狼と花の出会い(一年目の春①)
「……あの、どなたでしょうか…?」
目の前の幼い少女は慌てる事もなく、春を閉じ込めたピーチブロッサムの柔らかい花の様な階調の色彩と、青空の底にひとひらの桜を落とし込んだ、そんな不思議なグラデーションの、特徴的な異なる二つの瞳で静かな水面の様に、青年を見つめている。
リヒトハインも表情を変える事はなく、少女に目線を合わせるため、屈み込んだ。
「すまないが、お前さんが依頼人で間違いはないか?」
そもそも、彼にとっては予想外の事態であった。
今、ここに向かったのは依頼が完全受理された際、スムーズに仕事を行うための事前準備。
無駄な時間を費やさない為に、建物の構造をあらかじめ把握する必要があったからだ。
だからこそ、都市から遠いうえに人が生活する環境ではない植物園に、しかも夜中に人がいるとは、青年は思いもしなかった。
少女は心当たりがあったのだろう。
胸の前に右手は当てたまま、少し考えるようにもう片方の…左手を口元に持っていき、う〜と小さく唸り声をあげた。
「……依頼…貴方はもしかして、天使様ですか?」
「……俺は人間ですので、天使ではありませんが、神葉樹…様とその花嫁様の守人に任命される者でございます」
「……そう…ですか……」
依頼人ではないようだが、任務対象の花嫁である事を確信した青年は先程までの口調とは打って変わり仰々しく少女に依頼内容の説明をする。
天使をはっきりと否定したり、慣れないのだろう神葉樹の敬称を忘れそうになるのは彼らしい。
要は現実主義なのだ。
あまりに露骨に変わった態度に少し驚きつつも、少女は何かを言いたそうに、胸の前に置かれたままだった右手を強く握り締め、口を開きかけた…がそれは一瞬だった。
瞳を閉じ、何かを決意するように前を見据えた少女は先程の迷いはなく、言葉を続ける。
「あ、あの…改めて、はじめまして。私が神葉樹様の花嫁であり、神子です…」
「リヒトハインと申します。以後、貴方様の身辺警護等をさせて頂きます」
「ありがとう、ございます…」
「伺わせて頂いても、宜しいでしょうか?」
「は、はい…私に分かることなら好きなだけ、どうぞ」
「貴方様のお名前は?」
「え?」
——水面に小さく波紋が広がった。
驚き、瞳を丸くする少女に、そこまで変な事を聞いた覚えがない青年は少しの疑問を持ちながら
「短い間とはいえ、これから共にあるのなら名前がないと不便ではありませんか?」
「あ、えっと…ごめんなさい、ええと…私はなんでしたっけ……」
突然聞かれて緊張したのだろうか、自身の名前を思い出そうと考える少女に疑問は膨れるが、リヒトハインはその思考にすぐ蓋を閉じた。
(……仕事には、不必要な感情だ)
などと考えているうちに、あ!と初めに聞いた時と同じ鈴を転がしたような、高い声が響いた。思い出したのだろう。
くるり、と青年へ向き直り、水を浴びた葉っぱのように輝くシースルースカートを摘み上げて小さくお辞儀をした。
「咲初と言います。よろしくお願いします…リヒトハインさん」
「こちらこそ、なんなりとお申し付け下さいませ。咲初様」
優しく微笑む少女と同じように、愛想良く笑う事ができなかった青年は自身に苛立ちつつも、それがバレないように、神子の娘に頭を垂れた。
思惑通り、咲初は気付いていないようで顔を上げて下さい、とわたわたと慌てている。
慌てつつも、やはり来訪者が嬉しいのだろう。
新たな守人に対し、少女は歓迎の言葉を告げた。
「ようこそ、植物庭園"楽園の花園"へ」
満開の桜もまるで歓迎するかのように、庭園内に舞い散り、月明かりにきらきらと煌めく虹の様なオーロラの光と重なり、気まぐれに、ゆるやかに、踊っている。
そんな美しき花々が彼を迎え入れてるとは露知らず、全てを見ないように青年はただ頭を垂れ続け、葉が細く柔らかい美しく手入れされた楽園の絨毯を見つめていた。