黒肥地 一夜
ようやく、キノコの娘が出てきます
ポタリ。ポタリ。ポタリ。
黒い雫が森に落ちる。
気品あふれる立ち姿。
着物と同じ黒い雫を撒きながら雫の主は迷いなく『小屋』にやってくると静かに扉をノックした。
「魔女様。いらっしゃいますか? 黒肥地です」
途端にカツカツと小気味良い足音が駆けてきて――
「入るんじゃないよっ!!」
威勢のいい声と共に扉は開かれ――ぽすん、と黒肥地の頭にブラウンのバスタオルが被せられた。
「――良いかい。入ってくるのはそのはた迷惑な髪をタオルでまとめてからだよっ!! タオル抜きでこの家の敷居を一歩でも跨いだら出入り禁止にするからねっ!!」
きつい言葉とは裏腹に声音には親愛の情があり、歯切れのいい言葉からは老いは感じられない。
魔女。
彼女はそうとだけ呼ばれている。
真名を知る者はいるのかどうか。
年は――良く分からない。
黒髪交じりの白髪を見ると年老いているようにも見えるが――隙のない身のこなしや引き締まった体つきからはあふれ出るような活力を感じる。
雫の主――黒肥地一夜がここに来るようになって大分長いがこの魔女が年を取ったようには見えなかった。
――まあ、それはお互い様だが。
「まったく厄介な髪だよ!! 『液化』するなんてね!!」
一夜の髪は毛先から液化する。
一夜の長い黒髪は毛先から丸い水滴となって零れ落ちていく。
振り返れば森に黒い水たまりが道を作っている。
一夜が歩いた跡だ。
貰ったバスタオルで髪を包んで纏めながら一夜は心の中で詫びる。
きっとこの森の掃除も魔女の仕事なのだろう。
本当は『あたしの森に入るんならずっとバスタオルしといで!!』ぐらい言いたいに違いない。
「バスタオルしたらとっとといつもの席に着きな!! 今日もいつものなんだろう?」
「はい、すみません。お世話になります」
バスタオルを押さえたまま一夜は礼をしてドアをくぐる。
カウンターの上に『代金』を置いて目指すはシャンプー台。一番右端が一夜の定位置だ。
深く腰を掛けて頭を台に乗せる。
はらりとめくれたバスタオルはもう真っ黒だ。
「あーあ。こんなんなっちゃって……。あんたももう少し早く来なさいよ。遠慮することはないんだからさ」
いつの間にかシャンプー台の横で腕まくりしていた魔女が言う。
「……すみません」
ここに来るのは半年ぶりか。長かった黒髪は溶け落ちて肩よりも短くなってしまっている。
淡く赤い光を放つ瞳を伏せて一夜は嘆息した。
(……ご迷惑にはなりたくないんですけど)
「まあ、良いさ。あたしに任せときな。すぐに元通りにしてやるよ。コイツで」
そう言って魔女が取り出したのは銀色の砂の沈むボトル。
魔女はシャカシャカ振って砂を混ぜてから、ねじ式のふたをくるくると開けて、水をはったシャンプー台に流し込む。
バスタオルを取って一夜の髪をシャンプー台に浸すと魔女は底から掬った銀色の砂を一夜の髪にかけ始めた。
さらさらと。
きらきらと。
一夜の髪に塗された砂は溶けるように黒く色を変えていく。
さらさらと。
するすると。
――それは魔法。
――三十分ほどで一夜の髪は腰までの長さに戻った。
ぽたぽたと垂れる雫も透明な水だけである。
「髪拭いてバーの方においで。ココアでも入れてあげよう」
「はい。ありがとうございます」
魔女は小さな銅製の鍋にミルクを注いでココアを一匙振り入れた。
砂糖はスティック二本分。
一夜がここに来るたびいつも出されるココアである。
魔女は白いマグカップにココアを注いでカウンターに置いた。
「魔女様の分は……?」
「あたしはコイツさあ」
そう言って魔女はアツアツの紅茶を注いだカップにラムを注いだ。
「アンタに飲ませようとは思ってないよ。安心しな」
一夜は下戸だ。それもかなり酷い。
一夜を知る者は言う――あれは最早別人格だと。
「魔女様。『代金』の方お気を付けて……」
「ああ、分かってるよ。コイツは明日の朝飯だ」
一夜が『代金』として持ってきたのは籠いっぱいの『ヒトヨタケ』である。
アルコールの分解を阻害するコプリンを含むキノコで酒とは相性が悪い。
「――あんたの『森』は変わり無いかい」
「ええ、魔女様のお蔭です」
魔女はくいっと紅茶を呷る。
「――ニンゲンもこれからは少なくなる。あんたの周りじゃあ特にそうだろう。気落ちすんじゃないよ」
『ニンゲン』と『森』。
その距離はだんだんと離れていった。『ニンゲン』は都会に住み『森』には近寄らなくなった。
今、『森』に近づく『ニンゲン』は老人か変わり者だけだ。
「――大丈夫ですよ」
一夜は言う。
「『森』は決して裏切らない。きっといつかそのことにみんな気が付いてくれます」
「……そうさね」
魔女はしんみりとそう言って切り替えるように明るく笑った。
「さあ、ココア飲んだらとっととお帰り!! まだまだ夜は冷えるんだ。日の暮れないうちに帰るんだよ!!」
「はい。魔女様」
そう。なんだかんだ言ってこの人は――とても優しい。
だから、もう少しだけ――。
一夜はマグカップをそっと両手で包み込んだ。