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前編

「標的だ」

「………はい?」

 挨拶もそこそこに東雲さんがテーブルに置いた写真を見て、私は間の抜けた返事をした。

 場所は第三区で一番賑やかな商店街の入り口にある有名チェーンのカフェ、クリスマスが終わった街は一気にお正月色に塗り替えられて、年の瀬特有の浮ついた雰囲気が漂っている。

 冬休みを満喫する学生や長話をするおばさん達で賑わう店内、一番奥のボックス席で私、秋月和子(あきづきわこ)は東雲さんがテーブルに置いた写真をまじまじと見た。

「ご注文がお決まりになりましたら、ボタンでお呼びください」

 会釈して離れて行こうとするウェイトレスさんに私はメニュー表を見ずに「ホットココアで」と注文を伝える。

 私より先に来ていた東雲さんは既に空になったコーヒーカップを前にして静かに私の反応を待っていた。

「仕事……、ですよね」

「そうだ」

 東雲さんと視線を交えた私は置かれた写真を手に取ってまじまじと見た。

 写真には濃紺のセーラー服を着た少女が一人写っている、写真は登下校中に信号待ちをしているところを遠くから盗撮したようなものだったけれど、顔や身体的特徴がわかる程度には鮮明だった。

 しっとりとした黒髪と切れ長の目、飾り気無く着こなした制服姿、流行とは無縁の純日本的な佇まいの少女は顔立ちから判断して私と同年代に見えた。

「それは和子が持っていろ」

 私は呼吸が浅くなり指先が震えるのを止めるために深呼吸をして、何事もなかったかのように写真を鞄にしまう。

「いつですか?」

「明日だ、それと…」

 東雲さんが言葉を切った一瞬の間に、私は身体の芯が冷えるのを感じた。

「この仕事、一人でやれるか?」

 東雲さんが短く言い放つ。

「ん、……っ」

 口の中が乾いて唾が飲めない。

 私の周囲から雑音が消えて、キーーンという耳鳴りのような音がする。

「無理にとは言わない、出来ないなら俺がやるだけだ」

 更に数秒の間を置いて、私は大きく息を吐きようやく喋り出せた。

「そう、ですよね」

「こうゆう事も、いつかは……な」

「そ、そう、ですよね…」

「悪いな、急な話で」

 私がちゃんとした返事を出来ずに俯いていると東雲さんが小さく息を吐くのが聞こえた。

「やはり俺が…」

「やりますっ!」

 気が付いた時、私は顔を上げて真っ直ぐに東雲さんを見ていた、東雲さんは目を丸くしてこちらを見返している。

 そんな様子を見て、自分が仕事の遂行を決意したことに一瞬遅れて気づく。

「詳細をまとめてある、目を通したら処分しろ」

 東雲さんから手渡された茶封筒を素早く鞄に入れたところで、ウェイトレスさんがホットココアを運んできた。

 落ち着こうとしてココアのカップを口元に運ぶ。

 いつもはホッとする甘い香りがなんだか今は場違いで煩わしい。

「出来ないと判断した時は明日の正午までに連絡してくれ」

「はい」

 小さく呟くように、それでも東雲さんの眼を見てしっかりと頷く。

 そうして、ほんの少しだけ口に含んだココアは全く味がしなかった。


 あの後、おしゃべりをする気にはなれなかった私は寄り道をしないで自宅に帰り、玄関のドアをくぐって鍵を閉めた瞬間に鞄から茶封筒を出した。

 家はいつも通り家族は不在、静かな室内に私が慌ただしく紙を広げる音だけが響く。

 紙には標的の簡単なプロフィールと当日の行動予定が書かれていた。

 標的の名前は桜庭夢乃(さくらばゆめの)、県外の公立高校に通う二年生で17歳。

 友人宅に泊まり冬休みを明星市で過ごすため、電車とバスを乗り継いで他県から訪れる。

 狙うタイミングは目的地の最寄りのバス停で下車した後の路上、バス停への到着予定時刻は21時18分。

 場所は第三区の住宅街で、その時間は人も車もほとんど通っておらず街灯の少ない暗い道らしい。

 桜庭夢乃の身長は150cmくらいとある、私よりも小さい。

 気になっていた情報に一通り目を通した私は洗面台で手洗いとうがいをする、その時に鏡の中の自分と眼が合った。

 よく似た他人を見ているような不思議な感覚。

 あぁ、きっとアレだ、親に虐待される子供が虐待されているのは自分じゃない誰かだと思って逃避するっていうあの精神状態かな?

 そんなことを思う。

 この、秋月和子さんが明日人を殺すんだ、頑張ってね、なんて他人ごとのように心の中で応援してみたり。

 待って、そんなんじゃ駄目、そんなフワフワした気持ちで成功するわけがない、覚悟を決めないと!

 殺す!殺すんだ、私が! 明日、桜庭夢乃という女の子を。

 客観的で冷静な私と、主観的で動揺する私、二つがない交ぜになって何が自分の気持ちかわからない。

 標的が自分と一つしか年の違わない高校生ということが、嫌でも相手の生活を想像させる。

 冬休みが終わってクラスメイトが一人足りない教室。

 娘が帰ってこない家庭。

 そうゆう状況を自分の手が作る。

 覚悟はとっくに決めていたはずだった、それなのに実行が明日に迫っただけで、手が震えて、汗が滲み、息が荒くなる。

 そうだ、東雲さんに連絡しよう、無理だと断ればいい、誰も私を責めない。

 それで結局、あの女の子は? きっと東雲さんか他の殺し屋に始末される、結果は変わらない。

 それじゃ自分が嫌なことから逃げてるだけじゃないか、殺し屋になると言っておきながらなんて恥知らずなんだ、自分は。

「あぁ、あっ、はぁ…、あぁっ!」

 ごちゃごちゃの気持ちをぶつけるように椅子の上に置いた鞄の中に手を突っ込む。

 無意識に掴んでいたのは東雲さんに連絡する為の携帯電話ではなくナイフだった。

 鞘から抜いたナイフを、切っ先を天井に向けて目の高さに構える。

 よく磨かれた刃に映る瞳は人形のようだった。

 私のような女子高生に相手は警戒しないだろう、正面から行く?

 シャドーボクシングのように相手をイメージして身体を動かしてみる、相手の頭を抱え込んで肋骨の下から上向きにナイフを突き上げる、重要臓器が集中する胴体の上部を狙う突き方だ。

 もっと慎重に行こう。

 足音を消して背後から近づく、左手で相手の顎がやや上向きになるように口を塞ぐ、右手で逆手に持ったナイフを地面と水平になるように構えて肋骨の隙間から心臓を狙う。

 一人で予想される動作をなぞっていると肉を突く感触が手に伝わってくるようだった。

 自分が死ぬという自覚のないまま送ってあげたいけど、刺してから絶命まで少し間があるだろうな。

 でも、きっと何が起こったかわからないうちに逝くよね。

 気が付けば、さっきまでの動揺が嘘のように震えは止まり、汗は引いて、呼吸は落ち着いていた。

 

 それから東雲さんとは一度も連絡を取ることなく決行の時刻を迎えた。

 私は第三区の人通りが途絶えた路上で標的が来るのを待っている、ポストに寄りかかって時計を確認するともうすぐバスの到着予定時刻だった。

 ちょうど標的が通る予定の交差点からは私の姿がポストに隠れる。

 ナイフは取り出しやすさより隠密性を重視して腰の後ろに隠し持ち、雪が降るほどの寒さではないが念のために指先がかじかんで動きが鈍らないようカイロで右手を温めている。

 息が白くなる寒さはあっても夜風が湿気を帯びて身体にまとわりつくような、冬らしくない好きになれない夜だ。

 不意に遠くで車のエンジン音が聞こえた。

 続いてバスの扉が開閉する空気圧の音。

 来た。

 私は身を乗り出してバス停を確認したい欲求を抑え、息を殺して標的が来るのを待つ。

 やがてバスが身を潜める私の横を通り過ぎて行く。

 バスが遠ざかって、再び夜の住宅街から音が消える。

 それから5秒?10秒? もっと待っただろうか、ゴロゴロというキャリーケースを引く音が聞こえ始めた。

 更に耳を澄ますと聞き逃してしまいそうな小さな一人分の足音。

 小柄で体重の軽い人間の足音だ、コツコツという高い音ではないので踵の高い靴ではない。

 しばらくして標的が交差点を通り過ぎるのが見えた。

 写真通りの小柄な女の子、桜庭夢乃だ。

 大きなキャリーケースのせいで小柄な体躯が余計に引き立っている、ショート丈のコートを着てキャリーケースお重さのせいか歩く速度はやや遅めだった。

 私は足音を忍ばせて静かに標的を追う、足は踵からジワリと地面につけるように、それでいて迅速に歩を進める。

 桜庭夢乃は周囲に注意を払う様子はなく前を見て歩き続ける、私は右手でナイフを逆手に持った、標的まで残り4メートル、3メートル…。

 残りほんの少し距離を詰める時間が長く感じられた。

 残り2.5メートル…、残り…。

 今ッ!!

 闇の中でもなお黒く艶やかな桜庭夢乃の髪が風になびいた瞬間、私は彼女の背に飛び掛かった。

「ウゥッ!」

 光。

 飛び込んできた強烈な白い光に私は身体を折り曲げて目を閉じた、瞼の裏に光の残滓を感じながら左手で顔を庇い右手はナイフを奪われないように肘を体側につける防御姿勢を取った。

 光で視界を奪われる直前、相手が背を向けたまま肩越しに何かをかざすのが見えた。

 あれは多分防犯用のタクティカルライト、この上ないタイミングで使われた。

 状況を把握してようやく眼を開けようかという時、外気の寒さとは異質の冷たさが身体の中に発生する。

 突然氷の手で脊髄を握られたような無防備な命を掌握される感覚に、私はバランスを崩しながらも2、3歩後ろへ下がった。

 そいつは私の視力が完全に回復するのを待って、淑女然とした澄んだ声で言った。

「こんばんは」

 桜庭夢乃が私の目の前に立っている。

 キャリーケースから手を離して足は肩幅に開き両手を体側に沿って下げた自然な姿勢。

 口元に微かな笑みを浮かべ、私を見守るような慈愛に満ちた眼差しを向けている。

「綺麗な星空」

 桜庭夢乃はそう呟いて空を見上げた、私もつられて夜空を…。

「え…」

 見上げた夜空はどんよりと曇り、星も月さえも全く見えなかった、無限に思える濁った闇が広がるばかり。

 視線を正面に戻すと間合いの外にいたはずの桜庭夢乃が目の前に立っていた、戻元に相手の指が伸びて猫をあやすように優しく撫でられる。

「ひぃ…」

 私は咄嗟に右手を引きながらナイフを強く握った。

 その刹那、胴体を打ち抜かれる衝撃。

 密着した間合いからの強烈な中段突きに私は吹っ飛ばされた。

「かっ…、はぁ…うぅ」

 反撃準備の為の一瞬の硬直を狙われた。

 私は足をもつれさせながら、腰を低くしてナイフを正中線上に構える防御の姿勢を取る。

 桜庭夢乃は追撃をすることなく先ほどと同じように立っていた。

 真っ直ぐ私を見つめる黒目勝ちな瞳から目が離せない。

 衝撃と混乱の熱が冷めていくにつれ、私は自分が置かれた状況を把握していく。

 殺される?

 死!?

 死ぬかもしれない、今日ここで。

「遊ぼう、仔猫ちゃん」

 敵の声が夜の闇に溶けた。

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