山椒の木
母が語る、山椒の木の思い出。
おまえは、覚えていないだろうけれど……と母が語った。
おまえは、覚えていないだろうけれど、岡田の家には山椒の木があったんだよ。
そう、山椒。鰻のかば焼きにふりかけるだろう? あのピリリとした味の。あの木が一本、生えていた。
わたしが嫁に来たときには、もうそれなりの大きさだったから、岡田の家に昔からあったんだろう。でも、珍しかったね、このへんで山椒なんか見ないから。ご先祖様にこの木が好きな人がいたのかも知れない。
山椒の木はね、蜜柑のような香りがするんだよ。柑橘類とかいうのかい? あれとよく似た匂いがするんだ。夏が近くなると、細かい楕円の葉が集まった羊歯を小さくしたような葉から爽やかな香りがする。
そうするとね、アゲハチョウが飛び始めるんだ。
アゲハの幼虫は山椒の木に付くんだ。だから、夏ごろになると黄色に紫や赤の模様が入った大きな蝶が木の周りを飛ぶんだ。
へえ……知らなかった。気の利いた小料理屋さんの小鉢の料理のうえに、そっと添えられる山椒の葉をわたしは思い浮かべた。
あれは何だったのかねえ。
裏庭の日陰になったところにあったんだけど、ときおり猫が根もとで死んでいるんだよ。
猫は死期が近づくと、見えなくなるってよく聞くけど。猫を飼っていないうちの木の下で亡くなっているんだ。一年に数匹だけど。
最初は驚いたよ、そりゃ驚くだろう。
でも、まるで眠っているように死んでいるんだ。ほっとするのかね。山椒のいい香りに包まれて。
そんなものだから、見つけた者が裏手の山に埋めてくるってのが岡田の決まりでね。わたしも何度かお役目を果たしたよ。
いつだったかねえ……三毛猫が木の下にいたんだ。ああ、またかと思った。毛につやのある立派な猫だった。鮮やかな三色に分かれていて。口を少しだけあけたまま、こと切れていた。
きっと、どこかの家で可愛がられていたんだろう。手を合わせて拝んだよ。それで顔をあげたら、ふっと猫の口から蝶が飛び立ったんだ。
口にとまっていたわけじゃないよ、だってそのときはもう雪が降る季節だったから。
見事なアゲハチョウだった。それがひらひらと猫の上を二三度舞うと、そのまま飛んでいってしまった。
猫が蝶を吐いたとしか思えなかった。
次の春、わたしは子どもができた。つわりがひどくて、ろくに起きることもできなくて、布団に伏せてばかりいた。
夏に近づいてまた山椒が香り始めた頃、なぜかその匂いが鼻について。
いつもなら、楽しみにしていた山椒の香りも、ただただ頭に霞をかけるようにモヤモヤとして……わたしはえずいたよ。新聞紙を敷いた洗面器にえずいて、えずいて。
何にも食べられなくて、胃の中なんて空っぽだったはずなのに、喉をするっと通り抜けたものがあった。
わたしはベッドに横たわる母を見た。母は胸の上で指を組んで天井をみあげている。
蝶だった。
あの猫の口から吐き出されたアゲハチョウのように、黒くて大きな。広げた羽が洗面器を覆い隠したように見えた。
あっ、と思うと蝶はわたしの胸にとまって、呼吸に合わせるようになんども羽を開いたり閉じたりした。わたしは追い払うことも忘れて、蝶のビロードのような羽やくるりと丸まった触覚をみていた。
じき胸から飛び立った蝶は、部屋のなかを名残惜しげに何周か舞うと、開いた窓から外へ出ていったよ。
腹の子は流れた。
その次に生まれたのがおまえだよ。
ようやく母はわたしを見た。
わたしの前に一人、きょうだいがいたことは、実家の墓所にあるお地蔵様や仏壇に供えられる小さなおもちゃから知っていた。
……蝶はヒトの魂をのせると、あとから聞いたけれど。
猫も人も、魂は蝶の形をしているんだろうか。
母は窓の外を眺めた。初夏のスズカケの木の葉が白い光を照り返している。
山椒の木があった岡田の家はもうない。
遅くに両親のもとに生まれたわたしが嫁いで、岡田姓は消えた。
今でも蝶を見ると思うよ。
あれは、誰かの魂かも知れないと。
母は静かに目を閉じた。
いただき物の夏蜜柑が、山椒の香りに思えた。
鰻を食べた。
粉山椒がついてきた。
「お母さんが小さい時に、家には山椒の木があってね……」
そんなわけで、するっと。