皐月の書斎
一
蒲公英の花が綿毛になる頃、暗い路地のシャッターが一つ開く。
無機質なコンクリートの景色に、空間が一つ、生まれる。
車庫のような部屋に、壁一面の書架。
中心に置かれた木製の机には常に男が佇む。
この殺風景な場所にこの空間が或る事に、不自然さはあった。しかし男はそれも、寂しさも、何も感じていなかった。
通り掛かる人に背を向けた儘、男はただ机に向かい物を書く。元より、ここを通る人間などそういない。男は時折コーヒーをすすり、それさえ無かったかのように再びペンを握った。
二
ここは何かと訊ねると、男は図書館のようなものだと言った。
書架に並ぶ本は、どれも聞いたことの無い作家のものだ。ジャンルは特に定まっておらず、装丁も実に多彩である。それらが男を見張るように、静かにそこに或る。
一冊を手に取り借りる旨を伝えると、男は初めて顔を上げた。男の風体は、三十にも五十にも見えた。
いいよ、とだけ男は呟いた。名や住所を聞くことも、書かせることもしなかった。
盗まれはしないのか。男に問うと、こう言った。
去年は、三冊戻って来なかった。
その前の年は、五冊戻って来なかった、と。
男は、少し笑った。
気味の悪さがこみ上げ、本を手にしたままこの場を後にした。
幾らかの人のように、ここに再び来ることは無いだろう。
帰路にふと本を開くと、懐かしい匂いが顔を撫ぜた。
三
本に囲まれ、男は笑みを浮かべていた。
男は机の引出から、青年が持っていった物と同じ本を取り出した。
席を立ち空いた書架を埋めると、男は満足げに席へ戻り、再び物を書き始めた。
今回は「括弧を使わずに会話を表現する」という課題で書いてみました。
実は書斎の本は全て、書斎の主である男の著書という設定です。だから、返しに来なければ来ないほど嬉しい。男が笑った理由です。
難しい課題でしたが、楽しんで頂けたのなら嬉しいです。