わたしの小さな勇者さま
******
冬を待つある日のことです。
パチパチと歌う暖炉の声を聞きながら、カエデの樹液を煮詰めて作ったメープルシロップを小指の上にすくって、ぺろぺろと味見をしていました。本当は、お母さまに貴重品だから食べちゃダメ、って言われたけど、すごくおいしいから、仕方ないと思うの。
松材の床は、暖炉のおかげで素足でもほのかに暖かくて気持ちがいい。ロッキングチェアーに座って、ゆらゆらとわたしとお父さまのセーターを編んでいるお母さまに気が付かれないように、メープルシロップの入ったビンを棚の中に戻しました。ほんの少しだけコトリって音が鳴ちゃったけど、お母さまは編み物に夢中で注意を払っていません。そもそもわたしの身長では、棚に届かないって思っているのかも。台を使えば十分に届くようになったもん。
集中しているところを邪魔すると、不機嫌そうに眉をひそめて、わたしの夕食のおかずを気持ち減らしてくる嫌がらせをするお母さまの気を散らさないように、この家、唯一の窓の外を覗きました。
しんしんと降りしきる初雪。まだまだふんわりしていなくて、ちょっとしめっぽい雪。雪じゃなくて、みぞれ。わたしが昨日の夜から降り始めた雪に、声を上げると、お父さまは笑いながら、そう言いました。納得がいきません。もう少し夢を見させてくれても良いのに。
ふぅ~って息を吹きかけると、冷えて冷たくなったガラスは白く曇ってしまいます。そうして指でガラスをなぞると、ぴりりっとした冷たさが指先に感じて、指の跡を残しました。しばらく面白くて、そればっかり繰り返していると、外がにわかに騒がしくなってきます。
昼下がりでも、どんよりとした空模様のせいで薄暗いベイルークの村に、けったいな格好した集団が入ってきます。ピエロみたいに顔にお粉をした旅芸人さん。金色の髪を後ろにまとめて、リュートをかき鳴らす吟遊詩人さん。そして、荷馬車を服、干し肉、くぎやくわの生活用品から、きらびやかな宝石や香辛料、香水の嗜好品でいっぱいにしている行商人さん。
わたしは嬉しくなって、お母さまを振り返りました。相変わらず、ただひたすら同じように編み棒を繰り出しています。
「お母さん! 商人さんたちが来たよ!」
「あら、そうなの? そういえばそろそろだったかしら」
お母さまはギシギシと音の鳴るロッキングチェアーから、ゆっくりと立ち上がると台所の奥に姿を消しました。秋に余った作物を市で売って得たお金を持ってくるのでしょう。でもわたしはそれさえも待ちきれなくて、玄関にいち早くたどり着くと、お父さまが狩ったクマの毛皮でこしらえてくれたブーツを履きました。ふかふかの履き心地がお気に入りです。
「先行って良い?」
「ミュア、ちょっと」
「行ってきます!! アランおじさんの所にいるからね」
お母さまはわたしを止めようとしたけれど、無視してしまいました。厳しいお母さまのことだから、また何かお仕置きされちゃうかも。でも、今日だけは譲れないの。この何もないベイルークの村、唯一の娯楽なんだもん。ブーツとお揃いになっている手袋を付けるとわたしは外に出ました。
ざくざくとわたしの人差し指の長さくらいだけ積もった雪を踏みしめて、雪に残ったわだちとひずめの跡を追います。
鈍色の空とは対照的に、小さなベイルークの村は黄色い活気に包まれていました。行商人さんたちの訪れるこの日は村人にとって、お祭りと一緒です。娯楽の少ない田舎で、異国の珍品に触れ合ったり、聖都で流行の服を着飾ったり、甘かったり辛かったりするお菓子を食べることが出来るのは、この一週間だけです。
行商人さんたちが野営しているのは、村のはずれ。地面に木の杭を打ち付けて天幕が飛ばされないように固定していました。冬の寒さを吹き飛ばすように、松明がいたるところに立てられて、白い雪の上をちろちろと赤く照らします。もう既に気の早い村人たちが人だかりをなしていました。大人の人たちが興味のあるのは、服とか食料とか、宝石ばっかり。わたしが行きたいのは他の天幕です。
小さな体を、大人と大人の間に滑り込ませて前に進んで行きました。目指すのは、黄色の天幕とは違って、赤やオレンジとカラフルな彩色のされているテントです。行き交う人波を縫って、目的地に到着。もう知り合いの子たちが来ていました。
「ミュアも来たのか」
一人が振り返りました。この村では珍しい赤髪をはねさせているのは、パン屋のラウくんです。わたしは思わず顔をほころばせてしまいました。
「うん! ラウくんも見に来たんでしょう!」
「まぁ、な」
「しもやけかなぁ。ラウくんほほ赤いよ」
わたしが手袋でこすってあげようとすると、振り払われてしまいました。
「ダイジョブだって」
「本当に?」
ラウくんはちょっとだけ恥ずかしそうにしていました。わたしが怪訝そうに顔を覗き込むと、ぷいっとそっぽを向いてしまいます。に、さん、年上のラウくんはいつもわたしにお兄さんのように付き合ってくれます。でも最近は、少し避けられる気がして悲しい。
「おぉ、坊主たち今年も来てくれたのかえ! いや~嬉しいのぉ」
カラフルなテントから自慢のウクレレを抱えて出てきたのは、少し年を食った森人さんです。魔法使いの被っているようなヘンテコなとんがり帽子を被っている壮年。どことなく胡散臭い雰囲気を撒き散らしながら奏でられるお話が、わたしは大好きでした。
「アランおじさん! お久しぶりです!」
「おぉ? ミュアかぁ? 成長したのぉ。シリルさんに似てベッピンさんになりそうじゃ。ワシ的には、もうすこし熟したほうが……ブツブツ」
「もうっ! アランおじさんに言われても嬉しくないもん」
最近は、村人たちもよくわたしの容姿を褒めてくれます。嬉しいのだけど、嬉しくありません。本当に褒めて欲しい人は、まったく一言も無いのだもの。
「ふぉっふぉ。良きかな、良きかな」
アランおじさんは、ラウくんにちらりと目を向けるとまたふぉっふぉ、と笑いました。何事かをラウに耳打ちするアランおじさんだったけど、真っ赤になったラウに、ブーツの足先を踏みつけられてしまいます。
「まったく、人生の先輩の親切な忠告だと言うのにのぉ」
「そんな忠告いらんねぇっつーの!」
「これだから……ブツブツ」
またラウくんはアランさんの足を踏みつけました。アランおじさんはいつも一言多くて、人に誤解されてしまうことが多いけれど、たぶん良い人。たぶん。
「もうラウったら。お母さんがお痛しちゃダメって言ってたもん。老人は労らないと死んじゃうんだよ」
「うっ……。だって」
「ふぉっふぉ。小さな小さなお姫様、許してやってくれないかえ。ワシは気にしとらんからのぉ。ほれっ、仲直りにこれをあげようかのぉ」
まったく似合っていないウィンクをしたアランおじさんは、天幕に一回引っ込んで行きました。戻ってくるとその手には、真っ赤なものが刺さった棒きれを持っています。受け取って鼻に近づけると、ほんわりとした果実の甘い匂いがします。
「これなーに?」
たぶん、りんごだと思うのだけどそれにしては小さいし、テカテカ光っています。
「まぁ、舐めてみんしゃい」
恐る恐る舌に乗せると、じわっと甘味がとろけます。感じたことのない甘味にわたしは驚きました。ついついかじってしまうと、今度は酸味が混じります。
「ふぉっふぉ。甘いじゃろう。砂糖じゃからのぉ」
「え!? お砂糖? そんなに高価なもの……」
わたしは急に恐ろしくなって、慌てて口から離しました。砂糖は貴族さまのご令嬢様くらいしか食べることができません。甘味は、メープルシロップかハチミツしか食べられません。助けを求めるように、ラウを見ると、彼も同様に目を見開いていました。
「ダイジョブじゃ。代金は請求せんからのぉ。それは南洋諸島のサトウキビではなくて、ブルック北原の一角で試験的に栽培したビーツの一種から作った砂糖じゃ」
「へ~」
よく分からなかったけど、すこしビクビクしながら、しゃくりともう一口食べました。優しい甘みとりんごのすっぱみが広がります。横でヨダレもたらしそうなほど、凝視していたラウにも「食べる?」ってわたしがかじったのと反対側を差し出したのに、「いらないっ!」って断られました。やっぱり嫌われてしまったのかも。何がいけなかったのかな。一緒に水浴びしようって言ったのが、女の子として、はしたなかったのかな。それともラウに付きまといすぎたこと? 全然分かりません。
「おう! ラウじゃねーか」
「ミュアちゃーん! 来たよ~!」
「待ってよ~、ヒムロ、ミカゲ~!」
他の家の子供たちも、どんどんアランおじさんの所にやって来ました。ずんぐりしているのは鍛冶屋土人のところのヒムロくんとミカゲちゃん。後ろから鼻を垂らして追いかけてくるのは、小人のカイくん。
ぞくぞくと集まってくる子供たちに、アランおじさんは、りんご飴を配っていきます。ラウも一本貰おうとしたのに、意地の悪い顔をしたアランおじさんに断られて、しょげていました。だから人に親切にしないと、しわ寄せが来ちゃうのに。わたしが、半分以上食べてしまったりんご飴を無言で差し出しても、やっぱり断られてしまいます。
その様子を、目を細くして観察していたアランおじさんは、十分に人が集まったのを確認すると、木箱に立て掛けていたウクレレを左腕に抱えて、木箱に腰を下ろしました。足を組み、右手で弦をぽろろーんと奏でます。
「……遥か悠久の彼方へ消え去った者たちの物語を、言の葉に乗せてお主らに語ろうかのぉ。このヘイルムの地上に、彼らの生きた証が全て失われてしまったとしても、お主らの記憶には残るじゃ。今ここで聞いたことを、ふとした瞬間に思い出す、それが彼らへの最大限の手向けになるのじゃ」
ガヤガヤと騒いでいた子供たちも、アランおじさんのしんみりとした声音に徐々に静まっていきました。わたしも自然と物語に吸い込まれていってしまいます。時々奏でられるウクレレの音がとっても耳に優しくて、あったかい。
「これは、そうじゃのぉ~。お主らの父、母、そのうーんと昔、へイルムの地を天帝アレイオス様が治めていた頃のお話じゃ。
ちょうど、この雪の深いベイルークと同じような寒村に、一人の勇者が生まれたのじゃ。今の異界から召喚された勇者でも、貴族出身の騎士でもない、名もない農民の三男の少年じゃ。名をカイト、といった。
彼は故郷が魔族に侵されたとき、父のカマを持って立ち、迫り来る魔物を追い払った。すべては勇気の成せる技じゃ。今の勇者のように人外じみた魔法も力もない。土人の打った名剣も、小人の精緻な鎧も、森人の強くしなやかな弓もない。己の持つ心の強さで、国に見捨てられた故郷をその手で守ったのじゃ。
彼は与えられた名声も財宝も地位もすべて断ってしまったのぉ。カイトは自身の力を故郷のためにしか使わなかった。彼は自分を育ててくれた故郷、そして何より幼馴染であった想い人を守りたかったのじゃ。カイトは勇者でなくても、故郷の英雄じゃった。手の届く範囲を自身の庇護で守り、その地は魔族の侵略の時にあって、平和じゃった。だがのぉ……、運命はカイトを安穏とした平和の過ごさせてはくれなかったのじゃ」
アランおじさんのウクレレの声は切なげな調子に変わりました。それに応じて、とんがり帽子を目深にかぶって、顔を伏せてしまいます。
「時は、大魔王スレイムス時代。精強な魔族の軍は、天帝アレイオス様の神聖連盟軍を最後の砦モルック峡谷で破り去り、聖都クテシフォルノに迫ったのじゃ。はやこれまで、アレイオス様は藁にもすがる思いで、巷で武勇の名高かったカイトを冬の王宮に召喚したのぉ。
カイトは最初でこそ、その申し出を断ったのじゃ。天帝の涙ながらの説得を、すげなく断るカイトは王都の人々の瞳に悪魔のように映ったじゃろう。彼はもちろん血も涙もない人間ではないのぉ。公では断ったものの、悩んでいたのじゃ。自分が故郷を留守にしている間に、もし何かがあったら……、しかし苦しむ民を見捨ててしまうのは、自分の信条に反する。食い違う二つの感情の狭間で、カイトは大いに苦しんだのじゃ。
その背中を優しく押し支えたのが、幼馴染の存在じゃった。『私たちは十分守ってもらった。あなたの力でみんなを助けてあげて』、その一言でカイトは決意を新たにした。『戦が終われば必ず帰る』とシレナイの樹下で約束したカイトは、国中から集められた英雄たちの旗頭となったじゃ。剛剣フレニオス、蒼き弓ミハエル、煉獄の鍛冶ヒミトリア。名だたる者たちを率い、大魔王スレイムスの軍に、放たれた矢の如く突き刺さり、甚大な被害を与えたのじゃ。
誰もがその結果を知っておるのぉ。大魔王スレイムスは勇の誉れ高き者たちに討たれたのじゃ。今も聖都クテシフォノの石碑には、始原の勇者として名が彫られておる。剛剣フレニオス、蒼き弓ミハエル、煉獄の鍛冶ヒミトリア、大森林の賢者サマエル、孤高の暗殺者ラルフ。だがのぉ……、その中にカイトの名はないのじゃ。悲劇的な末路をたどる勇者カイトの物語は、大魔王の死後も終わっていなかった……」
アランおじさんの声は、雪の降る空気を不思議な調子で震わせます。ちゃんと毛皮を着込んできたのに、ぞくっと背筋が寒くなりました。
「大魔王討伐を終え、冬の王宮に帰り着いたカイトは民衆の暖かい拍手と歓声に迎えられた。城下では祭りが開かれ、王宮の晩餐会に招かれる毎日。カイトの故郷への思いは日に日に高まっていった。
そんなある日のことじゃ。天帝アレイオス様は、自身の娘をカイトに嫁がせることに決めたのじゃ。民衆は救国の英雄と天帝の娘の婚姻を当然の如く歓迎したのぉ。これは、もちろん政略の意味もあったが、姫もカイトに惚れ込んでいたのが最大の理由じゃ。
満面の笑みで婚姻を勧める天帝を、カイトは二の句も継がせぬよう断ったそうじゃ。『俺には故郷に残した許嫁がいる。その申し出は受けられません』カイトは幼馴染とした約束を忘れていなかったのじゃ。祝賀会の空気は、それはもう凍ったのなんの。人の良い天帝様は少し顔をしかめて『そうか』で済んだのじゃが、姫はそれが許せなかったのじゃ。顔を真っ赤にして詰め寄る姫にも、カイトは動揺せず『あなたのことは愛せない』と言い切った。いや言い切ってしまった。
その時でこそ、引き下がった姫じゃったが、胸に広がる黒い気持ちは抑えることが出来なかった。どうしてわたしが拒絶されるの……、勇者さまは、わたしが嫌い……、いいえ。どこの馬の骨とも分からない許嫁さえいなければ……。姫は自身の親衛隊をカイトの故郷に派遣して、幼馴染の暗殺を命じてしまったのじゃ。
故郷の地を踏んだカイトが見たのは、一面の焼野原じゃった。懐かしき故郷は、その思い出のよすがを焼き尽くすが如く、すべてを消し去っていたのぉ。動揺したカイトは、一目散に幼馴染の家に向かったのじゃ。そこにあったのは、冷たくなった幼馴染の亡骸。
すべては故郷のために……。その思いを胸に戦場に立ったカイトは、怒り狂ったのじゃ。今までの行為が全て否定されて、善なる心は狂気に染まりきった。それを止めていたはずの幼馴染は、死んでしまったのじゃ。一度は国のために振るわれた剣は、その矛先をまっすぐに主たる国に向けたのじゃ。
カイトの剣は、戦場にあって輝く。逆賊になってまでも、彼は復讐を遂げるために今までの名声を、地位を、かなぐり捨てて王都に迫った。万を倍する国軍に正面から一人突貫し、天帝から授かった聖剣を騎士の血で真黒に染め上げ、黒雨のごとき弓矢をすべて撃ち落とし、迫る火の玉を潜り抜け、堅牢な城門を一撃で突き破り、王の間まで一直線。遮るものは全て一刀で切り捨てられたのじゃ。
天帝はすべてを察しておられた。首元に剣を突きつけられてなお笑みを浮かべて『余を殺してくれ』と言ったそうじゃ。しかしカイトはその一言ですべてを理解して、帝の後ろで震えていた姫を睨み付けた。天帝の懇願むなしく、姫は幼馴染と同じ右胸への一撃で、切り捨てられた。呆然とする天帝に、カイトは言ったのじゃ。
『二度と俺と関わるな。すべては民の力を見くびった帝の責任だ。たとえこの身が朽ち果てようとも、帝が民を裏切れば、俺の剣がお前の首を、子孫の首を切り裂く』
故郷に戻ったカイトは、冬の王宮から奪った金品を投げ打って、ギルドを結成したのじゃ。公権力に縛られることのない自由を謳い、王権に反してでも民の利益を守る人々、冒険者たちの起源じゃ。『すべては自らの守りたい者の為に』 ギルドに掲げられた言葉は、カイトのモノだと伝えられておる。以来、平民の階級からは勇者は現れない。いや、勇者の素質を持つ者がすべて冒険者ギルドに所属しているのじゃ」
アランおじさんは、そこで緊張の糸を切るように、ふぅっと息を吐きました。白く曇った呼気が、ゆっくりと消えていきます。
「お主らは、天帝からの厳しい徴収もなく、まして徴兵されることもない。日々甘受しているその益は、すべてお主らの先達が築いたモノじゃ。
カイトは、晩年天帝から石碑に名を残しても良いか?という要請を断ったのじゃ。『自分の守りたい者を守れなかった俺は、勇者どころか英雄でもない』、そう言い切り、名を残さなかった。次代の帝たちは、自分たちの醜聞を隠すために、勇者カイトの物語を歴史の闇に葬り去ったのじゃ。
だが、貴族の書物にも、王国の大図書館の書簡にも残らなかったカイトの物語は、こうして民衆の間で語り継がれておる。冒険者ギルドはお主らに、今も帝に物を申す民の口じゃ。お主らは、それを努々(ゆめゆめ)忘れてはならないのじゃぞ」
語り終えるとアランおじさんは、木箱から立ち上がり、テントの中に戻っていきました。わたしが目を輝かせて周りを見回していると、浮かない顔をしたラウの姿が目に入りました。景気が悪そうにため息を吐いています。
「ラウ、どうしたの?」
アランおじさんの話は面白かったと思うのに。不思議です。一瞬、ぎくりとした顔をしたラウは、わたしの顔をしばらく見たり見なかったり。とても挙動不審です。わたしが唇を尖らせると、ラウは観念したように口を開きました。
「今の話、ミュアはどう思った?」
「悲しいけど、良い話じゃないの?」
「そうじゃなくて……。カイトの生き方はどうなのかなぁってさ」
「カイトの生き方?」
ラウはまた、ため息を吐きます。そんな風に息を吐いたら幸福が逃げちゃうのに。
「そうだよ。目先の利益じゃなくて、感情を取った生き方」
「うーん。結末は分からないけど。お姫様じゃなくて、幼馴染の選んだのは、すごーくかっこいいなぁ。わたしも言われたいし。ロマンチックだよね。農民からを身を立てても、奢らないところがね」
***
「そうか、かっこいいか」
ぼくは、笑顔で言うミュアの『かっこいい』を口の中で呪文みたいに唱える。自分はどうだろう。物語の勇者になれるなんて、青臭い夢はとっくに捨て去った。でも、このまま生きていてもただ町のパン屋になって終わり。それでいいのだろうか。
ミュアは、そんな自分のことも『かっこいい』と言ってくれるだろうか。
最近、急に女っぽくなって可愛らしくなったミュアに振り回されっぱなしだ。昔は、親友みたいに接することが出来たのに、最近は距離感を上手く測れない。今も、ぼくの『かっこいい』というセリフにうんうんと頷いている姿が可愛らしくて、思わず抱きしめたくなってしまう。
くりくりとしたブラウンの瞳、少し癖のあって肩くらいまである茶髪、ピンク色の唇。触ったら壊れてしまいそうで、どうしても一歩引いてしまう。昔と変わらないはずの笑顔は、ぼくの胸を苦しくする。
「あっ、そうだ、まだ一口残ってるけど、りんご飴食べたいんでしょう?」
ぼくが思考に沈んでいると、ほとんど残っていないりんご飴を差し出された。すごくおいしそうだ。でも、ぼくはミュアの口に触れた物なんて、気恥ずかしくて食べられない。昔は、一つの水筒で山に遠足もしたのに。本当に自分はどうしてしまったのだろう。
「いらない」
だから短い言葉で、それを断るとミュアを振り切るように家に急いだ。ベイルークの村人たちは、ほとんど総出で行商人の天幕に行ってしまっているので、村の中心部は逆に閑散としている。まだ降りやんでいない雪が、人々の足跡を埋めて、ふかふかになっている。
自分の家は、町の中心部の少し南側に位置する煙突のある家だ。家の戸に立つと、小麦の焼ける香ばしい匂いがしていた。行商人たちの保存食用乾パンを作っているのだろう。
「……ただいま」
「おう! ラウ早いなっ。ちょうどいいや、手伝え!」
父が厨房から顔を出して手招きをした。ぼくは布で手を拭い、外套を脱いで木に掛けると厨房に入った。渡された生地をぐにぐにと捏ねまわして、なるべく空気を入れて食感を柔らかくする。聖都では、パン柔らかくする魔法の材料が開発されたけど、こんなド田舎には伝わってこない。
まぁ、どちらにせよ、乾パン。シチューに混ぜ込んで食べないといけない様な物に青春賭けても仕方がない。でもそこを妥協しないのが、ぼくの父だった。
「ラウ、もっとしっかり力を入れろ」
「……ごめん」
いつもなら上手くいくのに今日はどうしてか、上手くいかない。
「なぁ、そんな適当にされても困るんだが」
「……ごめんって」
「もう良い、向こうで休んでろっ!」
父は、ぼくを厨房から追い払った。パン屋の息子なのにパンも満足に捏ねられない。
「ねぇ、父さん」
ぼくは忙しそうにしている父をじっと見つめた。
「ん? なんだ、手短にな」
「毎日、パン捏ねて、焼いて、楽しい?」
「はぁ?」
ぼくの変な質問に、作業止めて父は顔を上げた。口には出さないけど、『なにいってんだ?』と顔には書いてある。でも、ぼくの思いのほか真剣な顔を見て、はぐらかそうとした言葉を飲み込んだ。
「そうだな。正直言って楽しくはない。でも俺は家族を養うために出来るのはこれだけだ。小さい頃は、親父の……、お前のじいちゃんのパン屋を継ぐのが嫌で嫌で仕方なかったが、今はそれなりに満足している。お前も俺のパンがおいしいと思うだろ」
「うん。でもぼく最近、パン屋継ぎたくないって思ってさ」
「え!?」
動揺する父。それはそうだろう。ぼくは子供の頃から、父の焼くパンが大好きで、毎日、毎日、そこにたどり着こうと練習してきた。ほんの少し前まで、王都でパンを柔らかくする魔法の薬を手に入れてくるのが、将来の夢だった。
「だって、パン屋ってかっこよくない」
「えっと、まぁ、そうだな」
「パン焼いたって、何も守れない。弱いだけだ」
父は、それを聞くと、う~んと唸った。
「たしかにその通りだ。俺のパンは言って、旨いだけ。毒にも薬にもならん。でもな、俺はこのパンを売って、お前たち家族を守ってる。それが俺の手の届く範囲だ。俺には世界を背負うとか無理だしな。これぐらいで丁度いいんだ」
「そうやって、小さくまとまっちゃうの、何か嫌だ。ぼくだって何か大きなことしてみたい。手の届く範囲をちゃんと守りたい」
「はは、お前も言うようになったな。悩め、悩め。俺の結論は、パン屋だったけどな。お前もお前なりの答えがあるだろう」
父は笑いながら、厨房の奥に消えて行ってしまった。ぼくの手は何が出来るのだろう。一生、パンを捏ねるだけで終わるのは嫌だ。だって『かっこよくない』もん。父は母にぼくと一緒にパンを焼きませんか?とプロポーズしたらしい。でもそれじゃあ絶対にプロポーズなんて成功しないと思う。
***
「ラウくーん!! 待ってよー」
わたしがりんご飴を差し出したら、ラウくんは逃げるようにどっかに行ってしまいました。そんなにわたしの食べ欠けが嫌だったのかな。少し傷つきます。
わたしが項垂れていると、後ろからぽんぽんと肩を叩かれました。後ろに立っていたのは、ミカゲちゃんです。わたしより年上なのに同じくらいの背丈だけど、がっしりとした体格です。悪戯っぽい顔が可愛らしいです。
「ミュアちゃん、どうしたの? 湿気た顔して、折角のお祭り楽しまないと損だよ」
何の肉か分からない串焼きを豪快に食いちぎっています。土人はいつもこんな感じで豪快です。告白も、好きな人に夜這いするそうです。わたしもこれくらい大胆な性格をしていたら、思いを正直に告げられるのかも。
「……うん」
「なんだ、なんだー。その気の無い返事。さては……ラっ!」
わたしは、恥ずかしくなってミカゲちゃんのソースで汚れた口に残ったりんご飴を放り込みました。ラっ……の後の声は、もごもごと消えてしまいます。
「ごくり。うーん、これおいしいね」
「りんご飴だって。お砂糖使ってるんだって」
「げげ! 砂糖!? お金ないよ」
「金貨三枚、ちゃんと払ってね」
わたしが、にっこりと笑うとミカゲちゃんは一目散に逃げて行ってしまいました。その背中を眺めながら、わたしはため息を吐きました。暖かい思いは冷たい冬の空気に触れて白く霞んでしまいます。
わたしの思いは村中の子が知っているのに、気が付いてほしい人はいつもそっぽを向いたまま。どうしてなの。こんなに近くにいるのに、最後の一歩が踏み出せません。
わたしが何か行動起して、それが悪い結果になって。友達でさえいられなくなっちゃったら……。わたしは何を信じて生きて行けばいいの? いつも口の端に引っ掛かった言葉は、理性に押し戻されてしまいます。
待っているのに。もう待ちきれないの。どうしてなの?
私から一歩踏み出して距離を詰めれば良いだけなのに。
それが出来ないの。
わたしは、臆病なのかな。白くふんわりした雪が舞い降りてきます。両の手で受け皿を作って、雪を受け止めると、黒っぽい毛皮の手袋に白い雪の結晶が映えます。とっても綺麗で、もっとよく見ようとしたら、息で水に変わってしまいました。
あぁ、もしかしたらこの気持ちも雪の結晶みたいにいつか解けちゃうのかもしれない。
***
どうせぼくは頭が良くない。この言いようのない無力感を埋め合わせる手段なんて分からない。やっぱりパン屋の息子。分を弁えないといけないのかもしれない。
でもそれじゃあ、結局同じだ。ぼくは、あのヒマワリみたいな笑顔を守ってあげたい。たとえば、ミュアが魔族にさらわれて、ぼくは何ができるだろう。たとえば、ミュアが金の指輪が欲しいって言って買ってやれるだろうか。
村のパン屋じゃ無理だ。どうすれば良いのだろう。答えは出ない。ぼくが村を歩いていると自然と鍛冶屋に足が向いた。そうだ、単純かもしれない。でも剣があれば、守ってやれるかもしれない。冒険者になって、高位ランカーになれば、普通の平民では想像もできない富を手に入れられる。
「コクヨウ爺さん!!」
ぼくは鍛冶屋の扉を叩いた。眠そうに目をこすっている土人が出てくる。長い髭を生やし、がっしりとした体躯をしている。じろりとこちらを見た目は鋭くて厳しかった。
「なんの用だ、ヘルンの所の坊主。パンを切るための包丁の研ぎ直しは、この前したばかりだろ?」
「いや、父さんのお使いでは無いんだ。ちょっと剣がほしいなぁって」
それを聞くとコクヨウ爺さんは眉をよせた。
「何でパン屋の坊主が剣を欲しがる。それにワシは人殺しの道具は二度と打たない決めたんだ。悪いが、売れるもんはない」
「……そこを何とか、お願いします」
ぼくが、頭を下げるとコクヨウ爺さんは面倒臭そうに、ため息を吐く。
「まぁ、事情は中で聞こう。いつまでも外に居たら、風邪ひくぞ」
コクヨウ爺さんは、暖炉で暖かい部屋の中に招き入れてくれた。雑然とした室内で、地面には鉄くずが散乱していて、壁には冷たい光を反射するカマやクワ、それに包丁も様々な種類が飾ってあった。たしかに剣なんてどこにも置いてない。
コクヨウ爺さんは、樫の木で作られたイスをぼくに勧めると、自身も反対側に座った。
「んで? なんで突然剣なんて欲しい、って思ったんだ?」
コクヨウ爺さんは、葉巻に火をつけてぷかぷかとやっている。ぼくは、目に刺さる煙に顔をしかめてしまった。それをコクヨウ爺さんは笑う。
「ごほっ、えっと。剣があれば、強くなれるかなって」
「おいおい、そりゃ筋違いだ。強さって言ったっていろいろあるが、それは本当の強さじゃない。真の強者は、心が強いんだよ」
「でも、冒険者になりたいから。剣が欲しいんだ」
「ぼ、冒険者だぁ!?」
ぼくが、言うとコクヨウ爺さんは間違えて、煙を深く吸ってしまいむせかえっていた。ごほごほ、としばらく碌な返事も出来ないでいる。
「……たっく、突然変なこと言うな。パン屋の息子が冒険者かぁ。冗談は休み休みにしろ」
「冗談じゃないっ。ぼくは本気だ!!」
「冒険者は、子供の遊びじゃない。本当に命がけの仕事だ。あんなのは普通の奴には不可能だ」
ぼくが言い募ろうとしたら、コクヨウ爺さんは、冗談じゃないと口の中で捏ねまわし、席を立ってしまった。もう話を聞いてくれないのかもしれない。
「……守りたいんだ」
「ん? 坊主なんか言ったか?」
去ろうとした足を、コクヨウ爺さんは止めた。振り返ってぼくの瞳を覗きこむ。ぼくはもう一度声を出した。
「ぼくは、大事な人を守れる男になりたい」
「ははは、そうか、そうか」
真面目に言ったのに、コクヨウ爺さんは、ぼくの目をはばからず笑い出す。ぼくのぶすっとした顔を見ると「悪い、悪い」とやっぱり笑った。
「うん、うん。坊主も成長してるんだな。なら話は変わってくる。ワシが坊主と同じぐらいの時、打った剣がある。それを貸してやろう。もし坊主が冒険者になるくらいの気概があるなら、自分の器ってモノを試してみると良い」
「器を試す?」
「そうだ。人には、一人一人役割がある。細かい歯車、大きな歯車。いろいろあるが、どれも掛け替えのないモンだ。坊主の父ヘルンの焼くパンが無ければ、村ではおいしいパンが食べられない。それも一つの歯車。坊主のなりたい冒険者も、一つの歯車だ。それが大きいか小さいかは、個人のものさしの違いだ」
「ぼくはパン屋より、冒険者になってみんなを守りたい」
「そうだな。ならその歯車になれるか、この剣で試すと良い。ヘデンの山頂には初雪が降ってからの一週間しか咲かないシレナイの木が生えている。野犬とか狼とか、冬ごもりに失敗して飢えたクマとかがウヨウヨしている。その中を一人でたどり着いて、花を取ってこい。それをワシに見せたら、ヘルンに口添えしてやろう」
「本当に?」
「あぁ、本当だ。ただしズルはならん。一人で行け」
ぼくは古びた両刃剣をじっと見つめた。手入れはしっかりされているようで、切っ先は銀色の光を鋭く反射している。ごくりと息を呑んでから、柄を握りしめた。ずっしりとした重みが肩に伝わってくる。
それを見ていたコクヨウ爺さんは、ニヤリと笑って、今度こそ部屋の奥に引っ込んでしまった。中からシャッシャと音が聞こえてきているから、何かを研いでいるだろう。
シレナイの花。聞いたことはある。すごく珍しいモノで、貴族の令嬢が高値で買っていくそうだ。乾かして粉末にしたものは、風邪にも効く薬の材料だったとも聞いたことがある。確かアランじいさんのお話にも出てきたような……。
この剣さえあれば、ぼくにだって出来るはずだ。ぐっと剣を握り締めて、重みを確かめると、村を北門から出てヘデンの山に真っ直ぐに入って行った。
***
ワシは、ヘルンの所の坊主の去りゆく背中に向かってため息を吐いた。
誰しも通る道だ。斯く言うワシも、同じ道を通って、あの剣をこしらえた。でも結局、何もかも足りないことに気がついて、素直に諦め、村の鍛冶屋になった。
ワシが良識のある大人として、子供を諭すことは大切かもしれない。だが……、口で言った所で、納得しないのが子供だ。人に言われるより自分でその事を悟ったほうが、百倍ソイツの為になる。
だからわざわざ危険が少ないとはいえ、子供にはキツイだろう条件を出した。きっと直ぐに諦めて帰ってくるだろう。
さて、まぁ、一応ヘルンにもこの事を伝えておこう。近辺は山狩りをしたおかげで、危険な動物は一匹もいなくなっている。それでも万が一ということがある。
最近痛むようになった膝に鞭打って、ワシはパン屋に向かった。
***
やっぱりお祭り騒ぎをする気分になれなくて、村に戻ってきてしまいました。今年はラウくんと一緒に回ろうと思って意気込んでいたのに、とっても残念です。家に帰りたくもないし、かと言って行商人の天幕にも行きたくありません。
自然と足が向いたのは、ヘルンさんのパン屋さん。たぶんラウくんもここにいるはずです。店の戸を開けると、扉に付けられた鈴が、からんからーんと楽しげな音を奏でます。
「ラウ!」
でも出迎えてくれたのは、難しい顔をしているヘルンさんでした。わたしの顔を一瞬見たあと、言うべきか言わないべきか、というばかりに口をパクパクさせています。
「あぁ、ミュアちゃんか。悪いけど、ラウはちょっと居なくてな」
「え? 出かけているの?」
「あぁ、コクヨウ爺さんに剣を借りて、ヘデンの山頂に行くってさ」
「えぇ!? 今、冬だよ! ダイジョブなの?」
ヘルンさんも、こればっかりは分からないと首を振っている。
「まぁ、男はこうなっちゃう時期があるんだ。放っておいてやれ。どうせすぐ諦めて帰ってくる。子供の足じゃ流石にキツい」
「……でも……」
「まったく、なにがみんなを守るために冒険者になりたいだ。こんなかわいい子を心配させて」
「ぼ、冒険者!?」
「あぁ、まったく何を血迷ったんだか。コクヨウ爺さんに、そんなことを言っていたらしい。我が息子ながら、恥ずかしい」
ヘルンさんは、はぁとため息を吐きます。
ラウくんが、冒険者? なんで突然。もしかして、わたしが『かっこいい』なんて言ったから、余計なことを考えて……。
わたしは、ただ傍に居てくれれば十分なのに。どうして分かってくれないの。これもわたしがちゃんと言わなかったからかな。国中を縦横無尽に駆けずり回る冒険者になったら、わたしと一緒に暮らせないよ。
そんなの嫌。
そうだ、わたしが迎えに行こう。それで、ラウくんを引き留めて、告白をしよう。もう先延ばししたくありません。
わたしは家に急ぎ足で戻って、防寒着をもっと着込みました。たぶん、ラウくんもそれほど高くは行っていないはずです。まだ追いつけるはず。
わたしは村の北門を出て、まっすぐにヘデン山に分け入りました。
***
足が埋まるほど積もってしまっている雪をザクザクと踏みしめながら、頂上に真っ直ぐ向かっていた。
碌に手入れされていないブナ林の間を縫って登っていく。空はどんよりと曇り、空気も刺すように冷たい。つま先にも寒さが浸食してきて、何度も諦めかけたけど、剣の柄を握ると不思議な暖かさが伝わってきて、また一歩を踏み出すことが出来た。
木の皮を剥いでいる音が遠くで聞こえる。よく見てみると、鹿が木の皮を剥いでむしゃむしゃと食べていた。草食動物がいるうちは安心だ。天敵がいないというしるし。
ぼくは傾斜角が60度もありそうな氷壁を、木を伝ってスルスルと頂上を目指す。運動は得意な方だ。剣を杖代わりにしたり、つるを支えにして登ったり、いろいろしているうちにみるみる頂上に近づいていく。
その時だ。
遠くの方で、獣の咆哮が聞こえた。思わず、鳥肌が立ててしまうような強烈な殺気。普通の動物にはない、激しい存在感。
魔物だ。たぶんこの声だとすると、ルビーウルフ。真っ赤な瞳と素早い動きを持ち味にしている凶暴な魔物だ。しかもぼくが、動きを止めているうちに、その咆哮は、後を追うように数十回続いた。
聞いたことがある。ごくごく稀な事例だけど、ルビーウルフを纏めるリーダーが現れて、魔物が群れを成すというモノだ。数年前にも一度、これに村を襲われて、人死には出なかったものの、家畜が数匹殺られ、けが人が出てしまったそうだ。
ぼくは悩んだ。今ぼくの手の中には剣がある。この剣を使えば、魔物を狩れないこともない。物語の中の勇者がクワで戦ったことを考えるとアドバンテージはあると思う。でも、ぼくが遠吠えのした方に一歩踏み出すと、手がカタカタと寒さ以外で震え始めてしまった。
左手でそれを押さえ込もうとしても、どうにもならない。十分くらいだろうか。ぼくはその場にあって逡巡した。そして諦めて、元の道を戻ることを選択した。
ぼくの詰まらないプライドでルビーウルフの群れに突っ込んで死んでしまっても、意味がない。それよりも村人たちにこの事を伝えたほうがよっぽど効率で的だ。臆病かもしれないけど、それがぼくの選べる解法に間違いない。
ぼくはぐっと堪えて元来た道を急いで戻り始めた。行きは苦労した道も走り抜ける。崖は飛んでしまった。膝を擦りむいたり、木に引っ掛かれて額から血が出てきてしまったけど、仕方がない。
「……早くしないと」
手袋をどっかに落としてしまったせいで、右手の感覚はない。たぶん凍傷になってしまっている。でも急がないと本当に大変なことになってしまう。
ヘデンの森から出ると日は既に傾いてしまっていた。夕暮れの赤みが雲を通して覗いている。ぼくはすぐさま村長の家に向かった。村の中心にある大きな家だ。一軒だけ瓦を使っているから、とても目立つ。ぼくは、外門を勝手に押し開けて、家の扉をどんどんと激しくノックした。
「村長さん! 大変です!!」
「んん? うっせぇな。酔っ払いの喧嘩の仲裁は面倒くさいから、ほっとけ」
村長の家から出てきたのは、黒髪の青年。この前まで村長だったダレット爺さんの息子のケネスさんで、まだ村長になってから六年だ。聖都の学院に通っていたらしく、経理に明るくて、みんなにも頼られている。でも少しだけ短気だ。
「違います。る、ルビーウルフがヘデンの中に居ました」
「あぁ? ルビーウルフ? そんなの当たり前だろ。この前、山狩りしたから一匹や二匹、それはいるわ」
「群れなんです!!」
そう言うとケネスさんは、胡散臭そうにぼくの瞳を覗き込んだ。
「はぁ? 俺は餓鬼の戯言に付き合っている暇はねぇ。冬の備蓄の塩と大麦を買わないといけねぇんだ。あとにしてくれ」
ケネスさんは、そのまま扉の向こうに消え去ろうとする。ぼくはダボダボとしたローブを着ているケネスさんの裾を掴んで引き止めた。
「信じてください。お願いします。このままじゃ」
「たっく、うっせぇな。なら証拠出せ、証拠」
「っ! 子供だからって信じてくれないんですか?」
ぼくがそう言うと、ケネスさんはびくりと肩を震わせて、此方を振り返った。その瞳は怒りに燃えていた。
「てめぇは何の責任も背負ってなく癖に、でけぇ口叩くじゃねぇ」
「でも……」
「なんだ? 俺の代わりに、てめぇは村の備蓄の計算をして、買い出しを済ませんてくれるのか、んん?」
「それは……出来ません」
「じゃあ、餓鬼は黙ってろっ」
ケネスさんはぼくの手を引き剥がそうとしたけど、逆にグッと強く掴んで、必死に食い下がった。
「離せっ」
「待ってください。ぼくにぼくの役割があるのと同じように、村長さんにも村長の役割があるはずです!」
「あぁ!? 一々、偉そうに。んなこと百も承知だわ」
「ぼくは何も出来ません。子供だし、剣を持っても結局何も変わりませんでした。でも村長さんは違います。ちゃんと村長の歯車として、村人を守るのが役割のはずです」
ぼくの必死の訴えにケネスさんがやっとぼくの事をまっすぐ見てくれた。ようやく同じ土俵に立ってくれたみたいだ。
「じゃあ聞こう。俺の役割は村長として村人の生活を守ることだ。ならてめぇの役割はなんだ?」
「……家族を……、ぼくを守っていてくれる人を幸せにすることです」
「はぁ?」
「力ないし、村長さんみたいに学もありません。だからせめて大人になった時に恩返しが出来るような人間になることが、ぼくの役割です」
それを聞くと険しい顔をしていたケネスさんは、一本取られたたばかりに笑い始めた。
「ぷっはは。それは役割じゃなくて当然の義務だ、餓鬼。そうだな、じゃあ、てめぇは大人しく俺に守られていろ」
「え?」
「一度だけ信じてやる。次はねぇからな。その話が本当なら、外に張られた天幕が襲われたら、やべぇーしな」
顔を引き締めて、村長の顔になったケネスさんは、キビキビと指示を部下に出し始めた。
「おい、マルーク!! お主は外の村人と行商人に、囲いのある村の中に避難しろと伝えろ!!」「了解です、村長」
「ヒルダ! お前は一軒一軒、安否確認をしろ。そして外出しないように厳命しろ!」「分かりました」
「ヨセフ、お前は隣町の自警団に早馬を出せ、明日までに、応援を連れてこい!!」「ええっと、はい」
一通り、命令を終えたケネスさんは、ふぅっと疲れたように息を吐いた。ぼくがケネスさんのさっきとは打って変わって、きりりとした様子に目を丸くしていると、ニヤリと笑われた。
「てめぇはたしか……、ヘルンのところのだったな」
「はい」
「パン屋の息子で、これか……。まぁ、もう少ししたら俺の下で働いてもいいぞ。パン屋よりはやり甲斐の仕事ができる」
「……ぼく何かで良いんですか?」
村長は、ふっと笑った。
「そんな悲観することはねぇ。てめぇは十分出来る奴だ。まぁ世の中には、てめぇより出来た奴が五万といるけどな。だが、自分の出来ることに線引きが出来る奴は、案外すくねぇ。夢はねぇかもしれぇーが、現実的で俺は好みだ」
「……でも、やっぱり断りします」
「ん?」
「ぼくがパン屋を継がなかったら、ベイルークの村でパンが食べられなくなってしまいますよ。村長さんも困るでしょう?」
「はは、違いねぇ」
ケネスさんは笑いながら「あばよ」と言って自身も村のはずれに消えていった。後ろ姿を見届けたぼくは自分の家に戻る。戸を開けると心配そうな顔をした父と母が立っていた。
「おぉ、良かった。今ルビーウルフの群れが出たって報告が来て、本当に心配したんだぞ!」
「……ごめん。でもそれを報告したのは、ぼくだ」
今の今まで買い物に出かけていた母が変な顔をして、父を睨んだ。
「はぁ!? それってどういうこと?」
「えっと、それはだな……すまん」
「あんたが許可したの?」
「いや、コクヨウ爺さんが報告に来て……」
「言い訳しないっ」
「すまん」
父はだらりと項垂れてしまった。しばらく睨んでいた母は、続いてぼくの体を丹念に調べ始めた。擦りむいてしまった膝を見て口を覆ったり、凍傷になりかけている右手を摩ってくれる。
「あんた、これどうしたの?」
「ヘデンの山でちょっと怪我しちゃって」
「まったく誰に似たのかしら」
母は父をじろりと睨みつけた。ぎくりと腰を引いてしまう父。
「父さんは悪くない。全部、ぼくが我儘言ったせいなんだ」
「良いのよ。こんなダメ亭主を庇わなくても。大人しくパン作りさせてれば良いのに。こういうのは親が引き留めなきゃダメなのにね」
「いや、これはだな。コクヨウ爺さんが勝手に……」
「だから人のせいにしない!!」
母は容赦なく、父の耳を引っ張って、つねりまわす。父は「いででっ」と断末魔も漏らすばかりで抵抗できない。父はいつも母に押しに弱い。
「本当にごめん」
ぼくは素直に頭を下げた。今回、ぼくが余計な事をしなければ、無用な心配をさせることはなかった。
「まったく。でも良いわ。生きてれば世の中、何とかなる。二度とこんなことはしちゃダメよ」
「……はい」
ぼくは素直に頷くしかなかった。もしぼくが、冒険者の器だったら、ルビーウルフに立ち向かったと思う。でも、ぼくは結局、それは無理だと思って下山して、村長に情報を伝えるにとどまった。
それはぼくが所詮、パン屋の息子でしかないということの証左だ。ぼくが感覚のなくなった右手を、お湯に浸してにぎにぎしていると、突然扉が開けられた。もう日は沈んで、暗くなってきていて、さながら吹雪のような雪が部屋に吹き込む。
雪の中に立っていたのは、それこそ雪女みたいに顔面を蒼白にしたシリルさんだった。
「ミュアは!? ミュアは来てませんか!?」
「ミュアちゃん?」
父は首をかしげたあとに、「そういえば」と続けた。
「夕方にミュアが、ラウを探しに来てたけど……まさか……」
「あんた、まさかミュアちゃんにラウの行き先、言ったりしてないわよね」
あはは、と笑いながら顔面蒼白にして、寒さ以外で震え始める父。
「おい、それじゃ、まさか。いやいくらなんでも冬の山に女の子が一人でヘデルの山に登るか?」
「……でも、どこにもいなくて」
シリルさんは、父の言葉に震え始めた。後ろからヒルダさんが現れて、その肩に手を置いて、諦めなさいとばかりに首を振る。
「……ぼくのせいだ」
「ラウ?」
ぼくは自然と駆け出していた。玄関先に立てかけていた剣を取り、まだぼくの突然との行動に対応しきれていないシリルさんとヒルダさん間を通り抜けた。直ぐに手がぼくを捉えようと伸びてきたけど、それさえも体の小回りを活かして躱す。
仲間内では有名なほっそい裏道を通り、大人を巻いてしまう。目指すはヘデルの頂上。剣の柄を握り締めると、暖かさが腕から登ってくる。
もう一度だけ、ぼくに勇気を貸して。待っていてよ、ぼくが絶対に迎えに行く。まん丸の満月の白光が差す夜。
ぼくは暗い森に一歩踏み出した。
***
日が沈んでしまってから、肌を刺すような冷気が厚い毛皮の上からでも感じてしまいます。どこかに暖かみを探して、何もない虚空に手を泳がせても、触れるのは、ざらついたブナの樹皮ばかり。いつも隣にいてくれたラウくんはどこを探してもいません。
息が真っ白に染まり、寒さが余計にわたしの心の隙間に風を吹かせて、体をカチコチにしてしまいます。言い知れない孤独感と戦いながら、わたしは必死に棒になってしまったように言うことを聞いてくれない足を前後に動かします。
そうすれば、わたしを置いてどこか遠くに行ってしまったラウくんに追いつけるかもしれない。もう一歩引いてしまったりしない。わたしはキチンとこの思いにケジメを付けないといけません。だから諦めるわけにはいかないの。
追いついたら、きっと『バカ』って言ってやるんだから。わたしをこんなにも心配させて、絶対に許してあげないの。一週間は口をきいてあげる気はありません。
もう既に半刻は歩いたと思います。標高が上がるにつれて段々、トゲトゲした枯れ葉が増えていきます。夜空を見上げれば、満天の星空。冷たく輝く光がわたしを照らしていました。
アオーン、アオーン
冷え乾ききった空気を不気味な遠吠えが切り裂きます。鼓膜を振るわせた不気味な音は、普通の狼よりどこかくぐもっていて、生気が抜けてしまっています。背筋にゾクリと冷や汗が流れていきます。なんだか分からないのに本能がうるさく警鐘鳴らしていました
「ラウくん……どこなの? ラウ……」
小声で呼びかけても返事はありません。でも言葉にしないと、もう心が折れてしまいそうで。こんな寒いところで立ち止まってしまったら、もう明日を迎えることは出来ません。でもちょうど見付けた枯れ木の虚は、身を隠すのにぴったり。ここで立ち止まったら、ラウくんには追いつけないでしょう。わたしは、また諦めてしまうのかな。そんなの嫌です。
わたしが早く連れ戻して帰らないといけません。
一歩踏み出そうとするとでもまたあの気味の悪い遠吠えが響き渡ります。もう流石に戻ったほうがいい。本能は何度もわたしに警告してきました。わたしはそれを振り払って、頂上に向けて歩みだしました。
春の暖かな太陽の下で、登った時はまるで異なっている険しさ。それが何だか思いを試されている気がして、わたしはなけなしの力を込めて、また一歩、また一歩と踏み出します。
だってラウくんが冒険者に本当になってしまったら、もう二度と会えなくなってかもしれません。そんなのは絶対嫌です。だから、山頂にたどり着く前までに止めないといけません。わたしがちゃんと気持ちを伝えれば、ラウくんだってわかってくれるはずです。
ふと後ろに気配を感じて振り返りました。捻くれた松の陰に人間くらいの薄黒い影が見えます。
「ラウ……くん?」
そこから出てきた物はラウくんではありませんでした。暗闇に真紅の瞳が怪しく輝いています。わたしは後ずさりました。
冥府の法に逆らってまで、生にしがみついた生物の成れ果て。魔物は一度生命の抜けさってしまった遺骸に残留した思念が体内の魔力を暴走させて生まれます。大抵は生への渇望に縛られ、その短い命を延命するために、生きる者たちを殺して、魔力を奪います。
「……ひっ……。……ぁ……」
薄汚れ艶のなくなった毛皮から、強烈な腐臭を漂わせながら、わたしに近づいてきます。虚ろで何も映していない紅の瞳は、わたしを通り越して、どこか他のところを見ているみたいです。
乾ききってしまった口の中で、『助けて!』とか『来ないで!』とかを言葉にしようとしたのに、意味のない言葉の揺らめきしか生みません。
一匹のルビーウルフは、わたしを甚振るようにゆっくりと近づいてきます。魔物の知能は、生前に準拠します。一匹では、襲わず仲間を待つ狼の用心深い習性。
命あるものに惹かれて、それを食いちぎるのが魔物。狙われた最後。いつまでも追いかけてきます。わたしは山頂に向かって駆け出しました。それに伴って、後ろから気配が付いてきます。わたしの足でルビーウルフを振り切れるわけがありません。
自然と涙がこぼれました。もうここで死んじゃうのかな。
そんなの絶対に嫌です。せめて、自分の思いを伝えてから。そこだけは絶対に譲れません。わたしは後ろを振り返って、ルビーウルフの生気のない瞳を睨みつけました。
まだあなたにわたしの命をあげるわけにはいかないの。
雪で分からなくなった道の地図を必死に記憶から引き出して目の前の光景と結びつけます。ここの近くには、陽光を反射する水場があって、その近くには雷に打たれて焼け焦げた倒木とそれを囲むように生えたイバラ。わたしはくるりと方向転換すると怪我をするのを構わずにイバラに飛び込みました。もう冬になって、シワシワで茶色になってしまった茎には鋭い針があります。
もちろんこれくらいのことじゃ魔物は死にません。でも知性のある魔物は、痛覚を失っているはずなのに、生前の慣習を引きずります。わたしの思惑通り、ルビーウルフはイバラに飛び込むのを躊躇いました。
その一瞬の隙をついて、わたしは一番低いところにあった赤松の木の枝に飛びつきました。枝は大きくたわんで、降り積もった雪が空中に撒き散らします。雪で視界をホワイトアウト。軽い目くらましです。
イバラの刺に切り裂かれた毛皮の太ももの付け根や手首に走る痛みを無視して、歩き出しました。どれくらい歩いて、走ったのかな。息が上がって、寒さも体の芯まで浸透してしまっています。雪の上に垂れる自分の血を見ながら、意識が遠くなって、立ち止まってしまいました。
もう限界。
周囲に助けを求めるように視線を走らせると六つの紅点が宙に浮いていました。また先ほどと同じような腐臭が鼻に抜けていきます。
今度はわたしに逃げられないように、360度囲まれてしまいました。逃げ道はありません。息をしていないルビーウルフの口からは、黒く変色した牙が覗いています。少し欠けたり、黄色くなっている部分があって、ひどくリアルで差し迫ってきます。何度も獲物に噛み付いてきた犬歯が、今度はわたしの喉笛を噛みちぎってしまう光景が、幻視されて、足の力が抜けてヘタリ込んでしましました。
あぁ、もう疲れちゃった。黒々とした樹木に囲まれたヘデル山中。空を見上げれば、まん丸のお月さま。ここがわたしの死に場所なのかな。ちょっと寂しくて、何もないところだけど、魔物にはなりたくないから素直に受け止めるしかないの。
「ラウくんのバカッ」
わたしの最後の言葉はこれでした。頭にふと浮かんだのがこの言葉。ひどく身勝手で、聞いている人がいないと意味ないのに。まだわたしは少しだけ期待しちゃっているのかな。もう無理だって分かっているのに。
わたしの声を合図にしたかのように三方からルビーウルフは飛びかかってきました。最後の瞬間まで、目を開けようとしていたけど、やっぱり怖くて目を閉じてしまいました。
ふわりと風が肌を撫でて、カチンと牙が噛み合わされる音がなりました。
***
ぼくは剣を持ったまま脇目も振らず山の中を走っていた。今日一度歩んだ道を真っ直ぐに最小限の力で駆け抜ける。一秒も無駄にできない。ヘデルの森の中は、今ルビーウルフがいる。そんなの中に生身の人間がいれば、徹底的に狙われる。他の動物よりも、魔力を多く持つ人型の生き物は魔物に狙われやすい。
「ラウ……」
そのとき、遠くの方から細いミュアの声が耳に入った。まだ大丈夫だったことに、すこし安心する。ぼくはか細い声に導かれるようにして、樹木を抜けて、走り始めた。
春の日に散策したことのある道から外れて、いばらの道を迂回すると、小さな足跡とそれを追う犬の足跡。そして点々と滴り落ちる赤い跡。ミュアが怪我をしていることに気が付いて、胸が締め付けられる。慌てて周囲を見渡すと、百メートルくらい先に、三匹のルビーウルフに囲まれて、へたり込んでしまっている女の子が見えた。
ぼくは慌てて走り始めた。口を開くのも煩わしい。剣を引き抜いて、月明かりに反射させる。長い年月を経て重厚な光を湛えている。傷だらけの刀身にぼくは幾ばくかの勇気を得て、凍傷でうまく動かない右手を庇うように両手で剣を握って、突っ込んだ。
「……。バカッ……」
三匹のルビーウルフがミュアに食いつく間際に自分の体を滑り込ました。ぼくに背中を向けていた一匹は後ろから蹴飛ばして軌道をズラし、顔を此方に向けて、口を大きく開いて噛み付こうとしていた一匹には、剣を食わせてやる。ズルっとした感覚とともに、腐った臭いが立ち上る。
問題は左横から来たルビーウルフ。剣は狼の顎に埋まってしまっていて使えないし、引き抜いていては間に合わない。ぼくは剣の柄から左手を離すと、裏拳気味にルビーウルフのミュアにかぶりつこうとする口に向かって放った。カツンっという音ともに、ルビーウルフの牙がぼくの毛皮の外套を貫通して突き刺さった。
左腕から形容のし難い激しい身を焦がすような熱さが、神経を通じて脳髄まで駆け上っていく。ギリリと奥歯を噛み締めて、痛みが抜けていくのを必死に耐え忍ぶ。既に左腕の感覚は肩の下から無くなってしまっていた。
ここで無闇に暴れても余計に牙がくい込むだけ。僕の中の冷静な部分がルビーウルフに足払いを掛けた。野犬に噛まれた時の応急手段。動物は地面から体が離れると本能的に離して、地面に立とうとする。
やはり魔物も本能には逆らえないのか、突き刺さった牙を抜いて地面に降り立った。こちらを威嚇するように、グルグルと声を漏らしている。剣を突き刺された一匹は運良く死んだみたいだけど、他の二匹は健在だ。
「ミュア、大丈夫か?」
ぼくは後ろにミュアを庇うようにしながら聞いた。左腕の激痛を無視するようにして笑顔を浮かべる。
「え? ラウくん、どうして? 夢? それとも死んじゃったの……」
「現実だよ」
ぼくは思わず笑いを漏らした。それに対してミュアがぶっーと頬を膨らませる。
「……遅いよ。……もう本当に遅すぎるんだから、バカッ」
「ごめんな。でも泣くのはあとにしてくれないか」
ぼくはまだ此方の剣を警戒して飛びかかってこないルビーウルフを睨みつけた。どうやら剣が怖いらしい。ぼくのやぶれかぶれの一撃が仲間の息の根を止めたことを警戒しているのだろうけど、それは誤解だ。あれは不意打ちだから出来たこと。それに凍傷で碌に動かない右腕とルビーウルフに噛まれた左腕では、剣は振れない。
一匹が自分たちでは手に負えないと判断したのか、仲間を呼ぶ遠吠えをする。不気味な声は、冬の山の中に響き渡り、樹木を縫って木霊する。それに呼応するように何十匹にも及ぶ遠吠えが聞こえてきた。
二匹のルビーウルフがニヤリと笑ったような気がする。まるで、もう狩ることはいつでも出来るんだ、とばかりに一定の距離を取って、ぼくたちの周りをグルグルと歩き回る。
「ぼくの後ろのいてね」
「……うん」
今のぼくに出来るのは、包囲網に一箇所だけ穴が空いてしまった山頂への道にジリジリと後退すること。
ルビーウルフが迂闊に飛びかかってこないこと確認すると、ぼくは感覚のない右手に剣を握ったまま、ミュアを一緒に走り始めた。後ろから一匹が追跡してくる。もう一匹は仲間を待っているのだろうか、その場に留まっている。
逃げたところで万事休すだ。山頂で囲まれてしまう。でも、それでも良かった。もう少しだけカッコいいところをミュアに見せていたい。左腕から血が抜けていって霞んでいく頭のモヤを振り払うように、足を動かし続ける。数分走り続けると、山頂にあっさりとたどり着いてしまった。
足を止めると後ろから追いかけてきた一匹のルビーウルフが、此方を威嚇してきて、後ろからたくさんの紅点が迫ってくる。ざっと三十匹くらいだろうか。たぶん今この山にいるすべてのルビーウルフ。
ぼくは諦めたように息を吐いた。もうどうしようもない。どんなに頑張っても、勇気を出しても何とかなるレベルじゃない。足は酷使されすぎて笑っているし、両腕とも満足に使用できない。状況は完全に詰んでいた。
「ごめん、ちょっと無理っぽい」
ぼくは何故か笑えてきた。所詮、ぼくが頑張ってもこの程度の結果しか生まない。後ろを振り返るとミュアも泣き笑いみたいな顔をしていた。この顔をあのひまわりのような笑顔に変えてやる力は、今のぼくにはない。
「そうだね。これはダメだね」
ミュアは僕の言葉に賛同するように頷く。ルビーウルフは用心深く、ぼくたちが動きを止めると、周りを囲むように展開した。ぐるりとどの方向を向いても、ギラギラと光る紅の炎が踊っている。
ふっと意識が遠のいて、自分の体がぐらりと崩れ落ちかけた。とっさに剣を杖にしないといけない、考えが巡ったのに右手は言うことを聞いてくれなかった。でも崩れかけた体は、隣にいたミュアに支えられていた。その目は見開かれて、左腕の傷を見ていた。
「この怪我……わたしをかばって……」
「良いんだよ。ぼくがそうしたかったんだ」
ぼくがそう言うと、じっとブラウンの瞳がぼくを見返してくる。いろんな感情が溶け込んで、様々な色を移す瞳にぼくはたじろいだ。
「かっこつけたって、ぼろぼろだよ」
「そんな事はわかってるよ。でも良いんだ。ぼくは満足してる」
「もうっ。どうしてそんな所で意地張るの」
「だってぼくが守りたかったのは、ミュアだし」
ぼくがそう言い切ると、ミュアは恥ずかしそうに顔を逸らしてしまった。支えて力が消え去り、バランスが少しだけ乱れる。
「こんなときに言うのもおかしいかもしれないけどね」
ミュアは月に向かって話しかけていた。ぼくからは、さくらんぼみたいに赤くなった頬が見えていた。
「わたし、結構ラウくんのこと好きだよ」
「なにそれ、結構ってどれくらい?」
「そうだね、お嫁さんになっても良いくらいかな」
ミュアは何でもないように、聞き捨てならないことをあっさりと口にした。ぼくが驚いたような顔をすると、ミュアに笑われた。
「今言ってどうすんだよ。もっと早く言ってくれれば良かったのに」
「今だから言うの。死んじゃったら言えないでしょ」
確かにその通りだ。死んでしまったら二度とこの思いを伝えられない。
「まぁ、な。じゃあ、ぼくもお返ししようなか」
「……うん!」
「ぼくと一緒にパンを焼いてください!」
「……?」
ミュアは固まってしまった。意味がわからないとばかりにぼくの顔を見た。
「やっぱりダメか。オヤジの告白これっつてたんだけどな」
ぼくは気恥ずかしくて、頭をガリガリと掻いた。それを見たミュアが突然笑い始めた。ぼくだけじゃなくて、ルビーウルフまでびくっと反応してしまっていた。
「あはははっ。こんなの時でもボケられるの、きっとラウくんだけだよ」
「ボケてないよ」
「あぁ、ごめんね。ダメってわけじゃないよ」
ぼくたちが会話をしている間もルビーウルフは、少しずつ包囲網を縮めていく。
「じゃあ、約束しよ。始祖ネス様の教えでは、魂は輪廻転生するんだって。だから、また来世で会うことができたら、一緒にパンを焼こうね」
「そうだな、パン焼いて、子供作って。平和な家庭を築いて」
「もうっ。本当に今更だね」
ミュアの透明な笑顔は月明かりに照らされて、幻想的な美しさを醸していた。それが愛おしくて、でも守ってあげられない自分が不甲斐なくて、悔しかった。
「うっ」
「うわ、男の子なのに泣いてる」
「泣いてないわい!」
ぼくが強がって、顔を上げるとミュアの頬にも涙が流れていた。
「好きだよ、ラウくん。さようなら」
「うん、ぼくも大好きだよ。またいつか……」
ルビーウルフは本当に賢いのかもしれない。しっかりと空気を読む。ぼくが抱き合ったのと同じタイミングで、ぼくたちに飛び掛かった。
やっぱりぼくは、冒険者の器ではなかった。ここで剣を構えて諦めないのが、勇者なのかもしれない。でも、ぼくはすべて諦めて、目をつむることしかできない。
ごめんね。ぼくには君を守る力が足りないみたいだ。
***
わたしは幸せです。少なくとも一人で死ぬことはありません。好きな人の腕の中で逝けるなんて、幸福じゃなくて、なんと言うのでしょう。
でも願うならば、この時間があとほんの少しでも長続きしますように。永遠にこの暖かさに包まれていられれば、わたしはもっと幸せなれたのかもしれないのに。
でも現実は無常で、一斉に雪を掻く音と共にルビーウルフが飛びかかってきました。抱きしめられた腕から、暖かさが伝わってきます。わたしは目の前にあるラウくんのサラサラとした赤髪を撫で上げました。綺麗だったはずの額には赤い線が一筋走っていました。わたしの為に急いで、木の枝で切れてしまったのでしょう
キツく閉じられた瞳の間からは涙が漏れています。わたしはその涙を指で拭き取ると、すこし背伸びをして、ラウくんの耳元に口を持って行きました。
「大丈夫、ラウくんはかっこよかった。わたしにとっては勇者だよ」
心なしか背にかかる力が強まった気がしました。
ごめんね。ずっと一緒にいられなくて。きっとほんの少しのお別れ。
***
「諦めがいささか早いぞ」
ぼくが薄目を開けると、そこには濃紺のマントを翻した金髪の青年が立っていた。月明かりに、両刃のハーフブレードをきらめかせて、一瞬にして三匹のルビーウルフを切り裂いてしまう。
絵本の中の主人公を切りとったような、爽やかな笑顔を浮かべている。
「え?」
これは幻想だろうか。どうして?
「ヒーローは遅れてやって来るってな」
そう言うと青年は、手の中に炎を呼び出して、怯えるルビーウルフに放り込んだ。小さな炎は、猛烈な速さでルビーウルフに吸い込まれると、大きな爆発を引き起こした。
今度は後ろから銀髪の女の人が出てきて、空に向かって弓を放つ。黄金の輝く弓矢は、空中で幾重にも分散して、ルビーウルフに降り注ぎ、次々と打ち倒していく。
「まったく、そんなかっこつけないでさっさとやりなさい、シュバル」
「釣れないこと言うなよ、メルン」
あっさりとルビーウルフを全滅させると、未だに状況を把握できていないぼくたちに近寄ってきた。
「怪我とかねぇーか、坊主」
「ポーションあるからね」
ぼくたちの体を勝手に点検して、怪我を見つけると緑色の薬剤をふりかけていく。ぽわっとした温かみが広がったと思った次の瞬間には、傷は嘘のように消えてしまう。
「はいっと、もう大丈夫ね」
「えっと、あなたたちは……」
「「冒険者だ[よ]」」
ぼくたちがきょとんとして、固まっているとため息を吐きながら説明を始めるシュバルさん。
「いやー。ほんと、貴族のバカ娘にシレナイの花が欲しいって言われてな」
「シュバル! 口を慎みなさい。バカ娘ではなく、ライヤット公爵の三女フィルリア様です」
「あー、うっせぇな。『わたしが欲しいって言ったたら欲しいの!!』ってわめき散らす餓鬼がバカ娘以外のなんだんだ!」
ぶちくさと仕事に文句をつけるシュバルさん。それを苦笑しながら見つめるメルンさん。そんな仲睦まじい様子をぼくたちは、見ているしかなかった。
「あなたたちもシレナイの花見ていかない? 冬のしかもこの時期しか見れないわよ」
「そうだぜ、あのバカ娘曰く『シレナイの花を入れた便箋を送ると恋が授受するの!! もちろん一番はシレナイの木の下で永遠の愛を誓うことなんだけど、わたくしの高貴な体を冬の雪山に運ぶわけに行きませんわ、おほほ』だってさ。ああ、思い出したらムカついてきた」
ぼくは、ミュアの方を確かめるように見た。繋いだ手をぎゅっと握り返してくる。
「行こう、ラウくん」
「……うん」
シュバルさんが「おあつっ」って言葉を続けようとしたけど、メルンさんに口を引っ張られたせいで、先を続けることができなかった。
昔みたいに手をつないだまま歩く。手を通して、ぬくもりと心音をつたえてくるのが、心地よくて、でもなんだか気恥ずかしくて。
見えてきたのは青白い花を咲かせている一本の木だった。満開になったばかりのはずなのに、もう雪風に花びらを散らしてしまっている。
ぼくは散ってしまった二枚の青い花びらを手に取って、一枚をミュアに渡した。
「さっきはなんか感傷的になっちゃったからさ。もう一回言い直そう」
「・・・そうだね!」
ぼくたち二人は一緒に、冷たい冬風にひとひらの花びらを飛ばした。
「……いつも守るから」
「はい、ずっと一緒にいます」
シレナイの花びらに乗せられたぼくたちの思いは風に流されて消えていった。ぼくたちは、花びらの消え去った夜闇の先をいつまでも、いつまでも眺めていた。
おしまい
さて、ここまで長い駄文を読んでくださった心の優しいお方はいるのでしょうか。きっといると信じています。その方には深々と頭を下げます。『ありがとうございました』