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主達の物語

湖畔の主

作者: 狗須木

 気づけば此処に居た。


 透き通った水は湖底まで光を通し、生い茂る藻は絶えず気泡を滲ませる。揺れる湖面は森のさざめきを密に写し、湖岸へ凛々たる静寂を落とす。

 たかぶる心は遠からず凪ぎ、身を浸せば傷は癒え、失われた力は深く満ちる。


 私が生まれ落ちてからどれほどの月日が経ったか。

 何度も四季を繰り返し、招かれざる客から美しい湖畔を護り続けてきた。


 此処は居心地がいい。だのに絶えず害意と共に獣が現れる。獣は総じて静謐を乱す。私はそれを許さない。


 水を濁す血は好まない。かつては獣を屠るまで己が身を汚したものだが、今や毛皮は何物も通さず、爪牙もふるうに至らない。咆哮は害意を削ぎ、満ちた力は獣を遠く退ける。


 私はこの地を護り続けよう。

 たとえこの身が朽ちようとも。


 ◆


 かつて湖畔を乱した醜悪たる脅威のおさを滅し、安寧が訪れて永く久しい。多くの小動物が憩いを求め訪れる。この眺めもまた私が護りたいものとなった。


 ふるき獣は此処を離れたが、新たな獣も現れた。個々は小さく貧弱ながら、その身を鉄で覆い、数でもって質を高める。

 その智は旧き獣をも脅かし、勇ましくも此処までその手を伸ばしている。されど未だ脅威足り得ず、己が身を起こすにあたわず。


 曰く、私は狼の魔物だという。


 彼の獣は博識である。万物を名づけ、理を以て論ずる。彼の群れを人間と称し、他を支配せんとする。個々に名を持ち、声音で以て高度な意志の疎通を叶える。

 何度も私に挑むのは煩わしいが、旧き害意に比べれば戯れに等しい。恐れをして戦意を奮う様はむしろ愛らしい。


 直に個体差を見分けられる程、人間は馴染みのある生き物となった。

 多くが再訪しない中、装いや率いる群れの様相を変え何度も訪れる者もいた。


 次第に群れと私の距離を縮める一方、彼の者は後方へと退いていった。


 今はもういない。


 ◆


 人間の若い雄個体が湖畔へと単体で訪れた。

 否、逃げてきた。


 旧き獣から裂傷を負い、血を流していた。


 私は血を好まない。殺生も好まない。

 私は水を濁す害意を許さない。


 旧き獣を威圧し、退ける。


 倒れた人間を咥え、湖に浸す。


 傷口が塞がり、血が止まる。熱が下がり、拍動が鎮まる。呼吸が整い、苦悶が止む。情緒が和らぐ様を見届け、すぐ側に腰を下ろす。


 人間が目睫もくしょうかんにまで至るのは初めてだ。頭部を覆う毛は細く柔らかい。目、鼻、耳、口、手、全てが小さい。そもそも身体自体が小さく細い。何もかもが柔らかい。

 身体を鉄で覆うのも納得だ。もとより戦うことが理解できないが。


 人間が目覚めたのは翌日の昼だった。


 ◆


「ひ……ッ!」


 細腕で頭部を覆い、強く目を閉じている。奥歯を噛みしめ、全身を強張らせている。身体が小刻みに震え、拍動が強まり、呼吸が浅くなる。眦が滲む。鼻を啜る。

 強い恐怖の感情が溢れ出る。湖面が波立つ。


 思えば、人間は常に群れていた。

 群れでも隠しきれていなかった恐れは、単体だとここまで増幅するらしい。

 悪いことをした。


 しかし、なぜ私は恐れられているのだろうか。

 私はこの人間を威圧していないはずなのだが。


 人間が細腕の隙間からこちらを窺う。深く息を吸う。全身の強張りが僅かに緩む。瞳が周囲を素早く見回す。後退る。湖底の藻に足を取られる。その身を湖畔に投げ出す。


 沈む。


 溺れる。


 救ったはずの命が目の前で潰えようとしていた。

 息絶える前に咥えて陸地に下ろす。


 咳き込んで水を吐き出す様を見下ろす。

 何がしたかったのだろうか。全く分からない。


 瞳を潤ませた人間が私を見上げる。

 混乱が恐怖を上回る。


「殺さない、のか……?」


 ようやく人間が発した言葉は、実に不本意だった。


 ◆


 保護した人間が湖畔を発った数日後、複数の人間と共に再度訪れた。私に挑みに来たのだろうか。

 しかし、人間達が纏う戦意は常より弱く、森に身を隠している。


 やがて姿を現したのは、保護した人間ただ一人だった。


 僅かな怯えに身体が緊張している。息を殺し、遅々とした歩みで近づいてくる。戦意は無い。頭部を覆う鉄を外している。不用心だ。

 小動物が森へと逃げる。人間の歩みが止まり、喉が大きく鳴る。発汗量が多い。心配になる。


 再度歩み始めた人間は、相当の時間をかけて私の前にいたった。


「せ、先日、は……お世話に、なりまし、た……」


 再訪して謝辞を述べるとは、人間とは律儀なものである。


「あの……」


 視線、指先、口の動き。どれも忙しない。


「お、怒らないで、ください、ね……?」


 下ろしていた瞼を上げる。

 人間が息を吸う。


 伏せていた顔を上げる。

 人間が息を止める。


 人間の手が届く位置に顔を下ろす。

 人間の腰が抜ける。


「あ、あ、あ」


 人間とは難儀なものである。

 先程、保護した人間が共に来た人間達に己が身に触れると宣言していたのを聞いた。だのに、触れやすいよう体勢を変えればこれである。

 私の何に恐れているのやら。


 震えた人間の手が伸びてくる。鼻先に触れる。

 むず痒い。


 ◆


 保護した人間改め、ケントが湖畔に訪れる。


「こんにちは。お元気でしたか。これ、お土産です」


 ケントは頻繁に湖畔を訪れる。曰く、私との交流が目的らしい。人間の代表だそうだ。今では恐れを微塵も滲ませず、私に焼き菓子を差し出す。

 焼き菓子を口に含む。私にとっては十分に柔らかいのだが、人間にとっては硬いらしい。噛み砕き、飲み込む。


「街で人気のクッキーなんですよ。美味しいですか?」


 物を食すことを教えてくれたのはケントだ。

 味や満腹感は分からないが、きっと美味しいのだろう。頷いてみせれば、嬉しそうに破顔する。


「それじゃ、ブラッシングしますね!」


 何が楽しいのか、ケントは私の毛に触れたがる。

 本来は旧き獣から身を護るためのものだったが、ケントが傷つかないように硬度を落とした。


「どこか痒いところとかあります?」


 無い。


「今日も綺麗ですね」


 当然だ。私が護り続けてきたのだ。

 湖畔が美しさを損なったことなど一度もない。


「……会話、できないなぁ……」


 ケントは私と発声による意志の疎通を図りたがる。

 当然、できるだろう。私には発声器官があるし、人間の言葉も理解している。


 ケントは私に様々なことを話す。

 ケントのこと。ケントの家族のこと。ケントの友人のこと。ケントの棲む街のこと。国のこと。森のこと。森に棲む小動物のこと。森に棲む旧き獣、魔物のこと。人間のこと。私のこと。

 全て私の知らないこと。知る必要の無いこと。


 私がケントに話すことは何も無い。


 私は元より此処に居た。

 私はこれからも此処に居る。


 ケントが知る必要は無い。


 ◆


 ケントが傷を負った。


「っつー……」


 旧き獣、魔物に襲われたのだろう。鉄を外した腕は青く腫れていた。

 ケントは鞄から薬品や包帯を取り出し、手際よく治療を施す。


 湖に浸せばすぐに治るというに。


「ここは平和ですねえ」


 当然だ。私が居るのだ。

 此処は一切の害意を許さない。


「ここで一泊していいですか?」


 好きにすればいい。


「……いい、のか……?」


 ケント程度、問題無い。


 その晩、眠るケントの傷は治しておいた。


 ◆


「街に来てもらうことって……できます?」


 断る。


「……ダメ、ですよねえ……」


 人間とは難儀なものである。

 ケントは私に何かを求めている。その要望は口に出さず、されど含ませる物言いで以て私に訴えかける。

 私とて多少の情はある。応えるのは吝かではない。確約はできぬが。

 どちらにせよ、直接言えばよいというに。


「いや、街に大きな狼が来ちゃったら、大変ですよね。やっぱりさっきのナシで」


 大きくなければいいのか。


「……えっ」


 己が身の大きさを変えるなど、造作も無い。

 無論、此処からは離れぬが。


「……すっげ……なんでもできるんですねえ……」


 できぬ。


「あ、もしかして、人間の姿になったり、とか……」


 できる。


「え……おんな、の、こ……あ、いや、まって、ダメ、裸は、だ、え、あ、ちょ、ま、あ、こ、これ!」


 毛織物で包まれる。


 人間の姿での一糸纏わぬ姿を禁じられた。


 ◆


「おお……あったかい……」


 ケントが湖に手を浸し感嘆する。

 水が温かいのではない。空気が冷たいのだ。


「ふー……リュコスはそんな薄着で寒くないんですか?」


 ケントは私にリュコスという名を付けた。不要なものだが、存外気に入っている。

 私は自然が障るほど弱くない。人間の姿といえどそれは変わらぬ。ケントはいやに口煩い。


「やっぱり、街に……」


 断る。


「ははは……ですよねえ」


 ケントが鉄器に湖の水を汲む。

 沸かせる。


「ありがとうございます」


 謝辞はいらぬ。此処で火を使われたくない。

 手際よく茶が淹れられ、焼き菓子と共に渡される。


「街ならできたての温かいのが食べれますよ」


 いらぬ。


「暖かいベッドで寝たくないですか」


 いらぬ。


「あー、いや、そうじゃなくてですねえ……その……」


 茶を飲み菓子を食べるのにもだいぶ慣れた。今日は一切零れていない。


「……俺と、一緒に……」


 隣に座るケントを見上げる。

 今日もケントは言い淀む。難儀なものだ。


「…………あー、食べカス、ついてますよ」


 言えばよいというに。


 ◆


「綺麗ですね」


 当然だ。私が護り続けてきたのだ。

 湖畔が美しさを損なったことなど一度もない。


「サラサラした白くて長い髪も、キラキラした金色の瞳も……傷ひとつない、柔らかい肌も」


 私の人間の姿がどうかしたのか。


「……リュコス……」


 ケントの手が顎に添えられる。顔を上向かされる。ケントの顔が近づく。唇に触れる。離れる。


「…………」


 頻繁に行われる動きだ。この時ばかりはケントの口数が減る。


「ごめん、卑怯で」


 ケントが謝罪する。

 何に対するものなのか。全く分からない。


「好きだ」


 抱擁される。

 私もケントに多少の情はある。


「ごめん」


 抱擁が強まる。

 近頃こればかりだ。



 人間とは難儀なものである。

 傷も病も無いのに、ケントはいつも苦しそうだ。


 ケントは私に何かを求めている。その要望は口に出さず、されど含ませる物言いで以て私に訴えかける。

 私とて多少の情はある。応えるのは吝かではない。確約はできぬが。


 どちらにせよ、直接言えばよいというに。

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