後編
頬を撫でる夜風、雲の隙間から差し込む頼りない月明かり、足元の小さな砂粒の感触、自分の呼吸、心臓の鼓動、筋肉の強張り、そして敵の殺気。
感覚が研ぎ澄まされ、無数の情報が入ってくる。
武器を失った私は大きく腰を落として左半身に構えた。
左腕は胸の前で正中線を守り、右手は腹部から下段にかけてを守る。
「次は?」
桜庭の口調と歩み寄る仕草は闘いの最中とは思えないくらい穏やかで日常的だ。
間合いが縮まるにつれて、私は重心を低く上体の捻りを深くする。
胴体の左側面を見せる姿勢になり、同時に後ろに引く右手は自然な動きで桜庭から見えにくい位置に移動させた。
桜庭との距離は二歩分、まだ虚を突く一撃を入れるには遠い。
「ん~?」
桜庭は楽しそうに微笑んでわざとらしく首をかしげる。
距離は一歩半、もう少し。
私は右脚の隠しポケットに忍ばせた予備のナイフの感触を意識した。
斜め下の角度から隠し持ったナイフで頸動脈を斬りつける。
私の緩やかな吸気が終わると同時に敵が間合いに入った。
ここだっ!
「シッ」
鋭い呼気と共にナイフを振りぬく。
桜庭は最小限のバックステップでナイフを躱す。
刃は空を切る。
振り上げた腕越しに私と桜庭の視線が交差した。
来た、本当のチャンス!
※ ※ ※
パンッ!
消音装置付き拳銃の小さな銃声が響き、銃弾は夜の闇へ消えた。
和子が持つナイフの柄の底から硝煙が立ち上る。
夢乃は射線上から身を躱しながら和子の右手の外側に回り込み、右拳の底でナイフ形拳銃を叩き落とした。
※ ※ ※
ナイフ形拳銃がアスファルトに落ちる音を聞いて、私の意識はようやく状況に追いつく。
躱された!
躱すの?
銃弾を!?
隠し持ったナイフで斬りつけ、相手がそれを躱したところへナイフの柄に仕込まれた銃で不意打ちをする、二段構えの奇襲作戦が通用しなかった。
武器を叩き落とす動作から続けざまに、私が突き出した腕に桜庭の左手が濡れたタオルのように絡みついく。
全身を悪寒が駆け抜ける。
手首を外側に返され小手を極められた私はなす術なく地面に転がされた。
仰向けで背中が着地する寸前に手首を逆方向に旋回させられる、その勢いで右肩が押し出され私はうつ伏せで倒れ込んだ。
直後、背に感じる重み。
馬乗りになられた!
身をよじって起き上がろうとしても足をバタバタさせるのが精一杯、腕は両肘を左右から挟まれていて全く動かせない、首を動かしても真横を見るのが限界で上に乗る桜庭の姿は視界の端にも映らなかった。
「くっ…」
後頭部の髪を掴まれ顔面をアスファルトに押し付けられる、砂粒や小石が顔にめり込む痛みと息をすれば砂を吸い込む不快感が酷い。
そこへ私の眼前にさっきまで自分が持っていたナイフが突き立てられた。
「ひっ!」
「流石は殺し屋さんというか、こんな物まで持ってるなんて、旧ソ連製『NRSナイフ型消音拳銃』これはオリジナルを参考にして作られた特注品…かな?」
「………」
「ねえ、和子ちゃん?」
私の名前を知っている、今更そんなことには驚かない。
「どうして…」
「ん?」
「どうして躱せたの? あんな奇襲攻撃、解りようがないのに」
「ええー、わかるよぉ、なんか和子ちゃん狙ってるっぽかったし、最初のナイフは殺気がなくて次のココを向ける動きも不自然となれば、ね」
桜庭は「ココ」と言いながら私の目の前で単発式の銃口を指差し説明した、硝煙の匂いがほのかに香る。
説明を聞いた私は完全に脱力して地に伏した。
こんな、こんな、化け物め!
無理だ…、私じゃ無理。
……………………。
「いいかな?」
……………………え!?
何が、いいかな?
頭上の桜庭が言った言葉を考える。
いい。
もういいですか?
何が?
わかってる、何が「もういいか」なんて。
もう…。
もう、あなたを…。
あなたを殺してもいいかな?
髪を引っ張られ無防備な首筋が露わになる。
ハァー。
ハッ。
ハッ、ハー。
自分の呼吸音だけがやけにうるさく聞こえる。
声が出ない。
あ、死ぬ、え、死、死ぬの?
本当に死ぬんだ。
え? 死ぬ。
死ぬ?
死。
唐突にキンッ、という金属音が聞こえた。
目の前には折れたナイフの刃。
錯乱しかけた私の意識が徐々に冷静さを取り戻していく。
「そこまでだ」
聞き慣れた、安心する声。
背中の重さが消えて身体を起こすと、そこにはサイレンサー付きの銃を持った東雲さんと桜庭が並んで立っていた。
「はい」
私に手を差し出す桜庭、その顔は爽やかな笑顔。
呆然とする私が半ば無意識に手を握り立ち上がると、桜庭は私の身体の前面についた汚れをほろってくれた。
「えーっと、どうゆうことですか?」
私たち三人は東雲さんの車で24時間営業のファミレスに赴き、今はボックス席で注文の品が来るのを待っている。
私と東雲さんが隣同士で桜庭とは向かい合って座る、明るい場所で膝に手を乗せてちょこんと行儀よく座っている桜庭は育ちの良い真面目な女子高生にしか見えなくて、さっきまで殺し合いをしていた相手とは思えなかった。
「どうだ、和子は?」
東雲さんの問いに桜庭は芝居がかった仕草で人差し指を口元にあてて宙を睨む。
「和子ちゃんは…、反射神経がすごいね…って説明してあげなくていいんですか?」
小さく息を吐いて肩を落とした東雲さんが視線を桜庭から私に移す、いつもとは違う後ろめたさを含んだ物憂げな視線にドキッとしてしまい、今度は私の肩に力が入った。
「試すようなことをして悪かった、順を追って話そう」
「は、はい」
「今年に入ってから明星市で警察官が犠牲になる事件が多発していることは知っているな」
東雲さんの説明によると明星市内での凶悪犯罪多発を受けて、警察官により強力な銃火器を携行させる法律が審議されているらしい。
しかし、法律が施行されても実際に装備を揃え体制が整うまでは時間がかかる、そこで明星市警察が白羽の矢を立てたのが…。
「真武館宗家、世良昭蔵だ」
「でも、おじいちゃんは忙しくて…、今はフランスの保安機動隊を指導に行ってるから」
桜庭が運ばれてきたモンブランを口に運び、説明の続きを促すように東雲さんを見る。
「明星市警察が指導を求めた世良は外国の軍隊や警察関係者がこぞって教えを乞う本物の武術家だ、そして宗家本人に代わって派遣されてきたのが弟子であり孫娘の…」
「桜庭夢乃です」
ピンッと背筋を伸ばした桜庭がわざとらしい笑みを顔に張り付かせて言った。
「それでこっちの人達とつながりのある関係者から東雲さんに話が伝わって…」
「俺が依頼した、和子の体術指南役として協力してくれるようにな」
「私を和子ちゃんの標的に、というのは私から提案ね!」
置かれた状況と自分の感情を整理しているうちに、私の膝の上で握った両手がブルブルと震え出した、掌の中にはぐっしょりと汗をかく。
なんとかして冷静に気持ちを言葉にしようとする。
「………しっ」
「し?」
桜庭が揶揄うようにして首をかしげて私の顔を覗き込んだ。
「死ぬかもしれないでしょ!!」
思い切りテーブルを叩いて叫ぶ。
一瞬、店内がしんと静まり返り数人がこちらを見たが、すぐに気まずそうに視線を逸らした。
「死、死ぬか…、みんないつだって死ぬときは死ぬよ」
「んっ……」
桜庭はどこか哀しみを帯びた眼差しで私から視線を外して呟いた。
その様子に私はこれ以上の抗議をするのが憚られるような気まずさを感じてしまう。
「それよりナイフの刃を撃つなんて危ないじゃないですか、当たったらどうするんですか」
「お前が和子を殺さないという保証がなかったのでな」
打って変わって能天気な調子になった桜庭からの非難を東雲さんは腕組みをして目を伏せたまま応える。
「もう、信用ないなぁ…」
「信用していないのはお互い様だろう」
東雲さんと桜庭、二人は意味ありげな視線を交わし合った。
…………ん?
何、この間は。
「向かいのビルの二階」
東雲さんに言われて通りの向こう側のビルを注視する、よくある雑居ビルで既に室内の灯りは消えて人の姿は見えない。
二階をよく見ると、人と確信は出来ない朧げな黒い影と微かな光の反射が見えた。
あれは狙撃用スコープ?
「流石はオオカミさん、鼻が利きますこ・と!」
桜庭が持っていたスプーンを前方にかざすと、その先端を赤いレーザーポインタの光が照らした。
「ひっ」
桜庭は不敵に笑う。
東雲さんは表情を変えず動じない。
私に体術を教えに来たという桜庭夢乃…さん、この人信用していいんだよね?
私が懐のナイフに手を伸ばそうとすると東雲さんは無言のまま仕草でそれを制した。
命のやりとりは終わった、はず。
ぽーんと、冗談のようにモンブランが宙を舞った。
廊下側に向けて放られたモンブランはテーブルの傍に立っていた見知らぬ男の顔面に直撃、男の手にはオートマチックの拳銃が…。
えっ、銃!?
私が事態を認識すると同時に銃声が響き、男の胸と額に風穴が開いた。
東雲さんのコートの隙間から銃口の先端が見える、男は一瞬ぐらりと揺れたかと思うとテーブルに倒れ込んだ。
「おわああああっ!」
「キャーーーッ!」
一瞬の沈黙を経て、怒号と悲鳴。
「気をつけろ、一人とは限らない」
「は、はい」
私達三人は慌てふためくお客さんと店員さんを押しのけて店を出た、周囲への警戒を怠らずに駐車場を駆け抜けて乗ってきた東雲さんの車に乗り込む。
急発進で姿勢を崩した私がようやくシートベルトを締めて後部座席を見ると、既に桜庭が運転席の後ろの席で息を乱した様子もなく行儀よく座っていた。
「あ~あ、一口しか食べてないのにお供え物になっちゃった」
ん?お供え物…。
「って、冗談が黒過ぎるよ!」
「あはは、でも楽しいね明星市は、アレはどこの鉄砲玉さんかな?」
「さぁな、心当たりがあり過ぎてわからん」
東雲さんがぶっきらぼうに応えて、車内には重苦しい沈黙が満ちた。
私は真っ直ぐ前を見て運転する東雲さんの横顔と後部座席で微笑む桜庭の顔を交互に見比べる。
「ねえ、気づいてたよね?」
気づく?
桜庭の問いの意味が解らない、なんのことだろう?
東雲さんは表情一つ変えずに黙っている。
「さっきの路上にもスナイパーがいたこと」
私と格闘中にも同じ(?)スナイパーがいた!?
「例え狙いがナイフの刃でも私に銃口を向けた瞬間に…、バンッ! 考えなかった?」
「咄嗟のことだ」
東雲さんがそれだけ呟くと、車内は再び沈黙する。
それって、東雲さんが危険を省みずに私のことを…。
「ホント、過保護な狼さん、私が和子ちゃんを仕留めることはないって言ったのに」
「どうだかな」
「私は普通の高校生なんだから殺しなんてしないってば、ねっ?」
「え、あぁ、えっと…」
私に同意を求められてる!?
私も高校生で殺し屋の助手だし、それは…。
「よく言う、さっきの鉄砲玉だってお前を狙ってじゃないのか」
「えー、そんな!あっ、ちょっと待って」
電話に出た桜庭は適当に相槌を打って短く通話を終わらせた。
「ハンナが払ってくれたって…あっ、ハンナってさっきのスナイパーでファミレスのお会計のことね」
「うん、ありがと…」
思わずお礼を言っちゃったけど、どう反応するのが正しいんだろう。
「そうゆうわけだから、よろしくね和子ちゃん」
笑顔で差し出される右手。
私は躊躇いながらも握手に応じる。
握った桜庭夢乃の手は驚くほど小さかった。