいで、自身の名前を思い出そうとした…なんて微笑ましい話ではなかった。
彼女には名前など不要に近い。
花嫁で神子だから。そこだけが重要で、それが彼女の存在価値なのかもしれない。
誰も名前なんて呼ばないのだろう。
ざわりと、胸に不快感を覚えたような、そんな気がした。
仕事には不必要な感情、きっと彼自身は気付いていないだろう。
そして、予定には無かった"ある行動"に出ていた。
完全に無意識だ。
「報酬金額なんだが……」
「ん? ああ、高いだろう! 良いだろう! なんせ奮発したのだからねえ!!」
ワッハッハと丸々と立派な腹を叩きながら笑う依頼人に、青年は無慈悲な言葉を投げつけた。
「年数不明、身辺警護以外の内容不透明。ほぼ二十四時間の拘束に近いんだが、本気で適正金額だと思うのか?」
「え? え? 適正じゃないのかな…? え、違うの?」
リヒトハインは言葉ではなく、依頼書に数字を書き込んでいく。
ギョッと驚く依頼人と何度か交渉を進めた結果は……
「え、えぐい…チ、チミは天使なんかじゃないぞぅ…」
「当たり前だ、言うのが面倒だからわざわざ行動で示したんだぞ? 有難く思うんだな」
「チミ…リヒトハイン君だったかな? 人に嫌われてない?」
「……まだ払ってくれるなら歓迎だがな」
「ヒッ、ヒィィ! 嘘、嘘だよ! それよりもやはり神葉樹様と神子様の良さをだね、伝えなくてはいけないね! ワシの家には先代からの綴記録もあるんだぞ! 読んだ事ないけど!」
「…………」
「ヒィ、目付きが怖い!! よ、良いかね! 神子様は神からお産まれになってだね……」
(神から人が産まれる訳ないだろ……)
神葉樹と名前も覚えていない神子の素晴らしさを説く目の前の依頼人のくだらない話など聞く気にもならない青年は、ふと、少女との会話を思い出す。
✿❀
お団子の様に蔦で結われているツインテールを両手で持ち上げて、こちらへ見せるように咲初は、嬉しそうにぱたぱたと小さく音をたてながら、リヒトハインに近づいてきた。
その髪にはいつものように色とりどりの花は見当たらず、かわりに爽やかな美しい新緑の葉っぱと小さな蕾が咲いている。
「聞いて下さい、リヒトハインさん。もうすぐ、梔子が咲くんです…!」
「梔子…確か、真白な花でしたね?」
「詳しいですね!……もしかしてお勉強しましたか?」
「……多少は」
「もうっ、教えますって言ったのに……」
ぷくりと頬を膨らませてほんの少しだけ怒った風に見えた少女だったが、すぐに青年に控えめに微笑み、続ける。
「純白で、すっごく綺麗なんですよ!」
花の話になると饒舌になる咲初に、リヒトハインは相槌を打つ。
「そうなんですね」
「あ! けど、お手入れは大変なんです…! オオスカシバの幼虫さんやすす病には気を付けないと……」
リヒトハインは思い出すように思考する。
すす病は確か、日当たりや風通しが悪いと発生しやすくなり、葉がすすを被ったように黒ずんでくる現象だ。
オオスカシバは葉と似た様な色合いなので見落とさない様にしなくてはいけない。
王立図書館に通い詰めて得た知識は無駄にならない様だ。
青年は自身の記憶能力——天賦の才に感謝すべきだろう。
最も、本当に感謝して良いのかは分からない。この場では、の話だが。
「あ……」
「?」
少し悩みながらも、ちらりとこちらを見ながら言いにくそうにツインテールを前へ。
顔を隠す様にいじる少女に、どうしました?と青年は問う。
「あ、あの……虫さんとか病はここの庭園に咲くものですから…私の髪は、だいじょうぶです」
「はい」
「ですから、その……」
「……はい」
「気持ち悪くないので、安心して欲しいです」
「……誰かに言われたんですか?」
「…………」
少女は何も言わない。
ただ静かに困ったように微笑んでいる。
この数ヶ月を共にして青年は、少女が過度に笑う事はないが微笑んだり、慌てたり、顔を真っ赤にしたり、怒ったり、控えめながら自分に比べれば圧倒的に表情は豊かだと思った。
一つ。"ある表情"を除いて。
「どこに咲いても、梔子の世話のお手伝いは致します」
「あ、ありがとうございます……! リヒトハインさんは優しいですね……!」
「咲初様を守り、お助けするのが俺の仕事ですので」
「おしごと、でも嬉しいです。いつもいつも、ありがとうございます……!」
「……」
毎日少女は感謝を述べる。仕事だと伝えても。
自身も決まり文句の様に礼を口にすべきなのに、言葉が出なかった。
まだ敬語……喋り方の練習が必要なのか。
あるいは、それ以外の理由なのか?
青年には答えを見つける事は出来なかった。
「あ、リヒトハインさん、知ってましたか? このお花、香りがとっても素敵なんですよ……!」
ただ一つの"ある表情"、それは。
無邪気に笑う少女は絶対に泣く事はしなかった。
✿❀
(その花は、一体どんな香りなんだろうか)
頬杖をつきながら、青年は目を閉じる。
楽園で笑わない機械の様に無機質な彼に向けて、優しく微笑む少女の顔が頭をよぎった。
梔子の花言葉✿「喜びを運ぶ」