曼珠沙華
母さんは穏やかな優しい人だった。笑顔を絶やさず、ただ周りの幸せを願い暮らす。花屋を営み始めたのも、多くの人を笑顔に出来るからという理由からだ。父さんはそんな母さんに惚れこみ必死にアタックしたらしい。家庭環境は良好、絵に描いたような家族だった。
小学生に上がってすぐ、弟が産まれた。紫苑と名付けられた弟は、母親を知らない。元々体は弱い方であった母さんは、弟を身籠ってすぐに入院していた。詳しくは聞いていないが、出産後に体調が悪化、回復することはなく、そのまま亡くなったらしい。
父さんは10年以上たった今でも、あの人のことを忘れることが出来ずにいる。囚われているのだ。母さんによく似た弟のことを避け、店を守ることに固執するようになった。
大学を出てすぐに家の手伝いを始めたのは、不安定な父さんを支えたかったからだ。もともと人付き合いが上手いとは言えず無口な人だったが、年々それは悪化している。家族、俺と弟とも必要最低限の話しかしない。
しかし、そんな環境で育ったにも関わらず弟は母さんに似て感情豊かで穏やかだった。亡き人に囚われている父さんとも、自分とも違って。
だからこそ、見ていて辛かった。自分とは違い家族の暖かさを知らない弟が。
ただ、歯痒かった。求められても返すことのできない自分が。
だから、自分が出来ることならなんでもしようと、そう思った。
からん、と扉につけられたベルがなった。反射的に振り返り声を出す。
「はーい」
狭い店内に所狭しと並べられた棚や鉢植えの間を縫うように進むと、見知った顔が見えた。
「お、亜美ちゃん。いらっしゃい」
可愛らしい女の子が立っていた。彼女は落ち着かないようにキョロキョロと辺りを見渡している。
「あ、あの、こんにちはっ」
「こんにちは、今日は何かお探しで?」
「えと、違くて……紫苑くんは、居ますか?」
箕園亜美は近所に住んでいる常連さんの娘だ。母親同士が仲良かったということもあり、母さんが死んだときや死後、亜美母には世話になっている。紫苑とは歳が近かったためよく遊んでいた。確か、今年高校受験が控えていたはずだ。
「高校について聞きたくて……」
慌てて付け足した。
「紫苑ね……まだ帰って来てないかな」
聞くや否や残念そうに俯くのを見て、若いとは良いななどと考えてしまう。
「せっかくだし、ちょっと奥で待ってなよ。もうそろそろ帰ってくると思うし」
「いいんですか?」
「うん。お客さんもこの時間には滅多に来ないしね。俺の意見も少しは参考になると思うよ?」
奥の小さな接客スペースに招き入れ、そこでしばらく時間を潰すこととなった。
「亜美ちゃんも来栖ヶ丘高校目指してるんだって?」
「はいっ、ここら辺じゃ一番近いし、学力も丁度いいし、制服も可愛いし、それに……」
「紫苑もいるし?」
「……っ?!」
ぼんっと頬が紅く染まる。見ていて焦ったくなるほど、亜美は分かりやすい。紫苑は紫苑で気がついていない訳がないが、あえて触れていないように思える。
「ごめんごめん、もう言わないから」
紅くなったまま俯いてしまった亜美に声をかける。行動力はあるのに指摘されると弱いなぁ、などと思う。
「……そうですよ、どうせ椿兄にはお見通しなんですね」
「ごめんって。お詫びに後で、紫苑に好きな子とかいないのか聞いとくからさ」
こくんっと頷く亜美は本当に可愛らしい、性格も申し分ない少女だ。紫苑は何が不満なのだろう?
「ただいま」
教科書を広げ、宿題だという問題の解き方を亜美に教えていると、突然肩に重みがかかった。
「亜美?どうしたの?」
肩越しに話しかけてきたのは、帰宅した紫苑だった。
「おかえり。配達は無事終わったのか?」
「うん、問題ないよ。はい、納品書」
受け取り、控えと金額と照らし合わせて確認していると、するりと肩から離れ隣に座った。
「んで、どうしたの?お使い?」
「ううん、今日はね、紫苑くんに高校について聞こうと思って」
「ふぅん……」
何やら思案を巡らせる紫苑を、緊張した様子で見つめる亜美。そしてそれを眺める椿という不思議な構図が出来上がる。数秒後、なにやら考えがまとまったらしい紫苑が動くまで、とても静かな時間が流れた。
「分かった、何が聞きたいの?答えられることならなんでも答えるよ」
亜美の表情が一気に明るくなる。
「亜美ちゃん、そいつの“なんでも”は信用しちゃ駄目だよ。はぐらかされるから」
「なんか、今日の僕は信用ないね……」
肩をすくめながら、それで?と亜美を促す。
1時間ほど、二人は話し込んでいた。離れた場所で作業していたため詳しくは分からないが、時々笑い声が聞こえてきたことからそこそこ盛り上がったようだ。
作業がひと段落したためテーブルに近づくと、亜美が電話に出ていた。暇そうな紫苑がひらひらと手を振ってくるのに答え、座ったところで通話は終了した。
「なんか、最近近くで事件があったらしくて、危ないから早く帰ってきなさいって言われちゃった」
「事件?ここら辺でなんかあったっけ?」
思い当たる節がなく、聞き返す。
「裏通りで何人か死んじゃったらしいの。確か、喧嘩だったと思う」
「へぇ、喧嘩ね……紫苑、知ってたか?」
「ん、一応。というか何で椿兄は知らないのさ。今日のお客さん、その事件の人だよ」
興味なさそうに答える紫苑が意外だった。昔から好奇心旺盛で、近所で事件など起きようものなら家を飛び出していくこともあったのだ。そして、自分で納得するまで調べていた。成長した、ということなのだろうか。
「客って言ってもそこまで踏み込まないからな……寧ろなんで客が事件の人って知ってるんだ?」
「分かるよ。見てれば」
妙な胸騒ぎがした。何か自分の知らない、弟の一面があるのではないかと唐突に思えた。
「紫苑……?」
「あの、ごめんね、私帰らなきゃ……」
おずおずと亜美が割り込んできた。はっとして、笑顔を繕う。
「あ、そうだね。暗いし送るよ、紫苑が」
「えっ、私は別に」「分かった、ちょっと待ってて」
言い残すと、紫苑は二階の自室へ向かっていった。ちらりと亜美を見ると、紫苑を見送った姿勢のまま固まっている。
「椿兄の嫌がらせ?」
「ご冗談を。優しさだよ」
目を合わせずに答える。合わせたら最後、1発喰らわせられるのではないか、というほどの怒りとも言える感情が込められていた。初めての恋をしている少女には、夜道で二人というのはハードルが高すぎたようだ。
「お待たせーーって、どうしたの?」
ただならぬ雰囲気を感じ取ってか、戻ってきた紫苑は首を傾げる。
「なんでもない。いってらっしゃい」
二人を送り出し、そのまま台所に立ち、慣れた手つきで簡単な料理を作る。ご飯作りは中学生の頃からずっとしてきた日課だ。今では、そこらへんの主婦顔負けの腕前になった。
トントンとネギを刻んでいると、気付かないうちに口ずさみ始めていた。
ーー私は 私は 満たされない
知りたいことは沢山なのに
やりたいことは沢山なのに
知るため使う おててが無い
やるため使う あんよが無い
冷たい体 全部を出して
冷たい心 全部を使って
知ることできる ものはなに?
満たされるもの それはない
昔どこで聞いた歌。あまり気持ちのいい歌詞ではないが、リズムがどうしても頭から離れずに染み付いてしまった。
「椿兄の趣味もなかなかだよねぇ」
「うるさい。頭から離れないんだよ」
いつの間にか帰ってきていた紫苑に聞かれていた、という恥ずかしさを誤魔化すようにぴしゃりと言い放つ。だが、紫苑はというと気にする様子はない。
「私は 私は 知っていく
冷たいおてては ないことを
冷たいあんよは 幻で
気づけば ひとり ひとりぼっち……
だっけ?なかなか挑戦的な歌詞だよね。童謡じゃないだろうし、一体どこでこんな歌」
「残念なことに覚えてないんだよ。いつの間にか歌えてたし……ほら、早く運んで食べよう」
テーブルを囲い、いつも通り2人での食事。父さんといえば毎日いつの間にか食べ終えているため、もう何年も3人で食卓を囲んでいない。
「そういえば、何か面白いことでも見つけたのか?」
普段からニコニコしているが、今日は特に笑顔だった。まるで遠足に行く前日の子供のような、隠しきれない喜びが伝わってくるような、そんな感じ。
「ん、やっぱり椿兄に隠し事は出来ないかぁ。ちょっと、面白そうな友達が出来たんだよね」
「へえ、珍しい。友達か」
「僕にだって友達くらいいるよ?」
はいはい、と軽く流す。親代わりのような身としては、嬉しい限りのはずなのだが、先ほど感じた胸騒ぎが拭えずにいた。どうしてだろう。
「明日、楽しみだな」
だが、そんな疑問も話していくうちに薄れ、忘れてしまった。
なぜ、友達がいる、出来たという紫苑の言葉を珍しいと思ったのか。疑問を抱いたときにきちんと原因を探すべきだった。
あの時、もっときちんと紫苑のことを見ていれば。望むことを、何て言わずに踏み込んでさえいれば。あの頃はただ、こんな毎日が続くと思っていた。大した目標もドラマもなく毎日を消化していく、そんな日々が。そして、自分はそれを望んでいた。
だが、もう叶わない。