第三章16 『とある人妻の想い』
「わ、若菜さん……?」
下着姿のまま真っ直ぐ俺を見つめてくる若菜さんに、俺は動揺するしかなかった。きっと俺の発した言葉が原因なのだろう、だけど、俺にどうしろというんだ。
「夕斗くん……」
迷子になった子供が親を探し求めるような、寂しそうな声で俺を呼びながら、若菜さんはゆっくり近づいてきた。それに対して俺は、何もできずにただ固まっていることしかできなかった。
ゆるりと伸ばされた両腕が、俺の体を手繰り寄せる。放心状態の俺をそっと抱き寄せ、そして強く力を籠めた。若菜さんの柔らかな肌が俺の温かく包み込み、逃げないように閉じ込める。若菜さんの心臓の鼓動が、直接頭の中に響いてくるようだ。この状況で俺はどうすればいいのか、何が正しいのか、それを判断する力をそぎ落としていく。このまま身を委ねたら、どうなるのだろうか……
そう思った途端、あの子の顔が頭を過った。
「若菜さん、俺――」
「ごめんなさい……」
「え?」
「本当はこんなことしちゃいけないのだけれど、私……とても不安なんです」
「不安?」
俺は絡みつく腕がより一層強くなるのを感じながら、若菜さんに尋ねた。
「私が光彦さんの妻でいられるかどうか……今の生活を壊してしまうんじゃないか……それが不安なんです……」
「な、何言ってるんですか。若菜さんが、そんなこと……」
「実は、私と光彦さんは親同士が決めた相手と結婚したんです」
「そう、なんですか?」
「結婚自体に不満はありませんでした。光彦さんはとても真面目な人ですし、生活も安定していて……それに今は、三葉も産まれましたので」
「じゃあ、なんで不安なんですか?」
若菜さんは俺の問いかけに、まるで思い出話をするように答えた。
「光彦さんは本当に真面目な人で、家に帰っても仕事をしています。それもあって、家での会話も少なくて……でも、三葉が産まれたばかりの頃は、私に気を使ってくれて、家事も手伝ってくれて、そのおかげで会話の機会も増えました。私はそれがとても嬉しかった。このまま三人で楽しい家庭を築ける、そう思ってました……」
だけど、と若菜さんは続けた。
「三葉が大きくなると、光彦さんはまた仕事に向き合うようになり、私は家事をしながら家族の帰りを待つ生活に戻りました。以前はそれでもいい、それが私の役目だからと納得していました……だけど、今ではこの生活が退屈に思えてきたんです。今の私には何もないんじゃないかと……」
俺からは若菜さんの顔は見えない。
だけどわかる。
今、若菜さんはきっと、泣き出しそうな顔している。
「夕斗くんは私に言ってくれましたよね?私は人気者で、自分よりも商店街のアイドルらしいって……本当はそんなこと、言ってもらう権利があるような人間じゃないんです。三葉が産まれた頃のような楽しい生活に戻りたくて、私に良くしてくれる夕斗くんに会いたいと思うような、そんな人間なんです……」
「若菜さん……」
そこで俺は、初めて理解した。若菜さんが魔法少女になった本当の理由を。
退屈だった生活を少しでも楽しくするために、若菜さんは魔法少女を続けている。そうすることで、若菜さんは超えてはならない一線を前に踏ん張っていたんだ。だがそこに俺が現れた、その所為で、若菜さんは崩れそうになっている……
「――実は、明日が結婚記念日なんです」
「!」
「変ですよね、七月一日に結婚だなんて。あと一日早ければジューンブライドなのに……でも、私はその日に結婚できて良かったと思うんです」
「なんで、ですか?」
「結婚日時が決まった時、今言ったようなことを光彦さんにも言ったんです。そしたら光彦さんは「こっちの都合で君の望みを叶えられなくて、本当に済まない。きっとこれからも、私の都合で君の望むことができない時がある。だから誓う、この先何があっても、この日だけは、君の望みを叶える」と……それから七月一日は、どんなに忙しくても私の望みを叶えてくれました。今思えば、この日があったから私はこの結婚に不満がなかったのかもしれません」
若菜さんは一拍置いて、
「でも、三葉が小学校に入学してから、光彦さんはさらに忙しくなっていって……前は一日中一緒にいられた結婚記念日も、半日だけ、夕方からと、年々短くなっていきました。きっと今年は――」
「大丈夫ですよ」
「ッ!」
驚く若菜さんを優しく引き離して、その目を真っ直ぐ見据えた。
「大丈夫です、俺が絶対にさせません」
「夕斗くん……」
「若菜さんの話を聞いてわかりました、若菜さんの寂しい気持ちも、限界だって想いも……でも、その気持ちがまだある限り、若菜さんは真田先生や三葉ちゃんのことを裏切ったりしません!こんな恋愛経験ゼロのガキに言われてもアレですけど」
冗談交じりにそう言ってから、俺はベッドから降りて立ち上がる。
「だから、もう少し――あと半日だけ待ってください。すぐにそのもやもやした不安を吹き飛ばしてみせますから!」
「で、でも……」
「それと、これは俺の考えなんですけど……若菜さんが今そうなってるのも、若菜さん自身の所為でもあると思います」
「あ……」
「だって話を聞く限り、若菜さんは真田先生に自分の思ってることを一度も言ってないじゃないですか。そりゃパンク寸前にもなりますよ」
「だって光彦さんは忙しいし、迷惑をかけるわけには――」
「そこなんですよ!」
俺の声に驚いて、若菜さんは体が一瞬跳ね上がった。自分でも自覚がないくらい、大きな声だったようだ。
「なんで若菜さんが真田先生に迷惑かけちゃダメなんですか?迷惑かけていいんですよ!むしろかけるべきなんです若菜さんの場合は!」
「ど、どうして……?」
「だって、夫婦なんでしょ?だったらお互いに迷惑かけたっていいじゃないですか、どっちか片方じゃなくて、それが――それが夫婦だと俺は思います」
「………ッ!」
若菜さんは両手で顔を覆い隠して俯いた、寝室は嗚咽の声だけが支配していた。
それを背にして、俺は向かうべき場所に向かって歩き出した。
「――だから待っててください。若菜さんが迷惑かけないといけない相手を、連れて帰ってきます」




